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土方一行と別れたナマエは、尾形と合流をしようと札幌の街を探して回った。騒動が起きる直前はそれなりに近い場所にいたはずである。しかもあれだけの騒ぎになったわけだし、尾形のほうも何かを察知している可能性は高いと思われる。
まず彼なら、距離をとってでも見通しのいい場所に行くのではないだろうか。狙撃手にとってそれより有利な場所などないだろう。そう考えて火の見やぐらを見に行ってはみたが、そこに彼はいなかった。

「はぁ…尾形さんどこかな…」

万が一尾形が土方と杉元の合流に気が付いていなかった場合が一番まずい。ナマエの時と違って、いくら土方が止めても杉元は尾形を殺しにかかるだろう。協力関係を結ぶとなった今、杉元を止められる人間がいるか甚だ怪しい。

「あれ、奥さんそんなに焦ってどうしたんですか?」
「えっ…」

声をかけてきたのは眼科医院の医者だった。往診か何かの帰りなのか、革の鞄を提げている。ナマエがどう答えるかを逡巡していると、医者のほうが先に「もしかして」と口火を切る。

「旦那さんとはぐれたんですか?」
「あ、あの…はい…」
「そうだったんですね。旦那さん、さっき大通りから北に行く道でお見かけしましたよ」

思いもよらない朗報だ。ナマエは「ありがとうございます」と頭を下げ、すぐに医者が尾形を見かけたという北へと向かった。
大通りから北へ行く道といってもいくつもある。あとは虱潰しに探していくしかない。状況が状況なだけに、あまり人通りの多い道は選んでいないだろう。こっちの道か、それともあっちか、と奔走していると、不意に物陰からぬっと手が伸び、ナマエの肩を掴んで引き込んだ。

「きゃっ…!」
「騒ぐな、俺だ」

ナマエを引き込んだのは尾形だった。悲鳴を上げないように一度ナマエの口を手で塞ぎ、自分であることを確認させてからすぐに開放する。ナマエは尾形の無事にホッと息をついた。

「ご無事で良かったです。実は杉元さんたちが…」
「ああ、知ってる。見てた」

やはりどこかから見ていたのか。それで物陰にわざわざ隠れていたというわけだろう。ナマエは尾形に「これからどうしますか?」と尋ねる。

「土方のところにはもう戻れん。が、五人目の殺人というのがもうすぐだろう。多少危険ではあるが、このまま札幌に潜伏して戦況を見る」
「わかりました」

日が暮れるまでは探される危険性を回避するため、その場に留まることにした。幸い空き家の多い地区なのか、少し奥まった道に入れば人通りはほとんどない。
それから日が落ちるのを待って、尾形の見繕ってきた空き家に転がり込む。朽ちかけた板の間の隅にふたりで身を寄せ合った。

「お前、よく逃げ出してこれたな」
「土方さんが行かせてやれと。私には情報も刺青人皮も持たせてないからって」
「ははっ、甘いのは永倉だけかと思ったが、存外土方もお前に甘かったようだ」
「でも、おかげで土方さんたちのところを抜けることが出来ました」

土方の言葉がなければ、少なくともあの場で穏便に抜けることは出来なかったように思う。ナマエは彼らの仲間では決してなかったし、殺すまでの道理はなくても生かして逃がすには知りすぎている。尾形も「確かにな」とナマエの言葉に頷いた。

「杉元と土方は何だって?」
「網走監獄で土方さんが杉元さんを罠に嵌めたらしいです。それで杉元さんすごく怒ってて、会うなり一触即発って感じでした」

見ていたとはいえ会話までは聞こえていなかったのだろう。尾形に尋ねられ、ナマエは騒動のことを報告した。
仔細までは分からなかったが土方が杉元を罠に嵌め、そのために網走監獄で彼らが決裂するに至った。そして土方はあのまま網走監獄で杉元を殺しても良いとさえ思っていた。

「そんなことだろうと思ったぜ。土方の計画にはどうせ杉元が邪魔になるに決まってる」
「そこからは見たまんまなんですけど、牛山さんが止めて杉元さんが応戦してめちゃくちゃになりました」
「仲裁したのはアシリパに見えたが」
「はい。アシリパちゃんが我々は協力するしかないと…」

確かに、現在刺青人皮の在り処は土方陣営と鶴見陣営に二極化している。そして暗号を解く鍵はアシリパの中にだけある。土方陣営はアシリパを得ることが必須だし、杉元たちは刺青人皮を集めなければならないのだから、見事な利害の一致というものである。

「杉元さんが尾形さんに撃たれたことも言っていました。あと尾形さんの名前を聞いた途端、異人の鉄砲を持った男の人に尾形さんが近くにいることを伝えて…異人さんはキョロキョロ尾形さんを探している様子でした」
「ほう…状況から考えてロシア兵のはぐれモンか…大泊にも腕のいい狙撃手がいたようだしな」

尾形には多少心当たりがあるのか、何かを思いだすようにしてじっと考える素振りをした。結局あれは何者だったのか、外国人だとは思ったが、頭巾に隠れて顔もほとんど見えなかった。

「心当たりがあるんですか?」
「ああ。ロシアの国境守備隊に腕利きの狙撃手がいた。樺太で撃ち合いになったんだが…かなりの腕前でな。生きているとは思わなかったが、ひょっとするとそいつかも知れねぇ」

尾形が狙撃について他人を褒めるところなんて初めて見た。彼ほどの腕の狙撃手が認めるなんて相当の腕前に違いない。経緯が分からないから杉元の仲間かどうかは何とも言えないけれど、少なくともあれは尾形を狙っているとみていいだろう。

「まぁ、とにもかくにも杉元だけには会わねぇようにしねぇとな」
「はい。私だって容赦しないって言われて、それで構いませんって啖呵切っちゃったんですから」

ナマエが冗談めかしてそう言うと、尾形がふっと小さく笑った。暗くて表情が良く見えないのが残念だ。
夜が更けていく。薄い月だけのぺらりと貼られた夜は隙間風が寒々しかった。尾形の手がナマエの身体をぎゅっと抱きこむ。ナマエは少しも抵抗することなくその腕の中に収まった。

「……俺の母親は…浅草の芸者だった。父はその客の高級将校だ」

尾形がぽつりと話し始めた。
母は浅草で芸者をしていた尾形トメ。父は当時陸軍近衛歩兵第一聯隊長だった花沢幸次郎中佐。トメが身籠ったことを知り、その後、本妻が男児を生んだ。天皇に直結する近衛歩兵の将校が浅草の芸者との間に庶子を持つことは非常に外聞が悪かった。花沢幸次郎はそれ以降、ぱったりとトメのもとへ通わなくなった。

「祖母がまだ赤ん坊の俺と母を茨城の実家に連れ戻した。俺はそれからほとんど祖父母に育てられた」
「お母さまは…?」
「頭がおかしくなってた。愛した男に見限られた精神的なものだろう」

母は幸次郎に見捨てられたことの心労が祟り、茨城の実家に戻るころにはすでに心を病んでいた。どこか目もうつろで、話しかけても会話が成立することは稀だった。だから尾形は次第にあまり口を利かなくなっていった。

「あんこう鍋を作るんだ」
「あんこう鍋?」
「ああ。茨城じゃ庶民的な鍋でな。父が昔、母の作ったあんこう鍋を父が美味いと言ったらしい。だからまた食べに来てくれると信じて、冬になると母は毎日毎日あんこう鍋を作った」

傍目に見ればさぞ滑稽だったことだろう。あんこう鍋を作って待っていても、愛しいひとは絶対に姿を現すことはない。それでもトメは幸次郎の姿を夢見てずっと待ち続けた。
食卓にはあんこう鍋が並び、トメは幸次郎の話を尾形にして聞かせた。どれも覚えるほど聞き飽きた話ばっかりだった。

「俺は祖父の猟銃を持ち出して鳥を撃った。鶏肉があれば母があんこう鍋を作らなくなると思ったんだ。だが実際はそうならなかった。母は俺のことなんて振り向かずに、その日もあんこう鍋を作った」

勝手に猟銃を持ち出す尾形を見かね、祖父は銃の撃ち方を尾形に教えた。元来目のいい尾形はすぐに扱いを覚えて上達していったが、母は一向に振り向く気配はなかった。尾形がどんな鳥を何羽獲って戻ってもひたすらにあんこう鍋を作り続けた。
複雑な背景と感情を持つあんこう鍋を尾形は好物に数えている。ナマエに大雪山でその話をしたとき、一体どんなことを思い出していたのだろうか。

「だから俺は、祖父母の留守にする日、鍋に殺鼠剤を混ぜてやったんだ。そうすれば母はきっと最後に愛した人に会えるだろうと思った」
「お父さまは…」
「父は来なかった」

幸次郎がトメへの愛情を抱いてるというなら、トメの死を聞いて駆けつけるのではないかと思ったが、葬儀には顔を出すこともなく、香典はおろか線香のひとつも届くことはなかった。
自分は両親の愛を受けることなく生まれた人間であるのだと、思い知るには充分のことだと尾形は思った。

「母は俺にいつも言い聞かせた。父のような立派な将校になりなさいと…俺ならそうなれるはずだと…」

母のすがるような願いだった。日ごと愛した男の面影を増して行く息子に、その血を継いでいるのだと証明したかったのかもしれない。もはや、確かめるすべはないが。

「俺は陸軍の将校になるために金も地位も必要だと知らなかった。だから何故母は俺のことを見ないのかとも思ったが…母の言う通りきっといつか自分もそうなれるのだと信じていた。そのときやっと俺を見てくれると」

しかし現実はそうではない。尾形は嫡子として認められず、もちろん将校になるために必須の陸軍士官学校に通えるはずもなかった。
母の言ったことは嘘なのか。いや、そんなはずはない、みんな同じ人間のはずだ。自分だけがおかしいだなんて、そんなことあるはずがない。

「俺は両親の祝福を受けずに生まれ育った。だから愛というものがよくわからないし、何かが欠けた人間らしい」

尾形が凍えそうな声で言った。本当にそうだろうかと感じたが、彼自身が今こうしてそう考えているのなら、彼にとってはそれが事実なのだろう。自分が安易に口を出せる問題ではないと思ったし、それ自体が自分に出来ることではないとも思った。
ナマエは腕の中にいた状態から一度離れ、そして尾形の肩と首を引き寄せるようにして抱きしめる。尾形はされるがままだった。

「じゃあ私が、目一杯尾形さんを愛さなくちゃいけませんね」

他の人間がどう思っているかなんて知ったことじゃなかった。尾形は殺されるほど恨まれることをしているし、目的のために手段を選ばなかったことも知っている。しかしそれらはすべてナマエにとっては些末なことだった。
意地悪で、強引で、嫌味っぽくて、だけど寂しがり屋でいつも必ず迎えに来てくれる。それだけを分かっていれば充分だ。

「じきに春も終わります。夏になったら札幌神社に行きましょう。秋は一緒に美味しいもの食べて…尾形さん寒がりだから、冬はあんまり外に出られないかもしれませんね」

ナマエは火鉢の前を占領する尾形のことを思い出して少し笑う。抱きしめた尾形の背をぽんぽんと赤子をあやすかのように叩き、四季折々の美しいさまを思い浮かべた。その景色の中に尾形と二人で飛び込めたならどれだけ幸せだろう。

「私、北海道を出たことがないから、旅にも行ってみたいです。東京にも興味があるし、それにいつか尾形さんのお里にも行ってみたいなぁ」

胸の中の尾形からいつの間にかするりと力が抜ける。じっと見てみても暗い中では彼がどんな表情をしているのかもやはり見えない。

「尾形さん…?」

呼びかけても返事はなくて、ごく小さく規則的な寝息だけが返事をした。尾形に抱きしめられて眠ることは何度もあったけれど、こうして自分が彼を抱きしめて眠るのは初めてのことだと思う。少しでも彼に安らぎを与えることが出来ているだろうか。

「……おやすみなさい」

ナマエは尾形の額にそっと触れ、それからゆっくり頭を撫でた。それからとんとんとんと、調子を整えてまた尾形の背を叩く。

「とぉーりゃんせ、とぉーりゃんせ。こーこはどーこの細道だ、天神さまの細道だ」

くちをついたのはわらべ歌だった。この歌の通りに、行く道には恐ろしいものが待っていて、帰ることは困難なのかもしれない。呼吸をするような小さくささやかな声でナマエはそのまま歌い続ける。

「こわいながらもとぉーりゃんせ、とぉーりゃんせ」

それでも。彼の心の底を見た今、誰がこの男を置いて行けようか。



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