「悟くーん、もう遅刻しちゃうよー?」

寝室に足を踏み入れ声をかける。今日は珍しく五条と同じ時間に高専に向かうことになっていた。帰りは残念ながら別々になるだろうが、時間が合えば一緒に行こうと申し出たのは五条だった。

「んんっ…ナマエ?」
「おはよう。今日は高専、一緒に行くんでしょ?」
「……起きる…」

まだぼやぼやとした声で五条が返事をした。基本的に眠りが短く浅い彼ではあるが、時おり限界を迎えたように寝起きが悪くなるときがある。例の「呪詛師」の一件もあるし、何かと神経を使っているんだろう。

「ご飯食べる?」
「……たべる…」
「じゃあ、コーヒー用意するね」

単語しか返ってこない五条の様子に少し笑いながら、ナマエはキッチンに戻るとダイニングにトーストを並べてコーヒーを淹れた。あのぼやぼやした五条は数分でいつも通りに戻ってしまうから、あんな姿を見られるのはナマエだけの特権だった。
案の定、ダイニングに姿を現すころにはいつも通りの五条に仕上がっていて、ダイニングに並べられた朝食を摂ると二人で揃って高専に向かう。自家用車の運転は五条で、帰りはナマエがこれに乗って帰る。五条は任務が片付き次第、伊地知に送られてくるそうだ。


その日の任務は関東近郊の自殺の名所での呪力探査だった。発信源を突き止め、等級によって相応の呪術師に任務が割り振られる。ここで見極めを誤るとこのあと任務に入る呪術師を危険に晒すことになる。そのため、地味ではあるが非常に重要な仕事だ。
予定通り呪いの発生源を特定する。ここは雑木林の中に旧道が残っていて、しかも五十年以上前の地震で土砂崩れを起こして行き止まりになっている。そしてその足元部分が崩落して地下深くの洞窟と繋がってしまい、うっかり落ちれば二度と出られないという構造が出来上がってしまっていた。
自殺志望者のみならず、怖いもの見たさで肝試しに来た人間も行方不明になっているというのはこれが原因だろう。

「ミョウジさん、お疲れ様です」
「あ、伊地知くんお疲れさま」

高専に戻って報告書をまとめていると、隣から伊地知がコーヒーを差し出した。ありがとう、と言ってそれを受け取る。

「どうでした、今日の現場」
「陰惨な感じが凄まじかった。多分二級以上…しかも奥の洞窟が深くまで探索できなかったから、不確定要素も多い。スケジュールが調整できるなら一級術師を派遣するべきだと思う」
「分かりました。少し調整できないか確認します」

伊地知は書きかけの報告書を隣から覗き見て、早速タブレットで各呪術師のスケジュールを確認する。学生時代からこういったマネジメントや折衝に長けた後輩ではあったが、補助監督として経験を積むにつれてどんどんとその有能さには磨きがかかっている。
ディスコミュニケーション極まる五条と行動を共にすることが多いせいか人間観察も得意であるし、何かと先回りで気を利かせてくれるところがありがたい。

「五条さんなら、もうすぐ戻られますよ」
「え?」
「あれ、戻りを気にされているのかと思ったんですが…」

いや、有能すぎるのも困りものだ。ナマエ自身も意識していなかったところまで汲み取られてしまった。
こうもきっぱり言われるともう言い訳はできない。ナマエはそんなにわかりやすかっただろうかと顔を真っ赤にして伊地知に「ありがとう」と返した。
ナマエは残りの報告書を仕上げて提出し、少しだけ五条を待つことにした。

「…まぁ、ちょっと顔を見るだけだし…」

公私混同というわけではないが、こういうときは同じ職場で良かったと思う。すれ違いの多いような勤務状況でも、顔を見て一言二言くらいなら話だって出来るし、タイミングが合えば食事を一緒に摂ることもできた。五条の家に入ってしまっていてはこうはいかなかっただろう。

「あ、悟くんの部屋電気ついてる」

といっても、五条の部屋というのは語弊がある。玄関から入って一番南、空き部屋がほとんど五条の私室化しているそこにトトトと足を向けた。ちらっと顔だけ見て、このあとの仕事頑張ってね、とそれだけ伝えて帰ろう。それくらいなら邪魔にもならないはずだ。
少し驚かせてやろうと息をひそめ、こっそりと部屋に近づく。すると、中から話し声が漏れ聞こえた。五条のほかに誰かいるらしい。

「ーーって話。ほんと最近そればっかりなんだがら」

声は女だ。聞き覚えがある。この声は京都高専で教師をしている庵歌姫だ。打ち合わせか何かで来ていたんだろうか。彼女はいくつか先輩で、五条ともよく知った仲である。歌姫さんが来てるなら挨拶しなくちゃ、と一歩踏み出したところで、ナマエの足がぴしりと固まった。

「僕は、ナマエを五条の家に入れたくない」

ドクっと心臓が嫌な音を立てる。一瞬頭が真っ白になって、五条の言葉が脳の深くで何度も何度も繰り返された。
もう言葉の羅列だけでしか認識が出来なくて、なのに深く刻み込まれるように突き刺さる。これはつまり、つまり五条がナマエと結婚するつもりがないのだと、そう理解するほかない。

「はぁ?あんったねぇ、あの子がどんな気持ちでいままで…」
「僕だってわかってるよ。でも歌姫だって知ってるでしょ」

ナマエを置き去りに会話が進んでいく。ぐるぐると回る思考の中では二人の言葉がロクに理解も出来ない。鼓動はどんどん速くなっていった。もうここを立ち去ろう。そう思うのに足は縫い付けられたように地面から動かせない。

「…ナマエ?」

不意に名前を呼ばれ、はっと顔を上げた。扉を開け、きょとんとした様子で五条が立っている。ナマエの気配に気が付いたのか、たまたまなのか。

「お、お疲れさま…その、私もう上がりだから、顔だけ見て行こうと思って」
「そっか」

五条はふっと笑みを溢し、ナマエの頬をなでる。もちろん言葉の真相なんて聞けるはずがなかった。聞いてしまうのが怖かったし、怖いということは結局五条のことを疑っているということだ。それを認めてしまうのが何よりも嫌だった。

「じゃあね、お仕事がんばって」

ナマエは笑顔を貼り付け、踵を返すとなるべく早足で校舎の中を歩いていく。貼り付けた笑顔はかえって取ることが出来なくなった。


その日の晩、ナマエが今日のことを思い出しながらソファの上で膝を抱えていると、直哉から一通のメッセージが届いた。通知をタップして既読を付ける。

『東京の連中に負けるとかあり得へんわ』

交流会の結果をどこかで聞いたのだろう。とはいっても彼はそもそも御三家で京都校どころか高専そのものに属したことも無いくせに、随分な言いようである。
これ自体に大した意味はなく、ナマエに連絡を取るきっかけにしているに過ぎない。ナマエはタプタプと返信を打ち込む。幸か不幸か、五条は今日も任務で遅くなるらしい。盗み聞きしてしまった言葉の真相を尋ねる覚悟はまだできていなかった。

『でも、京都の子も頑張ってたよ』
『負けは負けやろ』

五条と同じようなことを言うものだから、また五条とのことを思い出してしまってぐっと言葉を飲み込む。
特に似ているというわけではないが、御三家の後継者同士で共通点は多い。直哉が一方的に五条をライバル視していて、五条はさほど気に留めていないというのが現実である。
直哉はずけずけとした物言いではあるが、ナマエに何でも赤裸々に話をした。学校の連中が気に入らない。もうすぐ炳の筆頭になれるが、それを誰それが邪魔をしてくる。今日初めて婚約者に会ったが、いけ好かない感じの女だった。悪いことも良いことも、なんだって打ち明けた。

『直哉くんは色んなこと話してくれるからいいね』

送信ボタンをタップしてから「しまった」と思った。こんなの何かありましたと告白しているようなものだ。しかも、こんな言い方じゃ慰めてくださいと言っているようにしか見えない。
案の定、内容を不審に思った直哉からすぐ通話が入った。この状況で居留守を使うわけにもいかず、ナマエはそろりそろりと通話開始のボタンをタップする。

「も、もしもし…」
『なんや、ついに破局か?』
「ち、違うよ…べつに、そういうことじゃ…なくって…」

何かがあっただろうということは明白で、もう言い訳も効かない。もごもごと歯切れ悪く言葉を濁し、するとスマホの向こう側でせせら笑うような空気が伝わってきた。
悲しいのか恥ずかしいのか分からなくなって、ぐっと奥歯を噛み締める。

「信じてないわけじゃ…ないの。ただ…何を信じたらいいか、わかんなくなっちゃって」

ナマエの声がリビングの四隅に吸い込まれて消えていく。「僕は、ナマエを五条の家に入れたくない」五条の言葉がリフレインした。
いままでのやり取りはまだ自分を誤魔化すことが出来ていたが、今回の言葉はそうもいかない。五条ははっきりと「五条の家にいれたくない」と、しかもナマエのいないところで言ったのだ。

『悟くんと毎日一緒におるからあかんのちゃう?』
「そんなこと…だってもう7年だよ?」
『もう7年やからやろ』

返ってきた言葉に上手く返事が出来ずに、ナマエはもごもごと口ごもった。確かに、そばにいるからこそ見えないものというものはあるのかもしれない。一体五条がどんなことを考え、どんな答えを導き出しているのか。
自分のことさえ上手く説明がつかないのだ。他人のことなんて理解出来たと思ったって所詮は自己満足の思い込みである。

「そう…なのかな…」
『せやせや。ぜーったいそうに決まってるわ』

直哉が畳みかけるように続ける。彼の言葉に全面的に賛同しようと思えているわけではないけれど、少なくとも現状は、自分が何か行動を起こさなければ変わらないように思えた。

「でも、実家に帰るのは流石に無理だよ。両親に知れて大ごとになったら困るし…」

現状を打破してみようにも、実家はまずい。まだ二人の間だけの問題だというのに、完全に不仲だと思われて家同士の問題に発展したら取り返しがつかない。それにナマエ自身の気持ちの整理を目的としているのだから、他人を巻き込む事態になるのは本意ではない。

『ナマエちゃん、京都遊びに来たらええやん』
「え…!?」
『どーせ阿保みたいに働いてロクに休んでへんねやろ?何日か休みもろて来たらええやんか』

直哉が嬉々として続ける。いわく、近々数日間自分が休みを取るらしく、そこに合わせて旅行に来いというのだ。ナマエはいくつか逡巡し、お誂え向きに「そろそろ休みをとれ」と夜蛾から釘を刺されていたことを思い出した。

『特別に俺が案内したるわ』

こうしてナマエは、二泊三日の京都旅行に行くことが半ば強制的に決定した。
ここまでぎりぎりで積みあがっているものがもうバランスを崩そうとしている。何年も自分を納得させ続けていた言葉はもうどれにも効果が望めなかった。一度始まった雪崩は誰にも止めることができない。

16 ぎ り ぎ り

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