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函館停車場で降り立つと、駅前に夏太郎の姿があった。見つかる前にナマエと尾形はひっそりと建物の影に隠れる。がやがやとパルチザンの連中が騒がしくするせいで会話の内容が聞こえてこない。いくつか言葉を交わしたあと、夏太郎は馬に乗って北東方面へと駆けて行ってしまった。

「どこに行くか聞けませんでしたね…」
「ちょっと待て」

肩を落とすナマエを止め、尾形が耳を澄ませる。彼なら言葉そのものがわからなくても、用心深く観察すれば目的地がある程度彼らの会話から推測することが出来るのではないか。

「……五稜郭だ」

尾形はパルチザンの面々の様子から目的地が恐らく五稜郭であることを推測した。確かに五稜郭が目的地であれば夏太郎が北東方面に駆けて行ったのも頷ける。ソフィア率いるパルチザンはさっそくぞろぞろと移動を始めた。

「私たちも向かいますか?」
「……いや、少し時間を置くぞ。あそこは確か防風林を境に視界が開ける。その手前で土方陣営が落ち合うつもりで待ち構えていたら見つかりかねん」

ソフィアたちが函館停車場からすっかり姿を消すのを待ち、尾形とナマエはやっと五稜郭に向かった。土方陣営に見られるわけにはいかなかったから町中を通るしかなかったが、せめてとなるべく人目につかないように人家の庭先や路地を使って先に進む。
港はまだ夜明け前だというのにやたらと騒がしく、しかもどうにも漁師のざわめきとも思えない。一体何事かと二人は足を止め、建物の隙間と隙間を縫うように左手の港を確認する。数名の兵士の姿が見えた。

「尾形さんあれ…」
「駆逐艦か……なるほど、鶴見中尉たちは暗号をすでに解き、別の経路を使ってここまで来たというわけだな…。駆逐艦にはさほど人数が乗れない。恐らく他の合流を待って仕掛るつもりだろう」

兵士の向こうに更に駆逐艦が見える。大湊の鯉登中将の助力を得たとみえる。そうなれば、この先起こるだろう五稜郭での衝突で艦砲射撃が行われるのは間違いない。仮にこの後衝突の際に面々が五稜郭から逃げ出すのであれば、まず間違いなく駆逐艦のいる南口は使われることがない。陣取る場所が少し絞られる。

「五稜郭についたら北の位置を取るぞ」

ナマエがこくりと頷く。それからほどなくして艦砲射撃が始まった。轟音が函館の街を揺らし、五稜郭に砲撃が浴びせられる。艦砲射撃の音を聞いたのは網走に続いて二度目だが、まさか人生で二度もこんな間近で聞くことになるとは思わなかった。
二人はまた人目を避けるために民家に入り、通り抜けようとした。その時だった。にわかに前方から人の駆けてくる音がして、尾形がびくりと一瞬動きを止めた。何事かと思えば、誰かが家屋の中に駆け込み、兵士がそれを追っていく。中からどちらのものかも分からない呻き声がして、生き残っただろう一人が家屋から出て行った。

「…永倉だ」
「永倉さん?」
「ああ。命拾いしたな。見つかってりゃ俺もお前も斬られてる」

どうして永倉が五稜郭ではなく港のほど近い場所にいるのか。いずれにせよ命拾いをしたことは間違いない。
二人はそのまま五稜郭の北側へ回り込み、防風林の一角の木に陣取ることになった。尾形はまるで猫のように軽々と木を登っていく。ナマエは尾形が登り終えたのを見てから着物をたくし上げ、幹に掴まった。最後の最後は引っ張り上げられ、太い枝の上に尾形と並んで座る。

「あのロシア兵もどこからか俺を狙っているだろう。とりあえず五稜郭の方がどう動くか様子見だ」
「はい、わかりました」

尾形は双眼鏡を使い、五稜郭の様子を確認した。肉眼ではあまりよく確認できないため、ナマエは尾形の横顔を見つめる。
戦況を見ると一口で言っても、尾形の目的がまだぼやけていて行く先が想像できなかった。彼は中央政府の間諜で、命令によって鶴見の監視をしている。アイヌの土地の権利書の奪取も任務の一つと言っていたから、アシリパたちにそれが渡ってしまうのも恐らく避けたいのだろうと思う。

「あの……尾形さんはその…この先どうするんですか…?」
「この先…?」

尾形が少し怪訝な顔をする。これは聞き方を間違えたかもしれない。問い詰めるような意図はないのだと弁明しようとすると、それより先に尾形が口を開く。

「……俺は、鶴見中尉率いる反乱分子の掃討と土地の権利書を手土産に、奥田中将へ士官学校への入学…更に陸軍大学校卒業の身分の見返りを求めるつもりだ」
「それって……」
「ああ。陸軍の将校になるために金も地位も必要だ。本来なら祝福されてない人間の俺がなれるわけもないが……そんな俺でもなれるようなものだと証明してやる」

声音はどこか子供めいて聞こえた。いままでのすべてがナマエの中で繋がっていく。尾形はそのままナマエと視線を合わせることなく言葉を続けた。

「いずれは第七師団長だ。父の座っていた椅子に俺も座る。そうすることでやっと、俺が欲しかったものはすべて価値なんてなかったのだと確かめることが出来る」

尾形の時間はどこか一部、幼いころのまま止まっているのだと思った。今までも心の声を打ち明けるとき、彼はしばしば子供のような声を出した。それはまさに彼の中で取り残された時間の象徴であり、恐らく尾形百之助を形づくる根幹のようなものだろう。

「……なんだ、俺の目的を聞いてついてきたことを後悔しているのか?」

こうして何度も確かめたがる。きっといつも不安に思っている。こっちを見ていてほしいと言いたいはずなのに、それが出来ない。
ナマエはいつも尾形のことしか見ていないというのに、それでもこうして不安をぶつける。何度でも確かめないと不安で仕方がないのだろう。それならナマエは、尋ねられるたび何度だって同じ答えを口にしてやる。

「何度だって言いますよ。私、尾形さんについてきたこと、ちっとも後悔してません」

尾形が髪をナデナデと撫でつける。答えはいつも変わらない。変わるはずがない。彼を満たせる人間に、いつかなることは出来るだろうか。


この衝突が始まってから二時間近くが経過しようとしていた。艦砲射撃の他にも函館山方面から大砲のようなものも使われているようだった。すっかり周囲は明るくなり、東から太陽が昇る。
数分前から北側の馬小屋が勢いよく燃えている。艦砲射撃が止んでいたからそれは少しだけ周囲の目を引いた。

「…あれは…もしかすると何かの合図かもしれん」
「まさか脱出か何かの?」
「ああ」

尾形はそう相槌を打って注意深く五稜郭を監視した。すると、程なくして数頭の馬が駆けてくるのが見えた。

「土方と牛山だ」

見えたのは五稜郭から脱出してきた土方と牛山だ。北口を使い、そのまま北上して逃げおおせるつもりなのだろう。それだけかと思いきや、その後ろからも二頭の馬が見える。騎乗には四人。

「ははッ。南の港は駆逐艦がいたから逃げるとすれば北口か東口とヤマを張っていたが…読みが当たった。白石と杉元…それからアシリパに谷垣までいやがる」
「えっ、谷垣さんも?」
「あのロシア兵もどこかでアシリパたちを見ているとすれば、俺が動くと期待しているはずだ」

五稜郭からそれだけの面々が逃げてきているということは、権利書の類いを持ち出している可能性は高い。持っているとすればアシリパだろうと予想していたから、いずれにせよ馬で駆けていくあの一団の中に目的のものはありそうだ。
そして問題は、どこからか狙っているだろうと尾形の読んでいるロシア兵の所在である。撃てば間違いなく尾形の所在を当ててくるだろう。

「この一発は、何を撃つ一発か……」

尾形は双眼鏡を下げ、小銃を持ち上げる。この位置を選んだのは正しい読みではあった。しかし時間までは読めなかった。それはロシア兵も同じことである。北口に動きがあると確信し、北寄りに位置を取ったのはさすがであるが、アシリパたちの脱出が朝であるというのはまさに時の運である。前方の木の中、東からの双眼鏡の光が反射していた。

「運命は俺に味方した。世界が俺は正しいと言っている」
「見つけましたか?」
「ああ。距離はおよそ800メートル…俺なら当てられる」

そう言って尾形は小銃を構えた。左目を見張るように表尺鈑に合わせる。そこから何か考えるようにして中々引き金は引かなかった。もちろんナマエが何を言えるわけでもない。ナマエは固唾をのんでことの成り行きを見守る。尾形が引き金にもう一度指をかけた。

「あの男ほどの狙撃手が太陽の反射を考慮していないわけがない。だとすれば───」

一閃が放たれる。それは真っ直ぐに照準の先の木へと伸びる。狙ったのは光から腕一本分下の位置。尾形はあの光の反射を餌だと考えた。尾形が双眼鏡を手に目標を確認しようとすると、一発の銃弾が彼の左足を撃ち抜いた。それを見て尾形はぐいっと髪を撫で上げる。

「うん…仕留めた!!」
「お、尾形さん、足が…」
「問題ねぇ。もしお前が無事なら今の一発…足で済んでるはずがない」

言葉の後半はナマエに向けたものではない。あの狙撃手に対して向けたものである。ナマエは急いで自分の着物の裾を裂き、尾形の左足にぐるぐると巻き付ける。本当は然るべき処置をしたいけれど、それをやっている余裕はないだろう。

「子熊ちゃんが逃げちまった」

尾形はそう言って手早く別に狙いを定めると、馬上の兵士をあっさり撃ち落とした。それからするする木を下りていく。ナマエもそれに続き、地上に足をつければ、尾形はすでに数歩先を行っていた。馬を確保するためだろう。
樹上にいた時よりも硝煙の臭いを強く感じる。破裂するような爆発音は五稜郭からだろう。呻き声は尾形の撃ち落とした兵士か。
その時だった。ダンッと冴えた音が耳に届き、同時に肩へ熱が走る。そして続いて痛みを帯び、衝撃のせいかぐらんと視界が歪んだ。撃たれたのだ。頭の中のどこか冷静な部分でそう理解する。

「早く、逃げなきゃ…」

続いてまた一発が放たれ、今度は右腕を掠った。早く尾形のもとに行かなければ。背後から撃たれたということ以外何も分からないが、敵だらけの戦場なのだからどこから撃たれてもおかしくない。
いや待て、このまま尾形のところに向かっていいのか。確実に今自分は敵に捕捉されている。尾形のもとに合流しても重荷になるだけではないのか。重荷になるくらいならいっそこのまま。

「だめ、だ」

違う。旅の初めに約束をした。道中の決まりごと。尾形から離れないこと。はぐれた際は近くの安全な場所に身を隠し無闇に動かないこと。自分では判断せず必ず尾形の指示に従うこと。
これ以上狙われない物陰に隠れなければ。まだ防風林の近くだ。木の陰に隠れるしかない。そう一歩を踏み出し、二歩目がもつれる。腹部に三発目の銃弾を受けたからだった。
熱いのだか痛いのだかよくわからない。視線ががたがたと焦点を失う。目の前から色がなくなり、そしてそのまま視界いっぱいに地面が広がった。

「あっ…!」

転んだのだと数秒遅れて理解して、口を開けていたから端から砂が入ってしまった。痛い、熱い、苦しい。思考力が奪われて頭の中に靄がかかる。意識が端からどんどんと千切れていくようだった。

「ナマエ…!」

尾形の声がナマエを呼んだ。中々追いつかないナマエを不審に思ったのだろう。ここは危険だ。しかしそれを伝えられるだけの力がもう残っていなかった。ふるふると何とか手を伸ばす。指先は血にまみれている。

「お、がた、さん」

自分がこのまま死んでいくことをナマエは寸分の狂いもなく理解した。もう指先の自由が利かない。尾形がこちらに向かって駆け寄る姿が見える。少しも後悔なんてない。彼のいない世界で生きるなら、彼の隣で死んでもいいと思っていた。視界が狭くなっていく。尾形を見るのもこれが本当に最後なのだ。

「ナマエ!!」

ああ…でも、良かったなぁ。



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