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揺れる列車の狭い座席のなか、ナマエと尾形は身を寄せ合う。思うよりも早く車窓の景色が流れていく。列車はまず小樽方面へと内陸を走った。

「列車って初めて乗りました」
「小樽から函館へ帰ったことはなかったのか?」
「はい。親類もいませんし、函館から小樽に移るときも馬だったので」

ナマエは窓側の席に座り、車窓に視線をやりながらそう答える。小樽に来てからはそもそも街を出ることさえなかったし、この一連の旅でも列車は使ったことがなかった。思っているよりもがたごとと大きな音が響くんだな、と、走行音に耳を澄ませる。

「なら、お前にとっちゃ函館は里帰りか」
「確かにそうですね。五年…もう六年ぶりです」

たった六年だが、この頃の記憶が強烈すぎてどこか曖昧だった。函館に暮らしていた時はそれほど特筆すべき風変わりなこともなかったし、どちらかといえば尋常小学校でも友人は少ないタチだった。

「道は覚えてるんだろう。案内してくれ」
「もちろん。建物は入れ替わってしまってるでしょうけど、道はそうそう変わりませんからお役に立てると思います」

珍しく尾形の役に立てる機会がある。実際どの程度役に立つかは分からないけれど、全く知らない街よりは幾分もましだろう。

「故郷っていうほど思い入れもないんです。不思議ですよね。尋常小学校だって函館で通ってたのに」

ぽつんとナマエがこぼした。すると尾形がじっとナマエを見つめ、それから髪をナデナデと撫でつける。なにか物言いたげな様子で、それを数回戸惑うように視線を泳がせる。薄く唇を開くと、ナマエに視線を合わせることなく呟いた。

「…別に郷なんて無くてもいいだろ」

前にも聞いたことがあるセリフだ。何処で聞いたんだったか。そうだ、釧路の海岸で尾形の祖父の話を聞いたとき、親戚のないナマエが彼の祖父のことを羨むようなことを言って、そのとき同じことを言われた。そのときはどんな言葉が続けられたのだったか。そうだ。

「帰る場所は自分で決めればいい、ですよね」
「……覚えてたのか」
「はい。尾形さんにそう言ってもらえて嬉しかったから」

あの時は冗談めかして「探してみます」と返したんだった。でも実際はもう決めているの同然だったし、今になってそれはことさら強いものになったと思う。

「私の帰る場所は、尾形さんの隣です」

釧路の海岸では自分の口で尾形に言うことまでは出来なかった。けれど今は、少しも迷いなく言うことが出来る。尾形がそれを許してくれることを知っているからだ。
尾形が向けていた視線を逸らし、わざとそっけない風で口を開いた。

「函館まではかなり時間がある。行った先ではどうなるかも分らんからな。今のうちに寝ておけ」
「はい、わかりました」

確かにその通りだ。この先はどうなるか、着いてみなければ何もわからない。その助言の通りナマエが目を閉じると、ここまでの疲労もかなり溜まってきていたのだろう。眠りの帳は思いのほか簡単に降りて来たようだった。


1906年夏。小樽市街でもとは商店だったという建物に彼らは居を構えた。北海道のあちこちにこうして北鎮部隊の人間が駐屯するのは珍しいことではない。ただひとつ珍しいことと言えば、この小隊を預かるという将校の鶴見という男が、奇天烈な琺瑯の額あてをしているということである。話によれば前頭葉の一部を日露戦争で失ったらしい。

「いらっしゃいませ」
「失礼、陸軍第七師団の鶴見と申しますが、ご主人はいらっしゃいますか?」

夏の終わりごろ、小樽薬店にその男が現れた。ナマエはその奇天烈な見た目に思わずぎょっとしてしまい、数瞬遅れて「ただいま呼んで参ります!」と店主のいる奥へと引っ込んだ。
鶴見は小柄な兵士をもうひとり連れていた。ずいぶんな強面でさすが屈強な北鎮部隊だと思わせた。その部下の名前は月島と言った。どうやら今日は間に合わせの薬を買いに来たらしい。部下を使わせるのではなく自分で足を運んだのはその先のことを見越しての事だった。

「北鎮部隊様がお得意様になって下さるそうだよ」
「えっ、本当ですか?」
「ああ。今日その話をしてくださったんだ。明日配達に行くから、お前も一緒についてきなさい」

これからは配達に行くことも予想されているから、ナマエにも覚えさせるために同行するようにとのことだった。お得意様には配達に行くこともままある。油問屋の大旦那などは特にそのいい例で、月に何度かナマエも引っ付いて配達に行っていた。


翌日、兵営に入るのなんて初めてだ、と少し緊張しながらナマエは兵営に向かい、その門を潜った。
兵営と言っても噂の通り元が商店なのだから、いわゆる西洋建築らしさは少しも見られない。しかし行き交う人間は勿論皆軍服を身にまとっていて、こんな大人数の兵隊を間近で見ることはなかったから不思議な気分だった。

「ナマエ、私は鶴見様とお話をしているから、外で待っていなさい」
「はい。承知しました」

建物の中に主人が入って行き、ナマエは入口のそばに立って中庭を観察する。兵営らしいものは特に見当たらない。大きな木があって、さわさわと木の葉が揺れていた。何の気なしにそのそばに寄ると、真下からそれを見上げる。驚いたのは、まさかその上に人がいたことだった。

「えっ…!」

軍衣の男はどこからどう見ても兵隊である。太い枝の上でごろりと横になっていて、何かの作業中でないということだけは明白だった。
男はじろりとナマエに視線をやると、するする慣れた様子で木を降りてくる。猫のように黒々と丸い瞳が印象的だった。

「町娘が兵営に何の用だ。ここは勝手に入っていい場所じゃないんだぜ」

不遜でどこかナマエを小馬鹿にしているような言い回しだった。ムッとはしたけれど、彼らにとって自分が不審人物であることも事実である。小樽薬店の奉公人だと自分の身分を申し述べようとすると、それより先に男に向かって声がかかった。

「尾形、お前こんなところにいたのか」
「月島軍曹殿。私に何か御用でしたか」
「しらばっくれるな、不備のあった書類をさっさと訂正して提出しろ」
「いやぁ、今やっていたところなんですが妙な娘を兵営で見つけまして。尋問していたもので」

男に声をかけたのは月島だった。男は尾形と呼ばれ、嘘だと丸わかりの言い訳を並べる。しかし尋問だなんて本当にされてはかなわない。ナマエは月島が自分のことを覚えてくれていると祈りつつ「あの」と声を上げた。すると、月島がようやくそこで木の陰に隠れてしまっていただろうナマエを見つけた。

「ミョウジさんじゃないか」
「ミョウジ?月島軍曹殿、この娘をご存知で?」
「ああ。小樽薬店の奉公人だそうだ。ほら、大通りの団子屋を曲がったところにあるだろ」

月島に説明され、尾形は頭の中で地図を思い浮かべているようだった。そして少しののち「ああ、あのデカい薬店ですか」と相槌を打つ。じゃあなんでその薬店の娘がこんなところに、という尤もな疑問に月島が「そこの主人が今鶴見中尉と商談中だ」と先回りして答えた。

「ミョウジさん、この兵卒は尾形。この小隊の上等兵です。あなた方が来ることは周知されていなかったから、怖がらせることになって申し訳ない」
「い、いえ、問題ありません。こちらこそ妙なところで立っていてご迷惑をおかけしました」

怖がらせるというほど恐ろしい思いをしたわけでもない。恐縮する月島にナマエは慌てて両手を振りながらそう返した。
それから少しのあと、店主が建物から姿を現し商談が終わったことが分かった。ナマエはぺこりと月島と尾形に頭を下げ、小隊の兵営をあとにしたのだった。


それから五日ほどあとのこと、昼から暇を貰っていたナマエはお得意様への配達を終え、少しふらりと街を歩いていた。小樽の街に暮らし始めてもう五年が経ち、大きな薬問屋の奉公人ということもあって顔見知りはそこそこ多かった。
道行く商店の夫人たちに「ナマエちゃん今日はお休みかい」だとか「この前貰った薬で旦那も調子が良くなったわよ」だとかと声をかけられながら、すっかり住人のひとりになれていることを実感した。

「あれ?」

道の少し先で見知った顔を見つけた。先日兵営で顔を見た尾形という上等兵だ。思わず注視してしまって、すると彼もこちらに気が付き目が合った。この状態で立ち去るのも何かと、ナマエはトコトコと尾形のもとへ歩み寄る。

「あの、尾形さんこんにちは」
「非番か」
「え、あ、はい。今日はお暇をいただいています」

尾形がじっとナマエを見下ろす。やはり猫のような目だと思う。それから尾形は「ついて来い」と言って歩き出してしまい、ナマエは訳も分からないまま後ろを歩く。尾形が足を止めたのは薬店のそばにある団子屋だった。
一体何なのだろうと見守っていると、彼は片手に団子を持ってナマエのところへ戻ってくる。

「食え」
「あ、ありがとう…ございます…」

尾形がそれを差し出し、ナマエは未だ訳の分からないままそれを受け取る。なんでわざわざお団子買ってくれたんだろう。竹包みをそのまま眺めていると、尾形が「食わんのか?」と尋ねた。目の前で食べろということか。

「えっと、じゃあいただきます」

ナマエはきょろきょろあたりを見回し、腰を下ろすのに丁度良さそうな石を見繕うと、そこにちょこんと腰を下ろして包みを開く。つやつやと光る団子は今日も美味そうだ。ナマエは一本をそっと持ち上げ、一番先頭の団子にぱくりと噛り付く。もっちりとした触感のあと、じんわり口の中に甘さが広がっていく。

「んんっ、美味しい!やっぱりこの歯切れのいい触感とみたらしの甘さがたまりません!香ばしくてまろやかで…鼻に抜ける香りも気持ちいいです!」

ナマエは自分の頬に手を添え、そうつらつら並べ立てた。美味いものを口にするとこうして評論のごとく感想を並べてしまうのはナマエの癖だった。変な癖だとも言われるそれをほぼ初対面に近いような尾形の前でやってしまったことを遅れて理解して、ナマエはハッと口を噤む。

「そんなに美味いか」
「は、はい…すみません、騒がしくして…」

やってしまった。ナマエがそう謝ると、尾形は「いや…」と多くは語らず、そのままナマエの隣に腰かける。まさか隣に座ってくるとは思わず驚いて視線だけをそちらにやったが、尾形は気付いていないようだった。

「町娘に何考えてるんだと月島軍曹にこってり絞られた」
「え、このあいだのことですか?」

尾形が「ああ」と肯定する。確かに一体何事かと思わなくもなかったが、こってり絞られると言うほどのことでもなかっただろう。気遣ってもらえることはありがたいが、少し大袈裟だ。「そんなに気にするほどのことでは…」と言うと尾形がふんっと鼻で笑うように息を吐き出す。

「鶴見中尉殿が商談してるっつうのにいらん邪魔を入れるなってことだろう。もっとも、俺は商談先の奉公人とは知らなかったが…まぁなんだ。侘びを入れておけと言われたんだ」
「あ、それでお団子…」

ナマエは手元の団子に視線を落とす。言葉が足りなすぎて全く意味が分からなかったが、一応そういうきちんとした理由があったらしい。

「女はだいたい団子が好きなんだろ」
「ふふ、確かにそうかもしれません」

何とも雑な彼の女性観に少し笑えてきてしまった。ナマエがそう笑うのが気に食わなかったのか、尾形がじろりとナマエを見たが、不思議と初めて会ったときのように怖いとは思わなかった。

「お前、名前は」

尾形にそう尋ねられ「ミョウジです」と名乗ると、即座に「違う。下の名前だ」と言われてしまった。ああそっちか、と思い直しナマエはまた口を開く。

「ナマエです。ミョウジナマエ。尾形さんのお名前は?」
「…尾形百之助」

尾形は少し居心地が悪そうにそう答えた。百之助。百は数の多いことを表す縁起のいい字である。才能や縁に恵まれるようにと愛されて名付けられたものなのだろうと思った。ナマエが「素敵なお名前ですね」と言うと、尾形は髪をナデナデと撫で付け、所在なさげに視線を逸らす。
尾形百之助という男と途方もなく深い縁で結ばれるのは自分であると、この時はまだ知るはずもなかった。


ふっと意識が浮上した。何だか懐かしい夢を見た。尾形と初めて会った頃のことだった。あの頃はまさか自分が尾形と名状しがたい関係になり、命がけの旅をすることになるとは露ほども思わなかった。

「眠れたか?」
「はい。良い夢を見ました」
「ほう。どんなだ」
「尾形さんと初めて会ったときのことです」

ナマエがじっと尾形を見上げると、尾形も黙ってナマエを見返す。あの頃のことを彼も思い出しているんだろうか。
ふと、前方がにわかに騒がしくなった。同乗しているパルチザンの女頭首、ソフィア・ゴールデンハンドが通路に立ち、ぎゅうぎゅう詰めになった車両の先頭で仲間に向かってロシア語で演説を始めた。あまりの人数の多さに仲間は荷物棚にまで乗っている始末だ。

『我々はこの地で移民として足元を固め、力をつけよう。同志ウイルクが望んだ北海道の多民族国家だ。そしていずれこの北海道からロシア極東へ勢力を広げる。同志ユルバルスも望んだ極東連邦だ』

ソフィアは演説を続け、懐から一枚の写真を取り出す。男が二人と女が一人映っているそれは古ぼけて煤け、しかも右上の端が焼け焦げているようだった。あの三人は何者なのだろうか。少し距離があって良く見えないし、ロシア語の分からないナマエにわかるはずがない。

『ウイルクとユルバルスの遺志、私はどちらも無駄にしない。私がそう決めた。ついてくるか決めてくれ』

ソフィアがいっそう高らかにそう言うと、ワッと歓声が沸き上がる。どうやら演説が終わったようだった。間もなく列車は終点、函館停車場である。



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