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───まずい。尾形は放たれた矢を引っ掴んで抜き取るが、矢じりが腹の中に残ってしまった。はやく、はやく矢じりを取り除かねば。

「うぐおおおッ」

身体が熱くなる。視界がぐらりと揺れる。いやまだだ。まだ死ねない。生きて、師団長の地位を得て、自分の欲しかったものなどすべて価値のないものだったと証明してやらなければならない。
尾形は膝をつき、転がっている日本刀を手に取ると患部を衣服ごと裂いて傷口から矢じりを抉り取る。そしてすぐさま小銃に持ち替え、アシリパに照準を合わせた。

「アシリパさん射てッ!」
「伏せろッ!」

杉元と白石が口々にそう言う。だらだらと流れる汗が止まらない。アシリパを撃つ。杉元も、必要であれば白石も殺す。生きて、生きて戻って、迎えに行かなければ。
不意に射線が遮られた。軍靴を履いた男の影だ。それが何者であるのか尾形は当然知っていたし、尾形しか知らなかった。自分の撃ち殺した腹違いの弟、花沢勇作の影であった。

「邪魔ばかりしやがって…この悪霊が…」

アシリパに銃を向けるたびこの影は現れる。尾形の行く道を邪魔ばかりする。尾形がギリッと奥歯を噛むと、誰もいないはずの左隣から声がした。自分の声だった。

「悪霊なのかなぁ?アシリパに銃を向けるたび勇作が出てきて邪魔をするのは何でだ?」
「はぁ?」
「勇作とアシリパを重ねていただろ?ってことは……」
「どういうことだ!?」
「それと目を合わせないようにしてきた。向き合おうとして来なかった」
「何の話だ?」

右隣に現れた自分が勿体をつけ、それに尾形が言い返すかたちで会話が続けられる。気付きたくない。いやだ。もうひとりの自分が言うことを理解してはいけない。
見上げた先の勇作の顔にかかっていた影がふっと立ち消える。ずっと目を背け続けてきた、忌々しいほど美しい相貌が露になった。

「罪悪感だ」

そう言ったのは、旅順総攻撃で勇作の頭を撃ち抜いた自分だった。

「…俺の罪悪感?」

だらだらと汗と血が流れていく。瞳孔が開き、大きさの変わらない義眼と調和が取れなくなる。そんなはずはない。自分に罪悪感などあるはずがない。尾形は大きく首を振った。

「いや幻覚だッ!毒だッ!目玉を抉られた傷のせいだ!!」

目の前だか頭の中だかの境界線が曖昧になっていく。右側の自分がいなくなったと思ったら、今度は旭川の兵営の頃の自分が姿を現した。その隣で勇作が嬉しそうに笑っている。

「勇作だけが、俺を愛してくれたから」
「殺した後悔などしとらんッ!」
「罪悪感があるってことは、俺も愛情のある親が交わってできた人間ってことか?」
「いいや違うッ!こいつはおっ母の葬式に来なかった!!」
「愛した瞬間があったということでは?」

続いて父を殺した時の自分、夕張でトロッコに乗る自分が現れて口々にそう言った。尾形はそれを片端からすべて否定していく。そんなはずがない、自分は呪われた人間だ。だから呪われた人生を歩み、呪われているがゆえに欠け、だから罪悪感など持たない。

「お父っつぁまに愛があるか知りたくておっ母を殺したのに、意味なかったってこと?」

今度は殺鼠剤で母を殺した時の自分だ。毒で錯乱している。尾形は右顔面に手を当て、引き裂かれるような痛みに頭を抱えた。

「欠けた人間が陸軍少尉になって第七師団長になることで奴らの価値がないと証明できるのに、これじゃ台無しじゃねぇかよ」
「俺は欠けた人間なんかじゃなくて、欠けた人間にふさわしい道を選んできたのでは?」

勇作を遊郭に連れて行った自分、札幌で宇佐美と対峙した自分。記憶の中の自分が何人も何人も現れては立ち消えてを繰り返していく。おかしい、こんな幻覚に耳を貸す必要はない。毒だ、全部毒のせいだ。

「駄目だ!!それでは!!すべてが間違いだったことになるッ!!」

幼いころからのすべてが、人生が、すべて間違いになってしまう。尾形は血反吐を吐いた。今度は茨戸のやぐらに立った自分が「嬉しいか?」と笑った。

「勇作と重なるアシリパが俺に罪悪感を気付かせた」
「アシリパは俺に光を与えて、俺は殺される」

亜港でアシリパを追い詰めた自分、網走で杉元を撃った自分が高らかに言う。ああこんなの、まるで走馬灯だ。
そしてそのどの場面にも、ナマエは隣にいなかった。ナマエがいたら変わった?そんなことあるのか?あの娘だけは自分の心の底を真っ向から見つめてくれた。

「やめろッ!罪悪感など存在しない!!」

ナマエがいたら、もっと前にナマエに出会っていたら。もっと前から、ナマエが自分を愛してくれていたなら。愛のある人間に、自分はなることが出来ていたのか。ナマエ。お前と過ごしたこの日々は。
地平線から日が昇る。まだ何も疑うことのなかった、茨城の田舎で祖父の猟銃を持ち出して鳥を撃っていた頃の自分が、少しだけ笑った。

「ああ…でも、良かったなぁ」
「もういい!考えるなッ!負ける!!これ以上!!考えるな!!」

脳からすべて溶けだしていきそうな気がした。ぐるぐると必死に振り払おうと頭を振る。気が付くと、尾形はその左手に刀を握り、右手に小銃を握っていた。銃口は自分の左目に向けられている。刀の切っ先が小銃の引き金にかかる。

「兄様は祝福されて生まれた子供です」

勇作が背後から抱きしめるように小銃を支えた。これは幻聴で、幻覚で、都合のいい言葉で。都合のいい言葉ということは、自分が心の底で求めていたものだった。
周囲の音の一切が消え、小銃から銃弾が放たれた。左目から脳天を貫いたそれは空高く上がり、支えを失った尾形は列車の揺れとともに落下していく。勇作が引きずり込む先は地獄か、あるいは。

「うっ………」

地面に打ち付けられたが、もはや痛みなどよくわからない。両目の視力を失ったというのに、どうしてだか目の前の光景が明瞭に見えていた。しかしそれは現実などではなかった。何故なら目の前に溢れるほどの花畑が広がり、そこでナマエが待っていたからだ。

「ナマエ………」

満ちていく、満たされていく。意識がだんだんと遠くなった。白い世界で、ナマエだけが笑っている。


───尾形百之助が、自身に前世の記憶のようなものがある、と自覚したのはごく幼少期のことだった。朧げな記憶の中で笑う少女の顔が見えた。夢か幻のように何度も何度も繰り返されるそれは自分の前世の記憶であると、父親の顔を初めて見た日に確信した。
シングルマザーの家庭に生まれた。父親はさる有名な官僚だった。若いころの火遊びが原因のいわゆる庶子ではあったが、口止め料とばかりにそれ相応の養育費が支払われた。
母は水商売を辞めなかったけれど、特にそれに不満はなかった。もっとも、今度こそこの人と、と彼氏を連れてくるのに毎度妙な男だったりするのは、やめてほしいと思ったけれど。
とにかく余るほどの養育費でそれなりの大学に通い、それなりの企業に就職した。渇望していた「愛」があった。けれど足りなかった。尾形の隣にはナマエがいない。

「あ、いたいた。百之助ちょっとライター貸してよ」
「ん」

仕事がひと段落したところで、フロアに設置された喫煙室に足を運ぶ。最近の世の中というのは喫煙者に厳しくていけない。ライターをぽいっと投げると、あっさり受け取って隣の壁に背中を預けた。運命論者ではないが、この男とも切れない妙な縁がある。

「百之助さぁ、一階のカフェ行ったことある?」
「カフェ?って…ああ、一階のテナントのか」
「そうそう。あそこのコーヒー結構美味いよ」

大学やら会社やら取引先で前世の繋がりがある人間ばかりに出会った。目の前の宇佐美もその一人だ。前世で殺したはずのこの男はこともなげな顔をして平然と尾形の同僚として同じオフィスで働いていた。
よくもまぁ、自分を殺した男とこんな平気な顔で接していられるものだな、と多少思わなくもなかったが、それは尾形も同じだった。

「お前コーヒーの味の違いなんか分かるのかよ」
「万年赤ちゃん舌のお前に言われたくないんだけど」

じろりと宇佐美が尾形を睨む。
昔の記憶があるからと言って、あの頃とすべてが同じというわけではない。今の人生があるし、時代も環境も違うのだから、まったく同じになり得るはずがなかった。
白石にたまたま再会したことをきっかけに、不死身の杉元ともアシリパとも再会した。当時は殺し合う間柄だったのに、記憶を有しているという共通点が不思議と一体感のようなものを与え、まるで友人のようになった。もっとも、杉元には再会した瞬間に一発殴られはしたけれども。

「お前、ずっとスマホ鳴ってない?」

尾形のスーツのポケットの中で何度もバイブで通知を知らせる。これの差出人が誰かということはもう承知のことだったので、尾形は「ああ、放っておけ」と短く言った。宇佐美がぴくりと眉を上げる。

「なに、勇作さん?」
「最近スタンプの使い方を覚えたらしい。メッセージひとつに対してスタンプみっつは送ってくる」
「相変わらずブラコンだな」

今世でも何の因果か異母弟として生まれた勇作とは、現在比較的良好な関係を築いている。今わの際で見たあの幻覚と妄想の塊のようなもののせいかもしれない。ふうっと息とともに煙を吐き出す。

「あの子のこと、まだ探してんの」
「……ああ」
「まぁ、当時のお前の執着ぶりからすれば当然か」

執着の権化のような宇佐美にそう言われるのは何か頷き辛いものがあるが、実際その通りだった。彼女だけが尾形の人生の最後のよすがだった。今でもあの笑顔が鮮明に瞼の裏に浮かぶし、自分を呼ぶ声もありありと思い出すことができる。

「迎えに行くと約束したんだが……最後の最後だけは果たせなかった」

五稜郭で戦ったあの日、ナマエも尾形も命を落とした。墓はおろか、骨さえどうなったか分からない。あの状況で、撃たれて地に伏すナマエを連れていけるだけの余力が尾形にはなかった。だからすべてを終わらせて迎えに行くつもりだった。そう約束した。
ナマエはいつも、迎えに来てくれるから待っていることが出来ると笑った。最後にそれをしてやれなかった。

「おい、尾形、ちょっといいか」

不意にそう声がかかり、尾形と宇佐美は揃って顔を上げる。喫煙所の出入口には同じオフィスで働く主任の月島の姿があった。尾形は半分ほど残っている煙草の火をもみ消し、月島のもとへ向かう。

「月島主任、何かありましたか」
「■■社から昨日修正依頼が入ったんだ。その修正分を今からでも届けてくれないかって打診があった。俺が行ければいいんだが、スケジュールがぎちぎちになっててな。頼めないか。お前元担当だし」
「はぁ、まぁ構いませんよ」

尾形は降って湧いた外出の話を了承する。部内でもっともハードスケジュールを組まされている月島に言われれば大概の人間は断ることなんて出来ないだろう。月島は休日出勤の常連である。
今日はどうせ午後から外出の予定もない。尾形は資料を受け取り、早速取引先に向かう。エレベーターを降りてエントランスを抜けると、宇佐美の言っていたカフェはよく賑わっていた。気に留めたことがなかったが、会社の人間もよく利用しているようだ。店内には二階堂の姿がある。もっとも、それが浩平か洋平かは見分けがつかなかったが。


月島の代打で取引先に足を運んだことをきっかけに、その案件だけを引き続き尾形が代わってこなすことになった。月島は来春から入社する鯉登の教育係まで命じられていて、さすがにオーバーワークだからと鶴見の調整が入ったのだ。
そのせいで小忙しくなった尾形は、日曜というのに休日出勤で事務仕事を片付けに来ていた。どうせ土日もナマエの手掛かりは何かないかと探すくらいしか用事はないけれど、だからと言って仕事をしたいわけではない。
午前中で大体の目途をつけ、昼過ぎにはもう帰ろうとパソコンの電源を落とす。さて帰りにどこかで食事をしてから帰るか、とエレベーターに乗り、いつも通りエントランスを抜ける。

「日曜もやってるのか」

目に入ったのは例の1階のカフェだった。今日は日曜だから利用客も少ないのか、店内に客の姿はない。宇佐美は中々のグルメで「結構美味い」と評することは少ない。人が多ければ面倒だし通り過ぎるところだけれど、こんな様子なら一度立ち寄ってみてもいいかもしれない。
さてどんなもんだい、と思いながら自動ドアの前に立つ。自動ドアの音を聞いて店員がカウンターの中から顔を上げた。尾形は心臓がぐっと掴まれるのを感じる。カウンターの中でにこやかな笑みを浮かべているのは、間違いなくナマエだった。

「ナマエ……」

尾形は持っていたビジネスバッグをその場に落とし、ツカツカとカウンターに歩み寄る。
見た目はいくらか変わっているが、彼女を間違えるはずがない。カウンターのそばに辿り着くと、尾形は思わず手を伸ばし、その華奢な手首をグッと掴んだ。

「見つけた…!」

こんなところにいたのか。気が付かなかった。どれほどこの瞬間を待ち望んだことだろう。今度はナマエを迎えに来ることができた。ようやくあの頃の約束を果たせた。

「ずっと探してたんだぜ」
「あのぅ…どこかでお会いしました…?」
「…は?」

どういうことだ。ナマエではないのか。いや、そんなことがあるはずない。自分は見間違えるはずがないと自信があった。それなら。

「ナマエお前、覚えてないのか…?」
「えっと…すみません…」

困ったような顔をする彼女に、尾形は手首を掴んでいた力を緩める。嘘を言っているようには見えない。そういうのは苦手なタイプだったはずだ。
だとしたら本当に覚えていないのか。尾形ははくはくと二、三度口を動かして、言葉を見つけることが出来ずにホットコーヒーをオーダーする。

「かしこまりました!」

彼女は突然の出来事に動揺しているのか、カフェに相応しくない大きな声で応えた。それからさも平静を装った調子でサイズを尋ねられ、会計が進む。支払いを終えて紙カップを受け取ると、彼女の顔をじっと見つめた。

「今日何時に終わる」
「えっと、さ、三時です…」
「わかった」

そうだ。たとえ覚えていなくても構わない。途中で思い出したなんて連中もいたはずだし、何よりそんなことくらいでやっと見つけた彼女を逃がしてたまるものか。

「お前だから、いいんだ。どんなに待つことになったって」

尾形はエントランスを抜けた先でひっそりと呟く。さてこれからどうやって彼女を口説き落としていこうか。逃がしてしまわないように裏口に向かうと、煙草を咥えて火をつけた。ナマエはまるで暗闇にともるひとつの光源だ。途方もなく深い場所、夜の闇よりずっと閉じられたその世界に現れた。何よりひかる、彼女を見つけた。

「俺は狙撃手だ。待つのは慣れてるんでな」

どうしたって惹かれる。恋い焦がれる。だからもう一度、君に一閃を放つ。



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