天敵、犬猿の仲、水と油。同系統の言葉を並べ、全くもってその通りだとナマエは強く頷いた。もちろん、自分と五条悟との仲の話である。
売り言葉に買い言葉で呪術高専まで入学したが、五条からの子供っぽい嫌がらせは相変わらず続いている。むしろ寮生活になったことによって増えたのだと思うほどだ。いや、確実に増えている。
幸いなことは、五条家に呼び出されていたような頃とは違って周りに同級生がいることである。五条から守ってくれるというわけではないけれど、家族とも使用人とも違う同等の立場で話をできる相手がいるのは心強いことだった。
「灰原くん、これ食べる?」
「あ、季節限定のやつだ。ありがとう」
同級生の灰原と七海は非術師の家系だった。だから五条悟という男に強さゆえの特別視はあっても、家柄などへ対するそれは存在しなかった。そのためいわばそれなりに普通の先輩後輩のような対応をするのが見ていて新鮮だったし愉快でもあった。
「ミョウジ、このシリーズ好きだよね。季節限定の毎回買ってる」
「そうかな」
「そうだよ」
奇人変人の多い呪術師の中でも、同級生の灰原と七海は常識人の類いだ。厳密に言えば多少感性がずれているところもあるが、呪術界においては充分常識人たり得る。同級生と過ごしている時間は心も穏やかで快適だった。
「だってミョウジからいつもお裾分けしてもらうもん」
「まぁ…悟くんが好きなシリーズだからかな…」
事もなげにそう言って見せたナマエを灰原は目を丸くして見つめた。特に「買ってこいと言われた」なんていうエピソードが付随してこないところを見るに、これは無意識に近いセリフらしい。
無意識でここまで言うのにな、と思うものの、それを言語化するほど野暮ではなかった。
丁度ナマエのケータイが着信を告げ、彼女らしくないJ-POPの着メロが流れる。ナマエはぱかりとケータイを開き、カコカコと文字盤を操作した。
「メール?」
「うん。悟くんから変な写メばっかり送られてくるの」
「へぇ、どんなの?」
「変なのばっかりだよ。任務先で見かけた猫が変なポーズしてるのとか、よくわかんない銅像とかそんなのばっかり」
悟くんの悪戯のひとつだよ。とナマエは言ってみせたが、灰原はちなみに一度も五条からそんな写メが送られてきたことはないし、おそらくもう一人の同期の、そこそこに五条から絡まれている七海も受け取ったことはないだろう。
「ちゃんと返信しないとなんで返信しないんだって怒られるの。自分勝手でしょ」
ナマエが仕方ないとばかりに小さくため息をついた。
今自分がどんな顔をしているのか、果たして彼女は自覚があるのだろうか。
その日は午前の座学が終わった後、七海と灰原の二人が任務に出て行った。ナマエは別件の呼び出しがあり不参加にしていて、呼び出しを終えた後は校庭で自主練をすることにした。
ナマエは父方の家系の術式を継いでおり、呪力量としても中の上程度を備えている。学生時代から一流の、と言うわけにはいかないが、鍛錬を積めばそれなりに強い呪術師になることのできる才能を備えていた。
「あれ、ナマエ留守番?」
「あ、硝子さんお疲れ様です。今日家の呼び出しがあって任務行けなくって」
「アンタも大変だよねぇ」
校庭に向かう途中で先輩の一人である家入に声をかけられた。彼女は貴重な同性の呪術師だ。
「硝子さんも留守番ですか?」
「まぁ私は留守番兼待機って感じ。あいつら今日は両方とも怪我人出そうな任務じゃないからさ」
あいつら、と言うのは五条と、もう一人の先輩の夏油のことだろう。五条は言わずもがなだが、夏油も相当優秀な能力の持ち主でナマエが知り合った時には既に一年生でありながら一級の呪術師であった。
その能力の性質から特級に分類される可能性が濃厚だと、ナマエの高専入学前に五条に聞かされたことがある。
「そういや最近よくナマエが五条の婚約者だって話聞くけどさ、あれマジ?」
「えっ、うそ、硝子さんの耳にも入ってるんですか?」
「うわぁ、マジなんだ」
隠し立てしていることではないとはいえ、同級生二人に続き家入にまでも知られていたことに驚いた。家入は顔をぐにゃっと歪めて御愁傷様とでもいうように両手を合わせた。
「三年前に家に決められたんです。悟くんには嫌そうな顔されたんですけど、どうしてだか未だに正式には解消されてなくて」
「へぇ。デカい家は大変だね」
「多分何か家同士の事情があるんだと思います」
ミョウジ家は加茂家から嫁を迎える由緒正しい家柄とはいえ、五条本家に比べればいくらも劣る。五条が難色を示したのにも関わらず正式な破棄に至っていないというのは、五条本家側のお歴々の何かしらの事情があるのだろうとナマエは考えていた。
「まぁ何かあったら言いなよ。めんどくさくない相談だったら聞いてあげる」
「面倒くさい相談は聞いてくれないんですか?」
「あったりまえじゃん」
あはは、と家入が戯けて笑った。
それにしても、三年間あまり騒ぎ立てられることのなかった話がどうして急に浮上してきているのだろう。もちろん、五条家嫡男の婚約となれば破格の話題性があるとは思うが、それなら三年前からもっと騒がれていておかしくないはずだ。
「婚約のこと、今までそんなに聞かれたことなかったんですけど…最近急に聞かれます」
「あー、なるほどねー」
何がなるほどなのか。そう思いつつ、そこで教室に戻るという家入と別れてナマエは一人校庭に向かった。
可能であれば組み手でより実践的な訓練をしたいところだけれど、生憎今日は相手がいない。ナマエはストレッチをしてまず走り込みから始めることにした。
高専の入学を意識するまでは呪力操作等の呪術的な最低限の基礎訓練はしていても、こういった体力づくりは全くしてこなかった。運動神経が悪いというほどではないけれど、同級生二人は男だし、三人の中では圧倒的にナマエが劣っていた。追いつくためには地道な努力が必要だ。
「…頑張らないと…」
悔しいならお前も高専来てみろよ。あの言葉の文脈が今ならなんとなくわかる。
悔しいならお前も高専に来て同じ土俵で自分に勝ってみろ、とでも言いたかったのだろう。現実問題、既に特級の位を冠し、無下限呪術を使う六眼の呪術師にナマエのような一介の術師が勝てるとは流石に思っていないが、それでも五条に認めさせるだけの実力をつけることがナマエのひとつの目標だった。自分にここまで負けず嫌いの性質があるとは思ってもみなかった。
走り込みにあとは筋トレ、その後に自分の獲物である薙刀の鍛錬。薙刀に呪力を込めて藁の的を発生した風の力だけで切り裂く。的はすっぱりとふたつに切り分けられたが、動いている的相手ではこんなに綺麗には切れない。
明日は任務の予定が入っているし、やはり呪術師の成長は何より実践経験がものをいう。どれだけ藁の的を綺麗に切れたって呪いを切れなきゃ意味がない。
滞空している的をさらに倍の数まで細切れにし、ナマエはそれらと向き合った。
「あっ…細かくしすぎた…」
ぽとん、と地面に落ちるころには粉々になっていて、随分広範囲に散らばってしまっている。掃除が大変だからあまり細切れにしないように注意していたはずなのに、思考が散漫になったせいでうっかりやってしまった。こうなると後片付けが大変なのだ。ナマエはため息をつきながら倉庫から箒とちりとりを持ってきて、藁のくずをせっせと集めたのだった。
「今度からはせめて木の的にしよう」
後片付けを終えたナマエは少し休憩をしようと校門近くの自販機に向かい、スポーツドリンクを購入して校内を歩いた。あてもなくしばらく歩いた先で中庭のベンチに腰掛ける。標高が高いから、夏の初めの時期でも木陰に入れば風は涼しい。
さらさら風が流れる。首元の汗がすうっと引いていくのがわかる。
「おー、お前こんなとこいたのかよ」
突然かけられた声の方を振り返ると、五条が気怠げな様子で立っていた。コキコキと肩を鳴らし、随分疲れている様子だった。
そのまま大きな歩幅でベンチに近づくとナマエに断りもなくベンチの隣に座り、ふぁぁ、と大きくあくびをした。
「何、今日は任務行ってねぇの」
「…実家から少し使いが来たから…」
「ふうん」
ナマエは退散するために立ち上がろうとして、それを阻止するように五条がナマエの太ももを枕にして横になる。ぎょっとしてスポーツドリンクのペットボトルが地面に落ちる。半分ほど残っていた中身が地面にじわりと広がっていく。
「ちょ…な、何して…」
「ちょっと寝る。15分したら起こせよ」
「えっ!何で私が…!」
「眼使いすぎて疲れた」
五条はナマエの抗議など聞くつもりはないらしく、そのままぱちりと瞼を下ろしてしまった。白い髪の感触がくすぐったい。五条に枕がわりにされていることになんか構わずさっさと立ち上がってしまえばいいのに、と思うけれど、少し隈のできた目元を見てしまうとどうにもやりづらい。
「…ばか」
その言葉に反論は返ってこなかった。代わりにすうすうと控えめに寝息が聞こえる。本当に随分と疲れていたらしい。
五条悟という男は、相変わらずどこまでも美しい男だった。出会った三年前はもっと幼さが残っていたけれど、この頃はどんどんと大人の男に近づいている気がする。それでもかけられる傍若無人な言葉は相変わらずで、変わっていくような、変わっていないような、妙な心地になった。
「黙ってれば、王子様みたいなのに」
つん、と唇を尖らせてこぼす。初めて顔を合わせたとき、こんなに美しい少年がいるのだと驚いた。無下限呪術と六眼を持って生まれた彼は、生まれながらにして特別で唯一の存在だった。
その上これほどまでに美しい見目をしているのだから、ナマエだって初めて会った時には本当に天使か何かかと思ったほどだ。もっとも、初めて会ったその日からずっと子供っぽい嫌がらせをされているために、今となっては天使というより悪魔のイメージだが。
無意識のうちに五条の白い髪に手が伸びていた。ふわふわとしたそれに触れそうになったとき、不意に背後でガサガサと物音がしてヒュッとそれを引っ込める。
「悟、こんなところに……」
「げ、夏油さん…」
「あれ、ミョウジ?」
現れたのは五条の親友である夏油であった。どうやら彼も任務から無事戻ってきたらしい。きっと後ろからは五条のベンチからはみ出した足しか見えていなかったのだろう。ナマエがいることに細い目を開いて驚いている。
「これは、えっと、その、悟くんが勝手に…!」
「ああ、大体状況は読めたから焦らないで」
わたわたと言い訳をしようとすると、夏油が手のひらを向けてそれを制する。いや、言い訳というより純然たる事実ではあるが、どうにも言い訳くさい口調になってしまった。
「最近六眼の使いすぎで疲れが溜まってるって言ってたんだ。迷惑をかけるようで申し訳ないけど、少し寝かせてやってくれないか」
「……はい。わかりました…」
夏油に人の良さそうな顔をしてそう言われるともう断れなかった。五条が疲れているのは事実だろうとは思うけれど、どうしてわざわざこんなところなのか。
「フフ、不満そうな顔をしているね」
「そりゃあ…勝手に枕にされて意味わかんないです。スポーツドリンクこぼれちゃったし、寮にも帰り損ねたし…」
「まぁまぁ。黙ってれば三国一の美形だろ」
そんな冗談を言いながら、夏油は「起きたら私のところに来てって伝えておいて」と言って立ち去ってしまった。そんなことを伝えなくても五条は夏油にべったりだろうと思ったが、ナマエは夏油によってまたしても立ち去るきっかけを失ってしまった。
さらさらと風が吹く。白い毛先を揺らし、木陰から漏れ出したささやかな光が、透き通りながらきらめいていた。
02 さ ら さ ら
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