07



小樽とは反対側に山を降りたナマエと尾形は東に向かった。どこに行くのかと尋ねると、尾形は「茨戸だ」と短く答えた。茨戸というと、小樽から東へ40キロほど離れた河港の街である。

「茨戸に多少有力な話がある。まずはそこで物資の調達と情報収集だな」
「情報収集、ですか…」

沿岸沿いの道を歩く。春の海は凪いでいた。情報収集という言葉を復唱した。一体何の情報を集めるというのか。尾形の目的をまだ知らされていない。鶴見から造反して何をするつもりなのか。

「あの…二階堂さんは…」
「あいつは元々計画になかった。死んでなきゃ今頃鶴見中尉に取り調べを受けているかもしれんな」

尾形の声音は極めて平坦だった。この男は、計画のためにそのほかのものを利用していく冷徹さがある。熊に襲われた二階堂の叫び声が聞こえたとき、もっと早く撃てたはずだ。そうしなかったのは戦略的に二階堂を犠牲にしたとしても谷垣を仕留めたいと考えていたからだろう。

「怖くなったか?」
「…最初からずっと怖いです」
「ははぁ、だろうな」

左手から波の音が聞こえる。自分に利用価値はない。特に鶴見に対する人質として機能するわけではないし、戦力にもならない。現に先ほども足を引っ張り、盾にするにしても効率が悪すぎる。そう考えると、自分を連れ出した意味はもっとわからなくなった。

「どうした、少し休むか?」
「いえ、大丈夫です。茨戸ってどのくらいで着きますか?」
「一日歩きとおせば着くが…その手前で野営して少し様子を探ってから街に入る」

わかりました。とナマエは頷いた。小樽を出るのは、函館から薬店に引き取られて初めてのことだった。


予定の通り一日歩きとおし、茨戸を目前にした山中で野営の準備にかかった。準備と言っても、ナマエに野営の経験はなく、尾形に言われるがまま薪や寝床の準備をするばかりであった。
焚き火を囲みゆらめく炎を見つめる。昨日と違って火がある分寒さはマシなはずなのに、今日の方が寒く感じる。

「…寒いか」
「あ、はは…すみません…昨日は、あんな感じだったので…その、気が抜けてしまったのかもしれません」

言い訳のように捲し立てるナマエを一瞥し、尾形はナデナデと髪を撫でつける。それから外套を半分開き、中へと入るよう促した。
ナマエは一度躊躇い、それから結局その中へと収まる。尾形の体温がじんわりと伝わった。

「昨日と今日は序の口だぞ。これからもっと危険な目に遭う」
「……はい」

これから一体、尾形は何をしようとしているのか。軍をあんなに強引に抜け出してまで、何をしたいと思っているのか。聞いてしまいたくて、けれど少し怖くも思えて口を噤む。
すると、二、三度躊躇ったような間の後で尾形が小さく息をついた。

「…アイヌの莫大な金塊が、この北海道のどこかに隠されている」
「金塊…?」
「ああ。五年前、アイヌが金塊を別の場所に移送していた際、その7人のアイヌたちが何者かに殺害された」

尾形が語り出したのは、聞いたこともない夢のような北海道の金塊の話であった。ナマエはじっと話の続きを待つ。
曰く、その7人のアイヌを殺した「のっぺらぼう」と通称される男は、支笏湖で逮捕されて網走監獄に収監されたらしい。

「のっぺらぼうは金塊の在り処を示す暗号を囚人たちに刺青として彫った。そしてこう言ったんだ。ここから脱獄しろ、成功した奴には金塊を半分やる、とな」

そして四年前、第七師団の別の人間たちが囚人を移送すると強引に連れ出した。これはのっぺらぼうや囚人の待ち望んでいた展開であった。
囚人らはそこで兵隊を皆殺しにし、全員が森の中へと姿を消した。

「その刺青の暗号ってのが厄介でな、囚人たちの刺青は全員で一つの暗号になっているんだそうだ」
「全員で…ひとつの…」
「ああ。だから金塊の在り処を探し当てるためには、囚人の刺青を回収する必要がある」

鶴見たちは、その金塊を追っていた。それも、中央の正式な命令ではなく、独断で。鶴見は死した戦友やその家族のため金塊を軍資金にクーデターを起こし、この北海道に軍事政権を樹立するつもりであるらしい。
その策謀を裏切ろうとしていたのが尾形の言っていた「造反組」であるらしかった。

「尾形さんも、その…金塊が欲しいんですか…?」

少し、いや、かなり意外に思えた。この男がその身に余るほどの金を得たいと思っているなんて想像がつかなかったからだ。
尾形と出会ってからそう長くはないが、贅沢を好むような素振りなど一度も見たことがない。

「……さぁな」

そうはぐらかし、尾形は大きな目をスッと細める。ここで肯定しないということが、金塊そのものを当てにしているわけではないと推し量るに充分なことであった。とはいえ、その真意にまでは未だ触れさせてくれないようだけれど。

「昨日は寝てないだろう。お前は鍛えてるわけじゃないんだ。眠れるときに眠っておけ」
「…はい、おやすみなさい」

パチパチパチ、焚き火の燃える音がする。自分はいよいよとんでもない道に転がり込んでしまったらしい。すぐそばに尾形の体温を感じながら、ナマエはじっと目を閉じたのだった。


翌日、目を覚ますと尾形の腕の中にいたことに驚いた。外套の中に入れてもらうだけだったのが、いつの間にか抱きしめられるような体勢になってしまっていた上に、座っていたはずが横になっている。ぎょっとして顔を上げると、尾形がじっと見下ろしていた。

「お…はよう…ございます…」
「眠れたか」
「は、はい…」

上体を起こした尾形の腕から解放され、外套の中から這い出る。丁度夜明けのようで、山の東側がうっすらと明るくなってきていた。ぱちぱちと薪の燃える音がして、尾形がそれにぽいっと新しい薪をくべる。一晩中絶やさず尾形が火を見ていたらしい。

「その…尾形さんは眠れましたか?」
「俺はお前と違ってヤワじゃあない。人の心配をしている暇があったら自分のことを考えていろ」

もっともな言葉にナマエは押し黙る。しかし尾形のもたらした安心感のおかげか、睡眠によって随分と疲労が回復しているように思われた。
そこから二人は焚火を処理し、支度を整えて茨戸の街へ向かった。宿場町でもあるというのに、随分と人通りが少なく閑散とした様子である。

「なんだか…随分寂しい町ですね…」
「いまここは面倒なことになっているらしいからな」
「面倒なこと…ですか?」

人っこ一人いない大通りをゆく。すると、少し先から「痛てえよおおおおおおおお」という男の絶叫が聞こえた。尾形はそれを聞いて即座に物陰に身を隠し、慎重に声の方向へと向かう。
そこでは右手を切り落とされた男と胸に銃弾を浴びた男が倒れていて、それから二人の老年の男が立っていた。片方の長髪は刀を持っており、おそらくその老人が男の腕を切り落としたと見える。70歳は超えていそうな様子だが、随分な剣の腕前の侍である。

「ははっ、こいつは驚きだな」

尾形はその老人たちに見覚えでもあるのか、ニヤリと口角を上げる。有名人かと思ってもう一度目を凝らしてみたが、二人の老人のどちらにも見覚えはなかった。
目の前の理髪店からマスクをつけた店主らしき男が出てきて、何やら老人らに話しかけると二人は「山本理髪店」の看板が掲げられたそこに入っていった。

「計画変更だ。あのジジィたちが出たら店に入って話を聞く」

変更も何もここでの計画など聞かされていないが、ナマエは黙って頷いた。そのまま少し待っていると、用を済ませた老人たちが退店して行き、尾形とナマエは頃合いを見計らって理髪店に入る。

「いらっしゃい。今日は珍しくお客がよく来るな」

マスクをつけた店主に出迎えられ、尾形は「髭を整えて欲しいんだが」と言った。理容椅子に腰掛けるように言われ、尾形は理容椅子に、ナマエはその隣の普通の椅子に腰掛ける。

「こんなところに男女二人で連れ合いかい。悪いことは言わない。早く街を出た方がいい」
「随分と閑散としてるが、何か理由があるのか?」
「……今この街には二つの賭場があるんだがね、日泥ってニシン漁場の親分の賭場と、もとはその子分だった馬吉って男の賭場さ。その二つが相続で争ってて、最初は小競り合いで済んでたのが今じゃ毎日殺し合いをしてるんだ」

話によると、その日泥と馬吉はそれぞれ用心棒と称して金でチンピラを集め、日々殺し合いも辞さない揉め事を起こしているらしい。なるほど、そのおかげでこの閑散とした有様というわけだ。

「ちょうどいいな。路銀が足りなかったんだ。ひと稼ぎでもしてから街を出る」
「ほう……で、あんたはどっちに売り込む気だ?」

日泥か馬吉か。もちろんあの老人たちのいない方でなければ意味がない。それは向こうも同じことだ。思想も何もあるわけではないのだからどちらでも構わないが、さてどうするか。

「さてな。警察は何してやがる?いくら能無しでも黙ってるわけにはいかんだろう」
「警察はダメだ。この宿場町の警察署長が馬吉に突然肩入れしたのさ。署長といっても役立たずの部下数名ばかりを従えた小さな分署だがね。奴らが全部揉み消すおかげでこの町は無法地帯だ」
「おかしな話だな。署長なら自分で日泥をしょっぴきゃいいだろ」
「そうもいかんのだ。ニシン場の日泥一味は昔から札幌本署のお偉いさん方に賄賂を渡していて直接は手が出せんのよ」

尾形は話を整理して状況を算段する。本署が絡んでいるとはいえ、離れたこの町の治安は分署に委ねられている。そうなると、この場で喧嘩がしやすいのは署長がついている馬吉だろう。
派手に喧嘩を起こして刺青人皮を引き出させ掠め取る。それが出来れば最も理想的だ。

「それじゃあ、署長は馬吉にこの宿場町のナワバリを奪い取らせて賄賂を頂こうって話かい?」
「それがな、狙いはそれだけじゃ無さそうなんだよ。噂じゃ江尻署長は日泥一味が持ってる何かが欲しいんだとか…」

何か、というのが自分たちの探している刺青人皮である可能性は非常に高い。どちらにつくかは決まった。ここへ来た判断に間違いはないし、その上話に真実味が増してきたな、と尾形が目を光らせると、理髪店の入り口が開いて顎の割れた洋装の男が現れた。

「腕の立つお侍さんってのはどこにいる?」

洋装の男は警官そ数人ともなっており、店主はすぐに「これはこれは署長さん…!」と媚び諂い始めた。どうやらこの男が噂の署長、江尻らしい。
店主はペコペコと先程の侍たちが出ていったことを伝え、それを聞いて署長は日泥に囲われてないかを疑って「見かけたら署に来るように伝えろ」と言った。なんとしてでも日泥の勢力を強めさせないためだろう。
それから署長は理容椅子に腰かける尾形をじろりと見る。

「そこのチンピラも初めて見る顔だな?俺の宿場町に来たばっかりなら悪いことは言わん。馬吉の所へいけ。日泥の用心棒に混ざっているのを見つけたらタダじゃおかんぞ」

尾形がわざとらしくにっこりと笑った。ああ、これはまずいやつだ。ナマエにでもわかった。尾形はそこから作業台に置かれている鋏を手に取ると、江尻の割れている顎めがけて先端を差し込み、そのままジョキッと表面を切り裂いた。
江尻は「ういいッ」と情けない声を上げる。尾形が動いた拍子にかけていた布が落ちて軍衣が露わになり、控えていた警官が「北鎮部隊!?」と叫んだ。

「ケツアゴ署長に聞きたいことがある」

鋏を抜き去ってポイっと放り、それから尾形は江尻が日泥一味から奪い取ろうとしている「何か」について尋ねる。それは案の定「アイヌの埋蔵金の在り処が示されている囚人の皮」だという。
ちらりと店の外を見ると、ガヤガヤと野次馬が集まってきているようだった。

「お、尾形さん!さっきのお侍さんです!」
「ほう、そりゃお誂向きだな」

尾形は未だ怯えたままわなわなと唇を振るわせる江尻の髪を引っ掴み、理髪店を出る。自分と尾形の荷物を抱えてナマエもその後ろをついて出た。
左手から尾形の目的の人物である侍が二人近づいてきており、その片方の白い長髪とバチりと目が合う。すると、尾形は引っ掴んでいた江尻を離して素早く銃を構え、遠くのやぐらの鐘めがけて引き金を引いた。カァン、カァンと二連続で命中させてみせ、そのあまりの腕前に野次馬たちがざわつく。

「ははッ」

文字通り、これが始まりの鐘である。
尾形とナマエは駆けつけた馬吉とともに、理髪店の前を後にしたのだった。



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