※本編とは別の直哉婚約者設定の主人公です。本編主人公の描写はありますが、固有名詞は明記されません。




猫舌な彼のために少しだけ冷ました煎茶を淹れる。

「あら、やっと納まるところに納まったのね、あのお二人」

禪院家の広大な敷地の一角、直哉のために用意された離れに二人は暮らしていた。離れといっても、一般的な一軒家と変わらない程度の面積を有し、その中で二人だけで暮らすというのは多少ではあるがもの寂しささえあった。

「ほんまやっとやで。逆に今までよう宙ぶらりんでおったもんやわ」
「長かったねぇ」
「同棲始めて7年そのまんまとかありえへん」

文句をたらたらと並べているが、思いのほか直哉の様子は苛々としてはいない。ナマエは直哉がいかにあの二人…というか主に彼女のことを心配していたかを知っているから、ようやく納まるべきところに納まってくれて良かったなと思う。

「直哉、いつになく頑張ってたもんねぇ」
「べつにそんなんちゃうし」

つんっと唇を尖らせて見せるが、直哉が数少ない友人のためにあれこれと画策していたのはわかっていた。特に最近は京都高専まで用事を作っては足を運び、五条と関りの深い歌姫の前で「お友達枠でお妾さんにでも欲しいわぁ」と、五条に伝わるように何度も何度も言っていたのである。

「はぁ、ほんま疲れたわ。ナマエ、肩揉んで」
「嫌。私家政婦じゃないもの」
「はぁ?お前はほんっま…」
「と、いつもなら言うところだけど、直哉が頑張ってたから特別にやったげる」

ナマエは直哉の後ろに回ると、無防備に晒された肩にそっと手をかけた。禪院家炳筆頭、そんな彼にこんなにも容易く触れることが出来るのは、この世にたった数人しかいないことだろう。


ナマエは、禪院直哉の婚約者である。
禪院家の傍系に生まれたが、傍系の中でも家格はあまり高くない。なので婚約者候補として一応エントリーはされていても、補欠の補欠の補欠とか、そういう限りなく現実味に欠ける「婚約者候補」であった。
それに妙な縁が生まれたのは、ナマエが高校二年の時だった。直哉の婚約者候補である女三人が立て続けに命を落としたのだ。そうしてとんでもない繰り上げでナマエに声がかかる事態になった。

「えっ、お母さん、嘘よね?だって直哉様でしょ?どうして私なんか…」
「ナマエ、これはチャンスよ。絶対に直哉様に気に入られてきなさい」

訳の分からないまま禪院の本家に呼ばれ、窮屈な振袖姿で座布団の上に正座をした。自分の家から本家の正妻を出すことが出来るかもしれない、と両親は躍起になっていたが、ナマエは正直無理な話だろうと思っていた。
相手は炳筆頭を目されている一族の逸材である。傍系から嫁取りするのが習わしとはいえ、術式も持っていないナマエよりは相応の能力のある他家の人間を引っ張ってくる方が生産的なように思えていた。

「直哉様がお見えです」
「あ、はい…」

控えていた女中がそう言い、ぺこりと頭を垂れて出ていく。直哉には幼いころ会ったことがあるが、ここ何年も顔さえ合わせていないし、接点もない。どんな顔だったかなぁと思い出そうとしても不鮮明だし、そもそも幼少期の顔なんて二十歳になればいくらも変わっている。直哉は今年二十歳の誕生日を迎えようとしていた。
パァン、と勢いよく無作法に襖が開き、驚いてそこを見れば金髪にピアスまで開けた男が立っていた。

「ふぅん。お前が今度の婚約者か?」
「は、はい…ナマエと申します…」
「うーん、顔はなかなかええなぁ」

直哉はじろじろと不躾にナマエを観察した。跳ね上がった目尻がすうっと細められる。金色の髪は透けるようだと思った。
早く帰りたい。どうせ候補と言っても途中で頓挫するに決まっている。今日ここにきていること自体が無駄だ。

「この度は候補としてお選び下さり、誠にありがとうございます。謹んでお礼申し上げます」
「あー、ええねんええねんそういうの」

ナマエが形だけの感謝を口にすると、直哉がそれを遮って顎を掴み、半ば無理矢理視線をあわせた。思わず痛みに顔を歪める。

「俺別に、結婚とか興味ないねん。女なんてあの子以外みんな同じやろ。黙って男の三歩後ろ歩いとけばええ」

カチン。その言葉にふつふつと怒りが湧いてくる。確かに選ぶのは本家嫡男の彼だろうけれど、女なんてみんな同じなんて言うやつにどうして嫁がなきゃいけないんだ。
前時代的思想極まる御三家という認識はもちろんあるけれど、どうしてそれも誰かの代わりみたいな言い方をされなければならないんだ。それなら「あの子」とやらとよろしくやれば良いじゃないか。

「あの子っていうのがどなたか存じ上げませんけど、お嫁さん探しは他でやった方がいいんじゃないですか?私べつに何の能力もありませんし、その方の代わりになるとも思えませんので」
「はぁ?なんやねんお前…」
「だいたい、私こんなの乗り気じゃないんです。本家の相伝だっていうなら、もっといい娘を貰えばいいじゃないですか。傍系の端くれなんかより他のお家から貰ったほうがよっぽど生産的だと思いますけど」

もう破けかぶれだ。口から出てしまった悪態は留まることを知らない。適当にそれなりな呪術師の家にでも嫁ぐと思っていたのに本家の嫡子の婚約者なんて話が出て、しかも誰かの身代わりのように初対面からなじられる。もう別にここで殺されたっていい。殺せるもんなら殺してみろ。
半ば自暴自棄で、ナマエはつんとしたまま直哉を睨みつけた。すると、直哉はぽかんとした後にケタケタと腹を抱えて笑い出す。

「ははは!久々やな!その感じ!」
「はぁ?」
「やって最近みんな俺のこと怖がってなんも言うてけぇへんもん」

お前、おもろいやんか。直哉がそう言って満足そうにナマエを眺める。ここまで来ればもう知ったことではない。どうせいろんな制裁を受けることになるだろうが、ここで今更媚び諂ったところで意味もない。

「ちょっと顔と術式がいいからって誰でも言うこと聞くと思わないでください!私、あなたに嫁ぐ気なんてこれっぽっちもありませんから!」

がるるるる、とナマエはまるで噛みつくように言い捨てた。


はずだったのに、どうしてだかナマエはまた禪院家に呼ばれ、あろうことか直哉の自室に招かれた。しかも人払いも済ませ、本当に彼のプライベートの時間に招かれている。
着たくないと言ったのに訪問着をきっちり着せられ、仕方なく座布団に正座する。隣で直哉が随分と行儀悪く立膝を付き、ナマエにあれこれとお喋りをした。

「そんでな、この前東京行ったんやけどな、センター街のメインストリート、バスケットボールストリートに改名するんやって。バスケットボールストリートって何やねんって話やん」
「はぁ」
「で、友達連れて行ってきたんやけどやっぱし人多くてかなわんわ」

まるで女かと思うような調子でぺちゃくちゃと話す。男尊女卑の極みのような御三家の男でありながら、直哉はお喋りで男らしさとか硬派さだとかそういうものとはさっぱり無縁に思える。

「ほれ、これ一緒に行った俺の友達。見てみ。ここのチーズケーキ美味いねんで」
「へぇ」
「もっと興味持てや。俺の友達やで」
「いや、女の子なんだなと思って」

見せられた写真には可愛らしい女の子が写っていた。擬音をつけるならほんわりとかふんわりとかそんなところで、ぱっと見でお嬢様然としているのがわかる。これが例の「あの子」なら、ひょっとして直哉は彼女に恋をしているのだろうか。

「あの、直哉様はその子が好きなんですか?」
「は?なんで?」
「なんでって…だってすごい楽しそうにお話されてるんで…」

心底不思議そうな顔をされて、かえってこちらが困惑した。てっきり懇意にしている女性の話をこんこんとされているかと思った。もっとも、ナマエに対してそんなことをする意味はわからなかったけれど。

「…好きとかやったら、もっとラクやったやろうな」

直哉の声が響くほど静かで、思わず彼をじっと見つめた。長い睫毛が頬に影を落とし、耳たぶのピアスが少しだけ光を反射する。彼女はこの男にとってどんな存在なのか。恋をしていたほうが楽だったと思えるような感情とは、一体どんなものだろう。
踏み込めば戻れなくなる気がした。そしてそれは恐らく核心をついていた。ナマエがそっと口を開いた。


直哉のそれは、恋と呼ぶにはあまりに相手が悪かっただろう。彼女、というのはあの五条悟の婚約者であった。しかも話によると、内々には七年以上前から決まっていたらしい。
自分の感情の輪郭を得る前に相手が別のかたちに収まった。そして直哉もまた、それをおかしなことだとは思わなかった。そうして行き場を失った彼女への感情が強力な友情となって残ったのだ。ナマエはそう思っていた。

「ナマエ肩揉み上手なった?」
「あら珍しい。直哉が私のこと褒めるなんて」

気が付けば、いつの間にか本当に禪院直哉の正式な婚約者の座に収まっていた。傍系といえど術式も持っていない…などという周りの声は皆直哉が蹴散らして、今や禪院家の敷地内で枕を並べて眠っている。

「なぁ、今度悟くんたちと四人でメシ行かへん?」
「それ、悟様来るの?」
「嫁さん引き合いに出したら流石の悟くんも来るやろ」

やり口はまるで悪役であるが、直哉は性悪だからあながち間違ってもいないだろう。性悪なのに嫌いになれないのは、もはや情なのか愛なのかも分からなくなっていた。
直哉は嬉々としてどうやって五条悟を呼び出してやろうかと画策している。悪だくみをしているときにイキイキするのは出逢った頃から変わらないところである。

「遠慮しとく」
「はぁ?なんでやねん」

ナマエは、未だに彼女と顔を合わせたことはない。平均して年間3回から5回直哉が彼女に会いに行くたびにいろんな話は聞くけれど、そもそも関りだってないし会うための理由がない。それに。

「直哉にとって大事な友達ってわかってても、直哉と綺麗な女の子が一緒に歩いてるところは見たくないの」

これはきっと一生なくなることのない嫉妬心だろう。直哉にとっての一番初めの大切な人は、いままでもこれからも変わることはない。
ナマエは仕上げに両手をあわせて肩をトントントンと揉みほぐすようにして、直哉から手を離した。

「はぁ?意味わからんわ」
「直哉に女心とか期待してなーい」

首だけで直哉が振り返る。そもそも女心への理解を求めるのなら、真逆にいるようなこの男のそばにいようなんて思わないだろう。
張り合うつもりはないけれど、それでも彼女を目の前にすれば嫉妬はしてしまうだろうし、何より嫉妬をしている自分を直哉に見られるのなんて御免だ。

「ねぇ、直哉。私もチーズケーキ食べに行きたい」
「ん。ええよ。俺のとっときのとこ連れてったるわ」

どうしようもなく子供で性悪で、だけど絶対に離れることなんて出来ないだろうと思う。良い人だから好きだっていうよりも、悪いところも好きよって言える方が、何だか説得力あるでしょ。そんなふうに、誰に聞かれているわけでもないのに言い訳を考えていた。

番外編 補欠の婚約者

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