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目が覚めると、ふわふわした心地だった。同じ布団に尾形が寝転がっている。今までだってこうしてそばで眠ることはあったけれど、これまでとはまったく違う。
昨晩の熱がまだ身体に残っているように思う。奥から痺れるような感覚だ。誰かと肌を重ね合わせることをいままで想像したことがなかったわけじゃないけれど、想像なんて足元にも及ばなかった。現実はもっと熱くて激しいものだった。それはひとえに、相手が愛おしいひとだからなのだろうと思う。

「尾形さん…すき…」

瞼を降ろしたままの尾形に気づかれないようにそう言った。心に秘めていた感情は、言葉にすることでどんどんと肥大化していく。とどめようとしても胸の器から溢れ出し、溢れたそばからまた湧き出てくる。

「大好き…」

聞かれていないと思えば、大胆にそう言ってみせることさえできた。きっと起きていたらこんなふうに明け透けにものを言うことも出来ないだろう。

「もう、置いていかないでくださいね…」

もう離れたくない。離して欲しくない。尾形の迎えを疑うわけではないけれど、離れている間の寂しさは想像の何倍も胸が痛かった。それならいっそのこと、彼の隣で死ぬような思いをした方がマシだ。心底そう思えた。
ナマエはこっそり布団を抜け出すと、朝食の支度をするために厨へと向かった。布団の中で尾形がぱちりと目を開け、その後ろ姿を見送る。


厨に立ち、米を炊いて、味噌汁と、それから漬物は二種類用意する。ここは膳がないから、基本的に座卓で料理を囲むことが多い。変な感じもするけれどそんなことは言っていられないし、そもそも旅の過半数は膳などないような場所でしか食事をとれた覚えがない。
かちゃかちゃと全員分の食器を用意していると、静かな足音が近づいてきた。この足音はキラウシだろう。

「おはよう。ナマエ、俺も手伝う」
「キラウシさん、おはようございます」

キラウシはこの一行の中でも一番朝が早い。猟を生業としていたもとの生活習慣のためかもしれない。
彼はよくこうして食事の支度を手伝ってくれていた。男の人にまさかこんな手伝いをさせるなんて、と初めのうちは思ったものだが、今となっては厚意を無下にするのも申し訳なくて、申し出てくれたときは手伝ってもらうようにしていた。

「皿は七つでいいな」
「あ、はい。そうですね」

いつもなら六組の食器類を今日からは七組用意することになる。それを考えただけでなんだかくすぐったい気持ちになる。尾形がそばにいる。あんなにも待ち望んでいた彼が。

「漬物は俺が切る」
「ありがとうございます」

あれこれと分担して進めれば、支度はすぐに整っていく。そうしている間に屋敷のあちこちから物音がして、皆が順々に起床しているのだとわかった。居間に永倉が姿を現し、次に牛山が起きてくる。門倉がだらしのない浴衣姿で現れて、その後ろから土方が来たものだから門倉は慌てて居住まいを正した。

「今日も味噌汁のいい匂いだ。ナマエのおかげでまともな食事にありつける」
「ふふ、褒め過ぎですよ。でも、ありがとうございます」

土方にくすぐったいことを言われ、ナマエははにかんでそう返した。確かに一般的な婦女子程度の料理の心得はあるけれど、キラウシだって元から料理ができるし、やらせてみればきっと土方だってある程度出来るはずだ。

「あれぇ、尾形はまだなの?相部屋にはいなかったから起きてるもんかと思ったけど…」

キョロキョロと顔ぶれを確認し、門倉が何の気なしにそう言った。そうだ、尾形は今門倉とキラウシと相部屋になっている。部屋にいないのならもう起きたものだと思うはずだ。しかしその実、尾形は昨晩ナマエの部屋で眠ったし、今もナマエの部屋にいるだろう。

「わ、私探してきます…!」

考えれば考えるほど恥ずかしくて、ナマエはその場から逃げ出すためにそう言うとパッと厨を出ていく。その場にいる全員がジッと門倉を見た。

「えっ、俺なんかヘンなこと言った…?」
「うるさいジジイ。手伝え」

えぇぇ、と、門倉の情けない声だけが取り残されていた。


ナマエはすうはあと深呼吸をして、「尾形さん、入ります」と声をかけてから自分が間借りしている部屋の襖を開く。すると、そこにはきっちりと畳まれた布団があるだけで尾形の姿はない。何処へ行ってしまったんだろうか。
そのまま室内に入り、縁側に続く障子を開く。すると、尾形がじっと井戸の中を見つめていた。ナマエは雪駄を履いて尾形の元に駆け寄った。

「尾形さん、おはようございます。朝ごはんが出来たので呼びに来ました」
「ああ」

もう井戸の中に用はないのか、尾形は上体を戻して部屋に向かって歩き出す。ナマエもその後ろをついていった。縁側から部屋に上がるとき尾形は思いのほか慎重な足取りで、それがきっと右目を失ったからだろうと想像がついた。

「あの、尾形さん、必要なことがあれば言って下さいね」
「あ?何がだ」
「えっと、その…右目が見えないと不便でしょうし…」

言った後に、尾形には情けでもかけられているような気持ちになったかもしれないと気が付いて、言葉尻が萎んでいく。尾形はナマエの心配とは裏腹に片方の口角をぐいっと上げた。

「昨晩お前を巧く抱いてやったろ。あれだけ出来りゃ不便もねぇよ」
「もう!そういうことじゃなくって!」

揶揄い交じりにそう言われて、ナマエは顔を赤くした。せっかく人が心配しているというのに随分な言い草である。ナマエはふんっと顔を逸らし、尾形を追い越すと一同の待っているだろう居間に向かった。後ろから「おい」と引き止める声が聞こえるが、今は取り合ってやるつもりもない。


朝食を終え、居間に集まってこれまでの情報を共有した。尾形は樺太での足取りをより詳細に話し、土方たちも網走監獄で家永とが第七師団に捕らえられたことを含めて根室や阿寒湖での話をした。

「家永のジジイが第七師団に捕まったならここも危険じゃないか。あいつここに居たことがあるだろう?」

尾形が火鉢を陣取って言った。今まではあまり思わなかったが、彼は随分と寒がりであるらしい。ナマエは尾形の斜め後ろに座って会話に参加する。尾形の言葉に対し、永倉が一番初めに口を開いた。

「家永にとっては網走までの点々と移動した滞在先のひとつでしか無いと思うが?」
「この家まで特定して来ねえだろぉ」

永倉の後ろで門倉も同調する。確かに、ここに滞在していたのは牛山が家永を札幌のホテルから保護してきて夕張に発つまでのほんのわずかな期間である。そんな短い期間のことを特定されたりするものだろうか。

「この家を吐く前にとっくに殺されて皮を剥がされて、鶴見中尉の着替えになってるかも」

隣の間でごろんと寝転がる牛山も概ね同意見のようだ。言い分は物騒だが、確かに家永を生かす気がないのならその可能性だってある。三人の調子に尾形は「はぁ」とあからさまにため息をついた。

「あんたら鶴見中尉を舐めてるな。あの男は網走から全ての滞在先をたどってここまで見つけ出すぞ」

鶴見篤四郎。陸軍の情報将校。その情報収集能力と分析能力は正直計り知れない。ただ、今まで刺青の暗号を独自に入手していることや網走の突入さえ読んでいたことを思えば、相当な切れ物ということだけは確かにわかる。

「死神から逃げるのは簡単じゃねぇ」

ふっと尾形が笑った。死神。鶴見という男の恐ろしさを表現するにはうってつけの言葉のように思われた。
鶴見は多くの人間の生殺与奪の権を握っている。彼にとってそれらの人間の蝋燭を吹き消すことはいとも簡単なことだろう。

「尾形が正しい」

割って入ったのは寝椅子でくつろぐ土方の声だった。新聞を手に何か新しい情報を探している。一同が土方を見た。

「鶴見中尉相手に用心しすぎるということはない」

土方がそう言えば、ここで彼に反論するものなどいない。門倉が手のひらを返してうんうんと頷く。尾形も自分の主張が罷り通ったことに満足げな様子であった。

「札幌に向かう。少し心当たりと情報もあるからな…ひとつところに留まるよりはいいだろう」

土方の一声により、一行は別の拠点に潜ませている都丹たちと札幌で合流することになった。出発は明日だ。


出発前にできることは全てやってしまおうと、ナマエはいつも以上にあくせく働いた。次の潜伏先がどんな場所かもわからない。土方と永倉が用意するのだから相応のところだろうが、ひと通り繕い物などは済ませておきたい。
永倉の羽織のほつれを直しておこうと広げ、ちまちまと作業をしていた時だった。

「おいナマエ、少し鳥を撃ちに行くぞ」
「えっ、今からですか?」

尾形が黙ったままこくんと頷く。時折こうして子供っぽい仕草をする時がある。そんな時はどことなく彼がごく幼い少年のように見えた。子供時代など知るはずもないのに、妙なことだ。
ナマエは作業の手をとめ、軽く道具を片付けると尾形についていく。溶け残った雪の中を進み、遠くに鴨を捉えると尾形が小銃を構えた。
久しぶりだ。彼のこうして銃を構える姿を見るのは。しかし今まで見ていたのとは何か違って、少し考えれば構えている向きが左右逆になっているのだと気がついた。利き目であった右目を失っているのだから当然だ。

「尾形さん、そっち向きでも銃って撃てるものなんですか?」
「左撃ちは殆どやったことがない。やってみなければわからんが…撃てねぇまんまってわけにもいかんだろう」

右目を失うまでの尾形は確かに一流の狙撃手であった。彼ほどの男がたった利き目を失ったというだけで銃を諦めることはないだろう。
丁度前方にマガモが飛んできて、尾形は狙いすませて引き金を引いた。ドンッという鈍い音と共に発射された弾丸は、マガモを掠ることさえなく飛んでいってしまった。

「チッ……やはり感覚が全く変わるな…」
「尾形さんが外してるところ初めて見ました…」
「なんだよ、そんなに面白いか?」
「そんな!珍しいってだけで笑ってなんかいないじゃないですか!」

ナマエに尾形を貶める意図がないことなど彼も重々承知のことであり、冗談めかしてそう言った後、尾形は遊底を引き起こして戻し、再び弾を装填する。

「こればかりは慣れねぇとどうしようもないな」
「尾形さんならすぐに出来ちゃいそうですけど…」
「ははぁ、そりゃ大層高く買われてるな」

満更でもない様子で尾形は次のマガモを狙う。放たれた弾丸はやはり命中することはなかった。とはいえ初めより近くなった気がして、しかしこれも尾形に期待をかける色眼鏡かもしれなかった。

「尾形さん、鉄砲はおじいさまに教わったんですよね」
「ああ。家に古い猟銃があったんでな。ガキの頃それを持ち出して撃とうとしていたら祖父に見つかって、興味があるならやってみるかと」

尾形が感情の見えない顔でそう語った。ガキの頃、というのはどのくらい幼い時のことだろう。そんなに幼い尾形は、一体何を撃とうとして猟銃を持ち出したのだろうか。

「存外俺は筋が良かったらしい。皮肉なものだ」

言葉のわりに何を考えているのか少しもわからない。筋がいいことがどうして皮肉なのだろう。土方たちから聞いた彼の厄介な出自というものが何か関係するのだろうか。
第七師団長の妾の子。それは人づてに聞いた話であり、ナマエは未だ尾形から直接話を聞けてはいなかった。

「あの…尾形さん、尾形さんの昔のこと、教えてくれませんか」
「………なぜだ」
「なぜって…」

前と違って、今なら教えてくれるかもしれないと思った。しかそれはとんだ見当違いだったらしい。責めるような口調ではないが、尾形がナマエの発言を快く思っていないことは手にとるようにわかる。

「私は尾形さんのことだったら、何でも知りたいですよ」

これは屈斜路湖に向かう道中で尾形に言った言葉だ。同じ言葉だけれど、あの時よりももっと深い意味を持った。いつか彼が自分の深い部分を曝け出せる相手になれたら、それはどんなに幸せなことだろう。



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