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最後の殺人が起こると予想されている夜、尾形とナマエはやぐらに潜んで札幌麦酒工場の様子をうかがった。というのも、夕方に老若男女まとまりのない集団が札幌麦酒工場の方へと歩いていくのを見たと街娼から証言を受けたからだ。
それが彼らである確証はなかったが、そんな連中はちんどん屋かあの一行かくらいしかあり得ないだろう。

「……いた」
「え?あれって娼婦さんじゃ…」
「大方誰かの女装だろ。見てみろ、その奥の建物の影に牛山がいる」

尾形が双眼鏡をナマエに寄越し、言われた場所を覗き込む。娼婦の顔までは見えないからよくわからないが、確かに物陰に牛山の姿があった。その奥にももう一人いる。

「ここで当たりだな。そのうち第七師団の連中も来るだろうぜ」

尾形がどこか少し愉快そうに言った。ナマエは尾形に双眼鏡を返し、固唾をのんで牛山たちの方を見る。誰かに女装をさせているのなら、囮ということだろうか。しばらくそのまま見守っていると、ひとりの兵士がそこへ近づいた。

「宇佐美だな」

尾形が双眼鏡で確認をする。近づいてきた兵士は宇佐美らしい。ひとりで来ていることはないだろうから、じきに第七師団の面々が集まってくるに違いない。
街娼姿の何ものかが躓き、宇佐美が膝をついてマッチの火を近づける。それからその近くでドンッと花火が上がった。
牛山の手が宇佐美に迫り、宇佐美が応戦する。小銃の銃口を向けるも逸らされてしまい、そこからは掴み合いだ。四人の兵士が宇佐美に駆け寄るが、牛山が投げ飛ばした宇佐美を盾にして工場の中へ逃げてしまった。

「さてさて…第七師団もご登場だ」

四人の顔は良く見えない。これで宇佐美をあわせて少なくとも五人は第七師団の兵士が集まってきている。情報がどれほどの速さで伝わっているかが読めないけれども、今晩が殺人事件の起きるとされている当夜だと知られているならば、更なる人数の兵士が追加投入される可能性が高い。
そうこうしているうちに、また別の方角からドンッと花火が上がる。あれらの花火は杉元たちが何かの合図にしているに違いない。

「ははぁ。景気のいいこった」

尾形が笑う。にわかにあたりが明るくなり、麦酒工場の全容を浮かび上がらせた。尾形はここで何をするつもりなのだろうか。戦況を見る、とは言っていたが、彼は今どこの勢力にも属さない人間になっている。ここからひとりで金塊を追うのか、あるいはまた別の勢力と手を組むつもりなのか。そもそも目的さえ知らないのだから分かりようがなかった。
工場の中は更に騒がしくなっていく。少し離れたこの場所でも分かるくらいの騒音と銃声が何度も響いてきた。

「銃声……中で鉢合わせたんでしょうか…」
「だろうな。工場の中は地獄だろうぜ」

確かに中は地獄絵図だ。杉元、土方、牛山をはじめとする手練れが第七師団の屈強な兵士たちと戦っている。しかもこの工場の敷地内には娼婦連続殺人事件の犯人も紛れ込んでいる可能性があるのだ。尾形が口角を上げる。
しばらくそのままやぐらの上から工場の敷地内を観察していたら、建物のひとつから影が出てきた。ひとりではない。よくよく見ると、男が子供を抱えている。男の方は兵士だった。状況から見て子供はアシリパだろう。

「尾形さん、あれって…」
「ああ。アシリパだ……」

アシリパは地面に降ろされ、男に向かってぐっと弓を引いている。尾形は双眼鏡を縦に使い、左の目でよくよく向こう側を観察した。肉眼だけでは細部までは見ることが出来ずにナマエは尾形のとなりでぼんやりとした輪郭を眺めることしかできない。

「宇佐美にも見つかった…」

これは随分アシリパが不利だ。二対一、しかも宇佐美は師団の中でも白兵戦を特に得意としている。ただの少女を「動けない状態」にしてしまうことなど容易いことであるし、彼はそれに躊躇いがないだろう。

「鶴見中尉に渡っちまうな」

尾形はそう声を落とすと、小銃を構えた。もう見慣れ始めた左撃ちの構えで、ナマエは邪魔になってしまわないように少し下がる。狙いを定め引き金と、というその時だった。

「うッ!!」

尾形が何かに驚いて身を引く。そのすぐ後に左手方向から一発の弾丸が撃ち込まれた。弾は尾形の小銃に命中していて、咄嗟に仰け反っていなければ被弾は免れなかっただろう。ナマエもヒュッと息を飲み込み、弾が飛んできただろう方角を見るが、この暗がりの中で潜んでいる狙撃手の姿など見えるはずもなかった。

「手練れの狙撃手だ…」

尾形のその一言で、撃ってきたのがあの異人の男だということを理解した。尾形いわく樺太の国境守備隊ではないかという話で、数少ない彼の折り紙付きの狙撃手だ。
尾形は射線を切るために身を屈め、被弾した小銃をがちゃがちゃと動かして確認する。

「中の撃針がやられた」

撃針とは、小銃における発火装置のことだ。もちろんこれが壊れてしまってはもう撃つことは出来ない。新しい小銃を手に入れなければどうすることも出来なくなってしまった。尾形は少しだけ考えるようにしてまた口を開く。

「宇佐美が落としていった三八式はあそこにまだあるか?」

独り言か否か分からないような調子で尾形がそう呟き、ナマエは少しだけ顔を出してすぐに引っ込め、宇佐美と牛山が揉み合っていた場所を確かめる。地面にはうっすら銃の輪郭を捉えることが出来た。

「多分まだあります」
「そうか……あれを取りに行く。流石にお前を連れて掠めとるのは難しいだろう。やぐらを降りてしばらく別行動だ」

不安がよぎるが、だからと言ってここで尾形に我が儘を言うことは出来ない。尾形は手練れの狙撃手に狙われている。あんな見通しのいい場所は撃ってくださいとでも言っているようなものだ。

「工場の南側に隠れていろ。銃を確保して中を探ったら俺も合流する」
「わかりました」

尾形は壊れてしまった銃をやぐらの中に放置し、ナマエを手招いて梯子に向かう。そこで振り返り、じっと先ほどの自分の狙撃位置をじっと見つめた。

「驚いて身を引いていなければ撃たれていた」

確かに、先ほどのあれは狙撃を予期したような動きだった。まさかそんなことが出来るはずもないが、尾形はあのとき何に驚いたのか。ナマエには何も見えなかった。

「えっと…何が、見えたんですか…?」
「俺が殺した弟だ」

俺が殺した弟。第七師団長の嫡子、清いまま死んでいった男、祝福された子供、勇作。

「俺を助けたのか?まさかな…そこまでお人好しではないだろう?」

尾形はひとりぶつぶつと言葉を落としていく。地面に続く梯子は使わず、反対側の壁の木をばりばりと破って外に出た。ナマエもそれに続く。尾形は、自分の手で弟さえも殺していたのか。母のことも自分で手にかけたと言っていた。尾形は愛を証明したくていままで何度もその手にかけてきたのだ。そう気が付き、どうしようもなく胸の奥が締め付けられる。

「俺の邪魔をするつもりか…悪霊めが」

尾形は少しもそんなものを感じさせることはなかった。ナマエも抱きしめたい気持ちを抑え、彼の後ろ姿を追った。


尾形はナマエと別れたあと、宇佐美の小銃のある場所に近づくまでに露頭で蓑を被っている男に声をかけた。あんなだだっ広いところを無策で走るだなんて馬鹿なことはもちろんしない。小銭を渡して自分の外套を着せ、あれを取ってきてくれと依頼をした。小銃に近づく外套の男を狙っている狙撃手がいるだなんてことは伝えない。動くかかしというわけである。
小銭を持たせた男を走らせれば、案の定正確に頭を撃ち抜かれた。尾形はすかさず駆け寄り、掠め取るように小銃の革帯を引っ掴み、そのまま割れた窓に飛び込んでいく。足元にもう一発着弾し、狙撃手が狙いを外したのだと言うことが分かった。

「ははッ、何度も撃ち損じたな。機会はそうそう巡ってくるもんじゃねぇぜ」

狙撃は我慢比べだ。狙いすました一発を外せば、次弾へ集中することは難しい。それが人間のような小さい的で、この暗がりで、動くなら尚更。
尾形はそのまま建物の中の走る。あちこちから物音やら銃声やらが響いていた。

「杉元たちが俺をあまり警戒していなかったのは狙撃手の仲間がいたからか。あんな腕前の人間は滅多にいない。誰だ?」

答えはおおよそ分かっていた。ナマエが言っていた尾形の存在に反応する異人。尾形が見とめるほどの腕前。間違いない。あの国境守備隊のロシア兵だ。

「ははッ、やはりあの男しか考えられん。まさかだろ。はるばる札幌まで…」

もしも自分なら、と考えると、どちらかが死ぬまで追いかける自信があった。樺太で狙撃戦になった時にも感じたことだ。あのロシア兵と自分はどこか似ている。

「反撃できる場所見つけないと」

尾形は拾い上げた小銃を手に階段を駆け上がる。工場内のあちこちから轟音が響く。少なくとも数か所で戦闘が繰り広げられている。杉元と対峙することだけは避けたい。きっと尾形の顔を見た途端に襲い掛かってくるだろう。
階段を登りきり、廊下から室内に躍り出た時だった。視界のない右側に人の気配を感じ、はっとそちらを見る。しかしすでに遅く、右の脇腹を何者かが蹴り上げた。───宇佐美だ。
宇佐美はそのまま手にしていた銃剣を尾形に向け、尾形はすかさずレンガの壁に突き立てられたそれに銃床を振り下ろしてへし折る。もちろんその程度で猛攻が止むことはなく、宇佐美は掴みかかって尾形の顔面を殴りつけた。

「百之助ェ、誰が安いコマだ?えぇ?」

壁に押し付けられ、容赦のない拳によって鼻と口から血があふれた。宇佐美の言葉は一年と少し前の日からの丁度続きだ。この男は相変わらず執念深くて参る。尾形が応戦しようと小銃を持つ手に力を込めれば、それを宇佐美が押さえつけ、ボルトを弾いて引き金を操作して弾倉の底鈑を外して装填されていた実包をすべて地面に放り出す。実包が四方に散らばった。
すかさず弾薬盒に手を伸ばすも、その腕を掴まれて投げられ、床にどっと転がされた。

「ぶふぅ…」

派手に口の中を切っている。これくらいは何ともないことだが、小隊の中でも特に柔術を得意とするこの男とこの状態でやりあうのは分が悪い。まともにやりあえば勝機はない。まともにやりあえばの話だが。

「どうした!?立てよ…」
「ぶふぅ……」
「銃剣を抜いてかかってこい」

頭上から声が落ちてくる。宇佐美は気が付いていない。
尾形が引き倒された場所には実包がひとつ転がっていたのだ。尾形はそれにいち早く気付き、宇佐美が勘づく前にうつ伏せになることによってそれを隠した。
尾形は黙したままその実包を口に含む。宇佐美はどうにも小樽での尾形の物言いにご立腹のようだ。今すぐにとどめを刺せばいいものを、自分の有用性を示すためにそれをしなかった。尾形はずるずると這いずり小銃に手を伸ばす。

「何だよ、結局お前は銃にしかすがれないのか。弾の抜かれた銃でどうするつもりだ」

宇佐美がそう言い、尾形の腰の弾薬盒から挿弾子を一つ取り出すと、尾形の顔の前にがちゃんと投げる。尾形はやっと辿り着いたふうを装いながら、口を機関部に近づけ、口内で実包をころころと動かすと、すぐにでも装填できるように向きを整えた。あとは機会を待つだけだ。

「取れよ。その弾薬を装填するのが早いか……僕がお前の銃剣で心臓を一突きするのが早いか……」

宇佐美の銃剣は先ほど折ってやったから、もうここでこの男の武器になりそうなものは尾形の銃剣くらいしかないだろう。素手で人を殺すことも出来るだろうけれど、この言葉を聞けば宇佐美が尾形と勝負をして分からせてやりたいと思っているのは明白なことだった。

「それにしても…誰が一番安いコマだバカ野郎が!商売女の子供の分際で!!」

そういうや否や、宇佐美は尾形の腰から銃剣を引き抜いた。尾形はすかさず口で実包を捻じ込み、素早くボルトを操作して実包を薬室に装填する。ぐるりと銃を反転させて宇佐美に向けて引き金を引くと、耳慣れた銃声がダンッと大きく響いて宇佐美の腹部を貫いた。
宇佐美はどうして尾形が挿弾子に触れてさえいないのに撃つことが出来たのかと目を見開き、それから足元をふらつかせて階段を転がり落ちていった。
尾形はすぐさま挿弾子を手に実包を装填し、宇佐美の転がり下りた階段に向かって立ち上がる。

「………チッ…」

しかしそこに宇佐美はすでにおらず、ひどい血痕が残るばかりであった。尾形は舌を打ち、この先どう動くべきかを思案した。



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