拝啓、ミョウジナマエ様
秋が深まり、夜の寒さが強まって参りました。
さて、こうして私がペンをとりましたのも随分と久しぶりのことであり、手紙というものの書き方もすっかり取り忘れている次第であります。
どうにか心緒を書き起こそうと致しましても、なかなか思うようには参りません。ナマエさんは何度もこうして便箋に向き合い、何度も書き上げていたのだと思うと、平身低頭するほか御座いません。
三年前、ナマエさんから手紙を頂いた折、あまりの字の美しさに驚いたことを今でもよく覚えております。あの頃は手紙と言えば親類の堅苦しいものばかりでしたので、女性からの個人的な手紙をああして受け取ることは初めてだったのです。
返事を書くことのできなかったあの手紙を、実のところ私はまだ机の引き出しの中へ大切に仕舞っており、意気地なくも時々取り出しては何度も何度も読み返しているのであります。


ナマエは訳も分からないまま走っていた。夏油に追いかけろと言われたからだ。
そもそもどうして五条は逃げているのか、何故夏油ではなく自分が追いかけなければいけないのか。

「悟くん!」

本気で五条が逃げるとして、ナマエが追いつけるわけもない。足の長さも走るスピードも何から何まで違う。五条の背中がどんどん遠のいていく。
ついには姿も見えなくなり、ナマエは息を切らしながら足を止めた。もう五条がどちらに向かって走って行ったかもわからない。

「はぁ、はぁ…会って、なにを話せば…いいんだろ…」

そうだ。追いついたところでどうしていいかなんて自分には分からない。夏油が追いかけるか、寮に戻ってくるかを待つのが賢明な策ではないのか。夕陽が長く影を伸ばす。
ふと、視界の端に紙切れのようなものが落ちていることに気が付いた。誰かが捨てていったのだろうか、と屈んで近寄って拾い上げると、それが破かれた手紙であることに気が付いた。
白く飾り気のない封筒と便箋で、美しい字が行儀よく並んでいる。ナマエはこの字に見覚えがあった。

「さ、悟くんの字だ…!」

間違えるはずがない。なぜならあれだけ欲しいと焦がれた五条の手紙だからだ。
破かれた手紙の左右をピッタリとあわせる。そうすると、普段の様子からは想像もできないような育ちの良さを思わせる端正な文章が浮かび上がってきた。

『拝啓、ミョウジナマエ様 秋が深まり、夜の寒さが強まって参りました。さて、こうして私がペンをとりましたのもーー』

ナマエははやる気持ちを押さえて手紙を読み進めていく。その手紙は間違いなくナマエに宛てて書かれたものであった。
文字はどんどん続いていた。畏まった文面なのは、手紙の始めにもある通り書きなれていないからなのかもしれない。

『ーー結局のところ、私はどんな言葉を尽くせば良いのか検討もつきません。ただこの手紙を書くにあたってどうしてもこれだけは伝えておかねばならないことがあります』

言葉は不器用だった。あまりにもかけ離れたお手本のような言葉遣いに手紙からはまるで五条の声が聞こえてこない。
それでもこの先の一節だけは、五条の声が聞こえてくるように思われた。

「ーー私はあなたが好きです」

ナマエはそっと文字をなぞる。夢みたいだ。これは現実だろうか。自分が見ている都合のいいまぼろしではないのか。
ざり、と背後で砂を踏む音がする。

「ーーナマエ」
「さとる、くん…」

振り返ると、そこに五条が立っていた。
五条はナマエが自分の手紙を持っているということに気が付き、途端に顔を顰める。それから不機嫌さを隠しもせずに舌打ちをした。

「それ、読んだのか」
「う、うん…ごめんなさい」

まるで手紙に書いてあることは全て嘘であるかのような態度に一瞬怯む。ナマエが「あの」と口を開けば、先を遮るように五条が「お前は」と口火を切った。

「お前は、傑のこと好きなんだろ」
「え?」
「誤魔化すなよ。さっき聞いたし」
「な、なんのこと…?」

さっき、さっきとはいつの事だろう。そんなことは言った覚えがないし、そもそもナマエが好きなのは五条なのだからそんなことがあるはずがない。
必死にそれらしい記憶を辿ると、先ほどのグラウンドからの帰り道で交わした会話を思い出した。「……ミョウジ、本当に悟のことが好きなんだね」そう言われ、ナマエは「はい。好きです」と返事をした。まさかそんな言葉尻だけ聞いてこんなことを言っているのか。

「知ってたらこんな手紙書いてねぇっつうの。なんだよ、結局煽っといて傑のことが好きとか、そんなオチありかよ」

五条は苛立った様子で言葉を続けた。早く訂正しないと。よろよろと立ち上がれば、眼前まで五条が威圧的に立ちはだかった。

「その手紙返せよ。さっき捨てたのに勝手に拾うな」
「いっ、いやだ…!」

手紙をひゅっと引き抜かれそうになって咄嗟に胸の前で抱える。渡してなるものか。だってこれは、あれだけ待ち望んでいた五条からの手紙だ。絶対に、絶対に渡したくない。
五条がまた大きく舌打ちをする。揶揄っているのではなく本当に怒りと苛立ちが滲んでいる。こんな感情を向けられたのは初めてで、いままでの態度なんてすべて本気じゃなかったのだと思い知った。

「なんだよっ…返せって…!」
「やだ!」
「なんっでだよ…!」
「だって…私も悟くんのこと好きなんだもん!」

もう勢い任せで、なんとか言葉を吐き出した。手紙のように選び抜いた正確で綺麗な言葉で伝えようなんていうのも、今だけはどうでもよかった。勘違いされたくない。自分が好きなのは五条悟なのだと知ってほしい。

「ハァ!?けどお前さっき…」
「夏油さんと悟くんの話してたの。夏油さんに悟くんのこと好きなんだねって言われて、それで、はい、好きですって…」
「は?なんっだよそれ…はぁ!?」

ことの顛末を話せば、五条がドッと脱力した。そのあと崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込み、がしがしがしと無造作に白い髪をかき乱す。隙間から覗く耳が真っ赤になっていることに気がつき、ナマエもすぐそばにしゃがんだ。

「あー、嘘だろ。こんなベタなことって…」

夏油とまったく同じ台詞をいうものだから、思わずくすくすと笑う。じろっと物申しだげにナマエを見たけれど、それからすぐに視線は逸らされてしまった。
躊躇うように少し息を飲んだあと、ハァっと腹の底から全てを吐き切るようにして、聞こえるか聞こえないかもわからないほどの小さな声で切り出した。

「ほんとは、ナマエの手紙、全部捨てずに取ってる。お前がすげぇ他人行儀な手紙送ってくるからムカついて…返事しなかったしあんなこと言った」
「他人行儀って…初対面のひとに丁寧なお手紙送るのは当然でしょう?」
「だから初対面じゃねぇつうの」

初対面のはずだ。ナマエが五条の屋敷に行ったのは婚約を決められて一年後のあの日が初めてだった。まさか五条家の嫡男がミョウジ家にくるはずもないし、それなら早々会うような機会もない。
うんうんと唸りながらナマエが思い出そうと努めていると、五条が呆れ混じりにまた大きくため息をつく。そんなにため息をつかれたって、ない記憶は思い出しようもない。

「マジで覚えてねぇのかよ。加茂の家でお前のハンカチ拾ってやったのに」

加茂家、ハンカチ、もたらされた二つの単語を頭の中で組合せ、記憶の糸を辿っていく。そんなことがあっただろうか。いつだろう。しかも五条がいただなんて。

「あっ…」

ひとつだけ、思い当たったことがあった。幼過ぎて記憶は曖昧だが、確か小学校に上がる前、加茂の家で大事にしていたハンカチを池に落としてしまったことがあった。
その時屋敷にいた知らない男の子が、池の水面に沈んでしまいそうなハンカチを拾ってくれたのだ。あれは、あれは五条だったのか。

「思い出したかよ」
「う、うん…たぶん…」
「多分ってなぁ」
「だ、だって…小さいころのことあんまり覚えてないんだもん…」

ナマエがはっきりといろんなことを覚えているのは小学校に入ったあとあたりからで、それまでの記憶は全体的にうすぼんやりとしていて明確に記憶しているのなんて少しだけだ。五条が不満げに「俺は覚えてるのに」と言うから「悟くんと一緒にしないで」と言おうとして、彼の言外の訴えに気が付く。

「…悟くん、私が忘れちゃってたからずっと怒ってたの?」
「…別に」
「やっぱりそうなんだ」
「別にって言ってるだろ」

強い語調だったけれど顔を真っ赤にされてもちっとも怖くなかった。五条の顔は赤くなっていて、夕陽だって赤いけれどもきっとこれは夕陽のせいではないことは明らかだった。ひゅっと風が吹く。

「…私、悟くんはずっと手紙読んでくれてないんだろうなって思ってた」
「はぁ?全部読んでるわ、ばーか」

ナマエがそろりと手を伸ばすと、彼の手に到達する前にぱっと攫われてしまった。五条の大きな手がナマエの手を上から握って、色気のかけらもない子供じみた握り方だというのにそれだけでどうしようもなく心臓が脈打つ。
また風がひゅっと吹き、ナマエの左手に握られた手紙をかさかさと揺らした。

「ねぇ悟くん、手紙のお返事書いていい?」
「……手紙とかめんどくせぇし、会って話せばいいだろ」

五条がつんっと突っぱねて、ナマエは口先を尖らせる。そんな言い方をしなくてもいいのに。そう思っていたら、ナマエの手を握る五条の力が少しだけ強められた。
そっと五条の方を見れば、青い瞳がふるふると潤み、ちらっとナマエを見てからまたすぐに逸らす。

「…でもまぁ、時々なら返事書いてやらなくも…ないけど」

そうやって逸らしたって耳まで真っ赤になってしまっていては、彼がどんな気持ちでいるかなんて明らかだった。夕陽が長くふたりの影を伸ばす。影も仲良く手を繋いでいた。


手紙の返信のタイミングで五条と正式に交際を始めたということを直哉に伝えたら、珍しく電話がかかってきた。ありえん。ナマエちゃんホンマ見る目ないな。俺と遊ぶ時間なくなるやん。と矢継ぎ早に言われ、最後には「俺は認めへんからな」と、頑固親父のような台詞が飛んできたものだから思わず笑ってしまった。

「おいナマエ」
「もう、食べたいなら自分で開ければいいでしょ」

高専の談話室のソファに座っていると、その後ろに立っている五条がぐいっと背後から顔を近づける。相変わらずの我が儘にナマエはハァと息をつきながら個包装になっているチョコレートの包みを端からピリッと袋を破いて中身を取り出した。

「これまたミルクじゃん。俺いちごの方が好きなんだけど」
「だっていちごは昨日悟くんが全部食べちゃったでしょ」

五条の言う通り四角い何の変哲もないそれはミルク味で、五条が気に入っているらしいいちご味は昨日食べ尽くしてしまったのだ。そのくせ当たり前にそんなことを言うものだから、ナマエは「いらないならあげない」と言ってチョコレートを自分の口に放り込んだ。

「あ、おい俺のチョコだろ」
「違うよ、私のだもん」

つんっとした態度で言ってやれば、五条はご機嫌を損ねたのか「ナマエ…」と小さく低い声で溢し、それからナマエの細い顎を引っ掴むと上から覆いかぶさるように唇に噛みついた。

「んっ、んんっ…!」
「あっま」

五条は唇をついばむようにして去り際にぺろっと舌で表面を撫でた。上下さかさまで向き合うような形のままで、ナマエの目の前には先ほど自分の唇を奪ったばかりの五条の形の良い唇がにやりと三日月形になっている。

「ちょ、ちょっと悟くん…!こんなところで…!」
「別にいいじゃん。今日俺たちしかいねーし」
「そういう問題じゃない!」

もちろんそんな主張など暖簾に腕押しで、五条はへらへらと笑ったままソファの背を飛び越えてナマエの隣に座った。ナマエが「お行儀悪いよ」と指摘してもどこ吹く風である。
短く「ナマエ」と名前を呼び、ナマエは仕方ないとばかりにまたひとつチョコレートの包みをぴりっと破る。その中から四角を摘まみ上げれば、五条の唇がぱくりと当然のように攫って行ってしまった。

「自分で食べればいいのに」
「…お前、それずっと分かってて言ってんの?」
「え、何が?」

今度は五条がハァと大きなため息をついた。ため息をつきたいのはこちらの方だ。もう一度「ねぇ、何が?」と尋ねてみたが、五条は「教えてやんねー」と言って黙秘してしまって、結局何のことだかさっぱりわからない。

「悟くんのいじわる」
「ナマエがトロいから悪いんだろ」

なんだかんだと言われても、どうしたって言うことを聞いてしまうのはいわゆる惚れた弱みというやつだろう。この面倒な感情も全部くすぐったくって心地がいいんだから、恋というものは実に盲目的なものである。

「…あー、七海、コレ僕ら絶対帰るタイミングないよね?」
「…諦めましょう。麓までラーメン食べに行きますか」

談話室の扉の向こうから呆れまじりに同級生からそんなことを言わているとは露知らず、ナマエは五条と結果の分かりきっている予定調和の攻防を続けた。 
例えばチョコレートがいつもより甘く感じること、例えば顔を合わせていない間も相手のことを考えてしまうこと、例えば一緒に見た朝日が何よりも綺麗に見えること。
目の前の景色をいとも簡単にきらきらさせてしまうだなんて、これはとてつもない魔法だと思う。

「悟くんがいると毎日きらきらになってくの、不思議ね」
「恥ずかしいこと言ってんじゃねーよ」

五条がナマエに身を寄せ、ナマエはそれに体を預ける。チョコレートの甘い香りが、どこからともなく漂っていた。

10 き ら き ら

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