五条はあからさまに不機嫌さを隠しもせずに食堂の椅子に座った。朝食なら既に済ませており、今は持ち込んだプリンをぱくぱくと平らげている最中である。
どうして直哉が東京に来ているのか。いや、関係者なのだから何か用事でと言われればそれまでだが、よっぽどのことがない限り京都で事足りるはずである。がしがしとプラスチックのスプーンを噛んでいたら、目の前の椅子がぎぃっと引かれた。

「なんだよ、傑」
「面白い現場を見逃したようで残念だよ」

椅子に腰かけたのはスポーツドリンクを片手に持つ夏油だった。休日というのに朝早くからロードワークに出ていたのだ。おかげで直哉にキレるなんて醜態を見られずに済んだ。だというのに、この男は早速朝の騒動のことを聞きつけたようである。相変わらず耳が早い。
じろりと見ると、この上ない笑顔でニコニコと五条を見つめている。平素優等生を気取るこの男であるが、周囲が思うほどそうではないことを五条は良く知っていた。

「で、誰なんだい。その恋敵っていうのは」
「別にそういうんじゃねぇし」
「はいはい、そういうことにしといてあげるから。で、誰なの?」

三分の一ほど残っていたプリンを飲み物のように飲み干す。五条はイライラとした声で「禪院のクソガキ」と短く返した。

「へぇ、御三家か。そのお坊ちゃんがミョウジは自分のお嫁さんだって言い出したと」
「んな話俺全然聞いてねぇんだけど」
「一応形式上は悟がミョウジの婚約者なんだろ?」

ん。と短く肯定する。
ミョウジナマエとの婚約関係は、未だ解消されていない。そのため、家の意思で禪院家がミョウジ家との婚約関係を結んでいるということはありえない。そうであれば。

「てことは、ミョウジ本人の意思ってことかな」
「あー!もう何なんだよ!!」

五条の思考とリンクするように夏油がまさに核心を突き、五条は机に突っ伏して頭をガシガシとかいた。
直哉はナマエに対して「お嫁さんになるんやもんな」と言った。「婚約者」ではないにしても、考えようによってはナマエと直哉がそういう関係にあるとも取れる。

「うーん、ミョウジがまさか誰かと付き合ってるとは思えないけどなぁ」

ナマエはあまり器用なタイプではない。曲がりなりにも婚約関係を結んでいる相手がいるというのに恋人を作ったりするだろうか。五条の前には空になったプリンの容器が5つ転がっていた。

「ていうか、そもそも悟はなんでミョウジにああいう態度なんだい」
「ああいうって?」
「小学生が好きな子に意地悪してるみたいな感じだろ。自分から取り付けた婚約のくせに」

夏油のいつになく容赦のない言葉にぐっと押し黙る。
ナマエとの婚約は、紐解けばそもそも五条が望んで取り付けたものだった。


十年前。
御三家の集まりとやらで加茂家に招かれた。平素仲が良いとはお世辞にも言えない彼らだが、その立場から交流はそこそこにある。特に五条はその才から五条家の後継と既に目されており、会合にはやたらと連れまわされた。

「何でおれがこんなとこ来なきゃいけないんだよ…」

大人たちが議論に夢中になっているのを良いことに、五条はこっそりと部屋を抜け出して庭を歩いていた。選定の行き届いた松は見事な枝ぶりで、池にはちゃぷちゃぷ鯉が泳いでいる。
どうして揃いも揃ってこんなセンスの集まりなのか。五条の家も同系統の古めかしい日本庭園を有していた。

「…つまんねー」

今年の春から小学校に上がった。私立の男子校だ。学校に通い始めれば何か面白いことでもあるかと思ったけれど、そんな期待は早々に裏切られた。
五条の通う学校はいわゆるお坊っちゃま学校であり、周りは非術師ではあるが金持ちの子供ばかりが集まった。クラスで発言権を持つのは政治家や有名財閥の子供ばかりだった。どこも金持ちというものは似たり寄ったりなのか、親の格が子の格を決めると言わんばかりの高慢ちきな連中に嫌気がさした。
やっと、媚びへつらう大人たちから解放されると思ったのに、今度はつまらないスクールカーストの始まりである。

「あっ…!」

不意に庭の奥から声が聞こえた。幼い子供の声だ。誰かいるのか、と声の方を覗きに行くと、大きな池に向かって小さい女の子がうずくまっていた。

「どうしよう、うーん、届くかなぁ…」

少女は手近な木の枝を手に、池の奥に向かってちゃぷちゃぷ波を立てた。視線の先を辿ると、今にも沈没してしまいそうな頼りなさでハンカチが浮いている。どうやらあれを取ろうとしているらしい。

「えいっ、えいっ」

ちゃぷ、ちゃぷ。彼女の動きに合わせて波が立つが、ハンカチは一向に近づいては来ない。それどころか、もう沈んでしまいそうな始末である。小さな背中がうごうごと動く。
ついにハンカチは浮力を失い、端から転覆を始めた。

「あぁっ…!」

少女が泣き出しそうな頼りない声を上げる。前のめりになり、バランスを崩して池の方へと身体が傾く。落ちる。そう予感した瞬間、気が付くと五条は飛び出して少女の肩を引いてそれを引き止めていた。
少女は突然かけられた力に目を丸くする。五条はそのまま身に着けたばかりの術式を行使し、池の水面を歩くように移動すると沈みかけているハンカチをぴらっと拾い上げた。少女の方を振り向けば、一瞬ぽかんとした顔になったあと目をキラキラと輝かせた。

「ん」
「ありがとう!」

少女は差し出されたハンカチを握りしめ、興奮気味にそう言った。救出したハンカチはずぶ濡れだった。「濡れてるけど」と五条が言うと、少女はそんなことは構わないとばかりに首を横に振る。

「このハンカチ、お母さまがくれた大事なものなの。あなたが拾ってくれなかったら池に沈んでしまうところだったわ。本当にありがとう!」
「別に」

屈託のない笑顔を向けられるのは随分久しぶりのように思えた。
大人の媚び諂う笑い顔、その裏でせせら笑う顔。自分に向けられる笑顔は常に悪意に満ちていた。

「あなたはこのお屋敷の子?」
「いや、違うけど」
「そうなのね。私も今日はお母さまと一緒にお邪魔してるの」

五条と少女はその近くにあった腰掛け石に座った。濡れて役立たずになったハンカチをきっちりと正方形に折り畳み、自分の隣にちょこんと置く。
少女は五条のことを知らないのか、他の人間のように打算的な態度を取ることがなかった。それが新鮮で、それがくすぐったい。

「ねぇ、さっきのどうやってやったの?池の上を歩くなんて、びっくりしちゃった」
「あんなの簡単。サッてやってスッてやるだけ」
「私も出来る?」
「出来ねーと思うけど」

あくまで先ほど池の上を歩くようにしてみせたのは五条の無下限の術式の効果である。少女がどのような身の上かは知らないが、同じことをしようというのは不可能な話だ。
あからさまに彼女は肩を落として残念がるものだから、五条はつい「おれが一緒なら出来るけど」と言った。すると少女はまたきらきらと目を輝かせ、それが眩しく思えて五条はふいっと視線を逸らす。

「ほら、手離したら落ちるからな」
「う、うん…」

少女の手を取り、無限を張って池の上を歩いて見せる。見下ろした彼女の表情がまたきらきらと眩しくて、なのにどうしてだか今度は目が逸らせなくなった。
そのあと少しだけの空中浮遊を終え、母親のところに戻らなければならないという彼女を見送った。
五条はその日、自宅に戻ると一番に世話係に言いつけて少女の素性を調べさせた。加茂家の母を持つ呪術師の家の娘で、あの日は給仕に駆り出された母親についてきていたらしかった。


中学に上がるころ、両親に呼び出され、もうすぐ正式に婚約者を決めるという話をされた。候補は五条傍系の三つ年下の少女。術式は継いでいないが、呪力量が多く、その上大層な美少女らしい。それから別の分家の同い年の少女。こちらは相手方の家系の術式を継承している。そしてこっちは。それからこれは。
差し出された数冊のアルバムを退屈そうに眺める。物心がついたころから、いずれこうなることは決まっていたし知っていた。種を残すのは重大な「お役目」らしい。

「悟、お前は五条の家を背負って立つ。よい嫁を娶り、よい子供をもうけなさい」

どうして宛がわれた少女の中から選ばなければならないのか。その仕組みについては充分に理解するが、従わなければならない意味がわからない。
結婚にあまり興味はないけれど、どうせするのなら自分が良いと思った相手としたい。
ふと、五条はそこであの日出会ったハンカチの少女のことを思い出した。そうだ。あのきらきらした目をもう一度見たい。

「ミョウジナマエ…」
「え…?」
「ミョウジナマエじゃねーと俺婚約しねぇ」

目の前の両親が唖然とした顔で硬直した。
ミョウジ家と言えば、いまは加茂との縁を持つ高名な呪術師の家系であるが、御三家やその傍系には到底及ばない。後継の妻をそんな家格の低い家から娶るなんて、そんなことは許されない。
両親は怒涛の如く反対をしたが、五条は「じゃあ誰とも婚約しない」の一点張りだった。

「俺の種残しゃいいんだろ。じゃあ相手の女なんて誰だっていいじゃん」

随分我が儘な暴論だったけれど、その我が儘の暴論を通せるだけの術式と才能を五条は持っていた。
その後も何度も繰り返された問答の末、結局ナマエが想定していたよりも呪力量を有していることが決め手になり、両親が折れる形でミョウジ家に婚約の話を申し込むことで纏まった。


「悟、ちょっと待って、その話の流れでどうしてミョウジにあんな態度を取るって話になるんだ」

目の前でことの顛末を聞いていた夏油が思わずと言った風に突っ込んだ。
確かに、この説明のみに留まっていると、ナマエの気持ちがそこにあるかどうかは別にして、五条が突っぱねた理由が一切見えてこない。
自分で望み、自分で取り付けた我が儘をどうしてさも自分は認めていないという態度を取るのか。

「悟の思い通りになってるんだろ?」
「なってねぇ」
「どういうこと?」

さっぱりわからない。夏油は首を捻った。五条はじとっと意味もなく斜め下を睨みつけ、それから「あいつが…」と切り出す。

「ナマエが他人行儀な手紙寄越してくるから…」
「は?」
「あいつ、全然俺の事覚えてねぇんだよ。婚約決まって最初に寄越した手紙に初めましてって書いてあったんだぞ」
「はぁ…」

チッと大きく舌打ちをする五条に、夏油は思わず呆れた声を漏らした。いや、そもそもこの騒動そのものに呆れてはいるが、ここまでとは思いもしなかった。

「俺はずっとあいつのこと覚えてたのに、あいつは俺のこと覚えてないとか不公平だろ」
「それで、俺は認めてないなんて口走ったと…」

五条はそれに沈黙で肯定する。一体どうしたらここまで推定初恋を抉らせられるのか。あいにく夏油には一生わかりそうもない。
覚えてないと言っても、会ったのは十年前の一度きり。十年前というと、彼女はまだ六歳だ。そのころたった一回会っただけの相手を忘れていても何ら不自然なことはない。五条は、どこまでもそれがお気に召さないようではあるが。

「悟はもう少し危機感を持った方が良いね」
「どういうことだよ」
「私ならもっと上手くやるってこと」

夏油の返答に五条は大きく舌打ちをした。そんなこと出来るならそもそもこんなに苦労をしていない。
このまま放っておいて何かもっと抉れたら面倒だな。というのが夏油の率直な感想である。仕方ない、助け舟を出してやろう。

「まぁ、その禪院家のお坊ちゃまがどういうつもりかは知らないけど、いい加減にしないと本気でミョウジに嫌われるんじゃないか?」
「あいつ、俺の婚約者だし」
「だから、そうだとしても嫌われたまま結婚なんて最悪だろって話」

夏油がそう言ってやると、五条は眉間にしわを寄せる。半分脅しではあるが、半分は本気だ。いつまでも手をこまねいていては、本当に愛想をつかされかねない。世間一般の女性よりは鈍いというか、気長というか、そう言う側面があるようには思うけれど、それだっていつまでも続くわけじゃないだろう。

「いつまでもいらいらしてたって、根本的に解決しなきゃ意味ないってわかってるんだろ?」
「……俺、正論嫌いなんだけど」
「嫌いで結構だよ」

その気になればなんだって出来るこの器用な親友が、恋だけはこんなに不器用らしい。さて、ミョウジが帰ってきたらどういうふうに探りを入れてやろうかな。と、いらいらする五条を宥めて夏油は算段した。

07 い ら い ら

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