ナマエの任務は多岐にわたるが、その術式の性質上、基本的に最前線で単独の任務を言い渡されることは殆どない。
単独で向かうのは呪物の捜索や大きな現場や面倒な現場の事前調査、前線に入るときは他に戦闘向きの呪術師と共同になることが多い。今日も小田原付近で呪物の調査を終え、ひとりてくてくと高専の敷地の中を歩いていた。

「あれ、伊地知くんお疲れさま」
「ミョウジさん、お疲れ様です」
「今日はなんだか輪をかけて疲れた顔してるね?」

伊地知はひとつ年下の後輩だ。呪術師としての適性は残念ながらなかったが、補助監督としてその才能を申し分なく発揮している。普段からあまり陽気なタチではないが、今日はまた特別暗い顔をしている。

「じ、実は任務でミスをしまして…」
「えっ、伊地知くんが?珍しいね」

話によると、今日学生と入った現場で、帳を二重にかけられたらしい。現場に入っていたのは狗巻と乙骨で、負傷はあったものの任務自体は収束させることが出来たらしい。
問題はそんな面倒なことをしたのが誰か、ということだ。領域ではなく「帳」を降ろす呪霊は聞いたことがない。順当に考えて呪詛師が関与していると見た方が現実的だろう。

「残穢が追えれば私も呪詛師の特定に協力出来ると思うんだけど…」
「五条さんが現場に向かったそうです」
「そっか、じゃあ悟くん待ちだね」

学生が被害に遭ったとあって、既に五条が動いているらしい。呪詛師捕縛にナマエの術式が必要であれば五条から話が入るだろう。未だ暗い顔のままの伊地知に「幸い学生二人も戻ってこれたんだから」となんとか慰めの言葉をかける。

「あれ、もしかして悟くん、狗巻くんと乙骨くんに会わずに現場見に行っちゃった?」
「はい。私が現場から報告してすぐに現場に向かったそうですが、学生二人は治療のために高専に送迎しましたので…」
「じゃあ私二人の様子見てくるよ。乙骨くんはこの前任務一緒になったばっかりだから、知らない呪術師ってわけでもないし」

ナマエがそう言うと、伊地知は「よろしくお願いします」と頭を下げる。とくにこういったことがナマエの業務に含まれているわけではないが、五条の可愛がっている学生たちなのだから自分だってなるべく目をかけてあげたい。
二人はまだ医務室にいると聞き、その場で伊地知と別れて途中自動販売機に寄ってから医務室を目指す。辿り着いた扉の前でコンコンとノックをすると、中から乙骨の声で「は、はい」と返事があった。

「お邪魔します。二人とも起きてるかな?」
「ナマエ先生!」
「しらす!」

引き戸を明けると、ベッドの上に狗巻が、その隣の椅子に乙骨が座っていた。二人とも目を覚ましているようで、一目でわかるような大きな怪我は負っていないようだった。
ホッと胸を撫で下ろしながらとことこと二人に近づく。医務室の主は不在のようである。

「硝子さんは出てるのかな?」
「さっき補助監督のひとに呼ばれて出て行きました」
「そっか。相変わらず忙しいなぁ」

ナマエは途中の自動販売機で調達したペットボトルを二人に手渡す。「大したものじゃないけど差し入れどうぞ」と言えば、二人とも快く受け取った。

「任務大変だったって伊地知くんに聞いたよ」
「僕は全然…狗巻君がすごかったから…」
「おかか。こんぶ!すじこ!」
「ふふ、狗巻くんは乙骨くんも頑張ったって言いたいんだねぇ」

ナマエがそうフォローすれば、「しゃけしゃけ」と肯定の意が返ってきた。詳しいありさまは二人の報告書と伊地知の報告書を読んでみなければ分からないが、少なくとも呪詛師の意図的な関与のあった任務を学生だけで、しかも一年生が処理をしたのだ。二人とも相応に能力を発揮したのだろうということは容易に想像がつく。

「あの、ナマエ先生もどこか悪いんですか?」

乙骨がそう尋ね、ナマエはきょとんと首をかしげる。なるほど、医務室には別の用事があって来たと思われているのか。

「ううん。私は五条先生の代わりに二人の様子を見に来ただけ。というか、私教職じゃないから先生って呼ばれると照れちゃうなぁ」
「えっ、てっきり先生なのかと…」
「違うよ。高専所属の普通の呪術師です」

一番初めにろくな説明もないまま同行任務があったから、乙骨の中では教職のポジションに分類されていたらしい。とてもじゃないが、後進の育成なんて上手にできる気がしない。もっとも、より後進の育成に適していなさそうな五条が実際は教師をしているのだから、何とも言えない話ではあるけれども。

「教職ではないけど、お歴々よりは何かと聞きやすいと思うし、何でも言ってね」

ナマエがそう言うと、ほろっと顔を綻ばせて乙骨が笑った。彼のバックグラウンドについてはもちろん聞き及んでいるが、見れば見るほど普通の学生である。

「しらす、高菜」

狗巻が口を開く。しらす、というのはほぼナマエを指す固有名詞だということは知っているので、これはナマエに対する呼びかけだ。
残念ながら狗巻の言葉の中身までを察してあげられるほど親しいわけではないから、何を聞きたいのかをジェスチャーでも加えてもらうつもりで「なぁに?」と問いかける。
すると、狗巻が目元にくるくる包帯を巻くような仕草をした。これは五条の事だろう。それから左手の甲を縦向きに胸の前で構えてみせる。まるで婚約会見の……ああそうか、きっと乙骨に自分と五条の関係についての話でもしたんだろうな、と思い至り、ナマエは少し的外れになるかもしれないが、と思いながら言った。

「五条先生と私ね、婚約してるの。五条先生は私の高専のひとつ先輩で、学生時代からの付き合いなんだ」
「すごく仲良いんですよね、もうほとんど夫婦だって真希さんたちが言ってました」
「あはは、そう見えてるんだ?」

一瞬口ごもりそうになって、慌てて言葉を続ける。大人として学生の前でこんなみっともない私情を晒すわけにはいかない。
別に乙骨の言葉は嘘ではないだろう。仲が良いという自覚はあるし、事実ナマエよりも近しい位置にいる女性はいない。しかしその関係性に「夫婦」と評されるだけで、ナマエの心に何とも言えないモヤが広がる。卑屈な被害妄想だとは、わかっているけれども。

「五条先生ってあんまり結婚とかのイメージなかったから、すごくびっくりしました」
「あの人確かに浮世離れしたところあるからね」
「浮世離れしてるのはあんたもでしょ」

背後から第三者の声がかけられ、ナマエは振り返って「硝子さん!」とその名前を呼んだ。どうやら用事とやらから戻ったらしい。

「ナマエ、珍しいね、怪我でもした?」
「いいえ。狗巻くんと乙骨くんが医務室にいるって聞いて」

ナマエがそう説明すると、納得した様子で「なるほどね」と言った。家入は狗巻のベッドに歩み寄り、脈をとって角膜を確認し、異常がないかを見極める。差しあたっての問題はないようだ。

「狗巻、乙骨、戻っていいよ。パンダが呼んでた」
「え、本当ですか?」
「すじこ」

家入のお許しが出た狗巻と乙骨はいそいそ身支度をして、二人にぺこりと会釈をすると医務室をあとにした。それを見届けてから家入が「コーヒー飲む?」と尋ね、だったら自分が用意することを進言して医務室の奥の簡易キッチンを借りる。
勝手知ったるそこで二人分のコーヒーを淹れると、デスクチェアに腰かける家入にひとつを運び、近くの丸椅子を引き寄せてナマエはそこに座った。

「様子見に来るなんて、五条の代わり?」
「頼まれたわけじゃないですけど、何となく気になっちゃって」
「なんだかんだずっと仲良くやってんね」

ふっと家入が笑みを溢し、マグカップに口をつける。仲良くやっている。そう、誰にだってナマエたちの関係はそう見えるし、ナマエだって概ねそうだと思っている。いつもなら気にならないことを気にしてしまうのは他でもない、直哉にあれだけ分かりやすく煽られたからだ。

「…なに、すごい険しい顔になってんじゃん」
「えっ、あ…そんなつもりじゃ…」
「五条となんかあった?」

家入に指摘されて、慌ててむにむにと自分の頬をつねる。そんなに分かりやすい顔をしてしまっていただろうか。

「べつに…何ってわけじゃないんです…」
「で?」
「…ただ、ちょっとその……私たち、まだ籍を入れてないじゃないですか…」

ナマエは口ごもりながらそう続ける。この手の話はもうすでに家入に何度も相談している話であり、相当に今更だった。家入は「またその話か」という態度でコーヒーをずずっと啜る。

「定期的にその話になるよね、あんたたちは」
「うっ、すみません…」
「根本的に解決しないと解消しないんじゃない?」
「仰る通りで…」

結局心のどこかに引っかかり続けてそれを誤魔化して放置しているだけなのだから、いつまでたってもこうして問題はぶり返す。
ナマエはため息が出そうなのをコーヒーを飲んで有耶無耶にしようとしたが、熱くて舌先を火傷した。

「私の統計によると、大体年に一回くらい家の行事とかお歴々との面会とかでこうやってぶり返しているパターンが多いんだが…今回は一体どうしたの?」
「…直哉くんです」
「へぇ、京都のクソガキか。それは予想してなかったな」

ここまで言ってしまったんだからいっそ相談してしまおうとナマエは頭の中で言葉をまとめる。もとより相談事を持ちかけられる相手なんて家入くらいしかいない。

「遊んでいたいわけでもない、より良い家のお嫁さんを探すまでの繋ぎでもない。だったら一体婚約者と10年以上結婚しない理由ってなんだって。言われて、何にも答えられなくって」

言っていて情けなくなってきた。今度は火傷をしてしまわないようにふうふうと息をかけて冷まし、慎重に黒い液体を啜る。
何も言わない家入をちろりと見上げる。流石にもう何年も同じようなことを言い続けて呆れられてしまっただろうか。想像とは裏腹に、家入は愉快そうににやにやと笑っていた。

「ははは、ついに禪院のお坊ちゃんも実力行使か」
「あ?どういうことです?」
「いや。あの自己中の塊みたいなお坊ちゃんも、友情には篤いんだなと感心してるだけ」

さっぱり答えになっていない。ナマエは情けなく「あぁぁぁ」と声を落とした。

「硝子さん、何かわかったなら教えてくださいよぉ…」
「嫌だよ。まだ色んなもの敵に回したくないからね。まぁ、五条本人に突撃してみるもの、悪くはないんじゃないの?」
「それが出来ないからずるずるこんなことになっちゃってるんですが…」
「ははっ、ま、どう転んでも私はナマエの味方だから」

結局何の解決もしないまま、コーヒーはすっかり飲み干してしまった。それでも誰かに聞いてもらえただけきっと気は楽になっているだろうとなるべく前向きに考えることに努めた。


その日、遅くなると連絡があった五条を12時までは待っていようとリビングのソファで丸まっていると、うとうとしているうちに12時をまわってしまっていた。五条はまだ戻らない。

「ん…まぁ、話は明日かな…」

家入とあんな会話をしたこともあって、少しだけ自分のどうしようもない考えを五条に打ち明けようかと考えていたのだ。エスパーじゃあるまいし、しっかり口にしなければ相手には伝わらないものである。
そうは思っていたが、明日は任務がある。そもそも「遅くなるから先に寝てて」とメッセージも入っていることだし、歯磨きをして寝てしまおう、と立ち上がると、ちょうど玄関のキーレスロックが開く音がした。
五条だ。そう思い、ナマエは玄関に駆け寄る。「おかえりなさい」と声をかけようと口を開いたが、普段とは明らかに違う重苦しく険悪な雰囲気に思わず飲み込んだ。

「……ああ、ナマエ、ただいま」
「お、かえり…なさい…」

ナマエの顔を見るや否や、五条はその厳しい顔を引っ込め、少しだけ頬を緩める。何かがあったことは明白で、ナマエは何とか声を絞り出し「大丈夫?」と口にする。ダメだ、聞き方を間違えた。これは相手に「大丈夫だよ」と言わせるための聞き方だ。

「…大丈夫」
「なにか、あったんだよね…?」
「…うん。でも本当に大丈夫。起きててくれてありがと」

五条が指の背ですっとナマエの頬を撫でた。その「何か」をナマエに言うつもりがないらしい。五条は特殊な立場にある。言えないことがたくさんあるのも理解している。けれど、こんなに疲れた顔をしている彼の荷を、自分はひとつも支えてやることが出来ないのか。そう思い知る無力さは、いつだって歯がゆくて苦しい。

「……ご飯食べてきた?コンソメ煮あるけど、あっためようか」
「ん。ありがと、助かるよ」
「じゃあ、ダイニングのところ座ってて」

そのたび、自分が抱えている小さな不安とか、些細な不満とか、そういうのは飲み込むべきだと思った。五条が一体何を考えて婚約者という立場を続けるのかはわからないけれど、これに愛がないわけではないのだ。
ぐつぐつと煮込まれる野菜を見下ろしながら、今回もやっぱり「どうして婚約者のままなの?」という質問は、投げかけることが出来ないままになった。

14 ぐ つ ぐ つ

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