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どれだけこの日を待っていただろう。久しぶりに見る尾形の背中は自分が想像していたよりも懐かしく感じる。
夕飯を終えてもう眠るか、というような夜半、ナマエの寝泊りしている部屋に尾形が訪れた。

「ナマエ、外を歩くぞ」
「今からですか?」

こんな夜中に何だろうか。疑問符をつけて尋ねたものの、ついていかないという選択肢はナマエの中にない。防寒のために頭巾だけを被ると、尾形のもとにトトトと歩み寄る。隠れ家の中の誰も起こしてしまわないように慎重に建物を出て、真っ暗な中をさらに慎重に歩いた。
まだまだ寒い。冷える身体をさすれば、それに気が付いた尾形がナマエを引き寄せる。

「…私、ちゃんと待ってましたよ」
「ああ。迎えに来ただろ」
「はい。尾形さん、いつもちゃんと来てくれますよね」

尾形の外套の中は温かかった。ナマエは小さく笑う。
小樽を出たあの夜、茨戸の番屋、そして網走で別れたあの夜。尾形はナマエに待つように言い、尾形は必ずナマエを迎えに来た。尾形は必ず迎えに来てくれる。だからナマエは尾形を待つことが出来る。

「樺太は、北海道より寒かったですか?」
「ああ。北海道にはいない生き物もいた」
「どんな生き物ですか?」
「鹿に似ている。馴鹿と言うらしい」

雪に吸い込まれてしまいそうなささやかな会話だった。あてもなく進むこの暗闇は、まるで二人の旅路のようだ。尾形は樺太で何を見てきたのだろう。叶うならば一緒に見てみたかった。そんな我が儘は、言ったところでしようのないことだけれど。
その時だった。隣の尾形がすっと足を止めたために外套からするりと抜け出してしまう形になり、ナマエは振り返って尾形と向かい合う。

「尾形さん?」

尾形の猫の目がじっとナマエを見つめた。片方だけになってしまって痛々しい。尾形はゆっくりとまばたきをして、それからそっとくちを開く。

「…杉元を撃ったのは俺だ。というか、正確には殺そうとして仕留め損なった」
「そう、ですか…」

先ほど尾形は「流れ弾に当たった」と説明していたけれど、それは真実ではないようだ。尾形は故意に杉元を撃ち、そして仕留めそこなった。どうして土方たちに本当のことを言わないのかその理由を教えてもらうことは出来るのだろうか。

「アシリパから暗号を解く鍵を聞き出そうとしたんだがしくじってな。右目がこのざまだ。やっぱり俺ではだめらしい。上手くいかんもんだ」
「その…右目は、アシリパちゃんが?」
「ああ。もっと言えば出くわした杉元に驚いてあの娘が手元を狂わせたんだが」

淡々と右眼をなくした理由を述べる尾形は、どこかそれさえも他人事のようだった。それに底の見えない闇を感じる。
尾形のことを自分はなにひとつ知らないのではないか。この男はナマエにだけすべてを曝け出しているふうでいて、それでもまだ踏み込ませない闇を持っている。けれどナマエに、それを暴こうという気はなかった。尾形の目が濁る。

「あの娘も勇作殿もそうだが…どうして道理があるのに人を殺さないのだろうな。俺は道理をやったんだ。お前の父を殺したのは俺だと教えてやった。なのにあいつはギリギリまで俺を殺そうと躊躇ったし、実際この右目も事故みたいなもんだ。このまま穢れずにこの争奪戦をやり過ごすつもりなのか」

いつになく尾形は饒舌だった。目の前にいるのにまるで遠い。ナマエではない誰かと会話をしている。饒舌なそれは独り言よりも対話であり、対話ではあるが相手はナマエではない。妙な隔たりがそこにある。

「俺には罪悪感というものがないらしい。人を殺しても何とも思わんし、必要なときは誰だって殺す。祝福を受けていない呪われた人間だ」

左だけの猫の目がぎょろりとナマエを見つめた。そこで初めて言葉が会話に変わった。尾形の掠れた声だけがひっそりとナマエに届く。これがき出しの尾形なのか。ぞくりと背中が粟立つのを感じる。

「お前も俺を、おかしいと思うか」

雪に吸い取られて、尾形の掠れた声しか聞こえない。風もやみ、まるで夜のとばりに何重にもくるまれているようだった。

「たとえそうだとして、それはいけないことなんですか」
「質問を質問で返すな」

ぴしゃりと言葉を断ち切られ、ナマエはぐっと押し黙る。
この問いに何の意味があるんだろう。しかし尾形にとって重大な問いであることは見ていればわかる。
ナマエはこの旅で結局人を殺してはいないけれど、何度もその手に銃剣を握った。誰かに強制されたからではない。ナマエの意思で柄を握り、仇なすものに切っ先を向けた。たまたま偶然が重なってそれを振り下ろしていないだけで、ナマエはきっと、それで人を傷つけることも辞さないだろうという自覚がある。

「…おかしいとかおかしくないとか、よくわかりません。私きっと、尾形さんが危ない目に遭っていたら相手が誰でも殺してしまうと思います。私なんかでどうこうできる相手に尾形さんが追い詰められるところなんて想像できませんけど…」

守るために拳を振り上げる、なんていう綺麗ごとは言えなかった。これはナマエの勝手な自己満足の領域の話だ。尾形に生きていてほしい。尾形が他人に害されるところを見たくない。それだけの話だ。そこに罪悪感が生まれるのか、それは想像したところでわかるはずもない。
そして少なくとも、尾形はその明確な答えを求めてナマエを問いただしているわけではないということは充分にわかることだった。

「それに私、今の話聞かされたって、ついてこなければ良かったなんて、ちっとも思いませんからね」

大雪山で鹿の腹の中に潜り込んで吹雪をやり過ごしたあの日、あまりにも小さな声でナマエに後悔を尋ねた。まるで母の機嫌を伺う子どものようだった。いくらだって怖いことはあって、不安で眠れない日もあった。それでもここまで来たことに何一つとして後悔はない。

「ははぁ、俺がとんでもねぇ悪人だとしてもか」
「はい」

ナマエが空いてしまっていた一歩分の距離を詰めると、珍しく無防備にさらされる尾形の身体を目一杯両手で抱きしめた。大人の男の身体だとわかっているのに、今日はどうしてだか小さな子供を抱きしめているような気分になった。この体温を感じたかった。ようやく迎えに来てくれた。

「私、はじめから尾形さんのこと、別に善人だなんて思ってないですよ。優しくないし、すぐ嫌味言うし…」

ぽつりぽつりとこぼせば、尾形が「随分な言われようだな」と茶化した。ナマエはそれに「もう…」とため息をついて、そのまま言葉を続ける。

「尾形さんのこと善人だなんて思ってませんけど、あの日もう会えないかもって思ったらすごく嫌だったんです」

小樽の診療所で「俺についてこい」と言われた。それだけで充分だった。そして「お前も決めろ」と言われたあの日にもうそれ以外に道はないと予感していたし、それが自分にとって間違いのない道であると確信めいて思っていた。生きててくれてよかった。また会えてよかった。

「もしも最後に何も残らなくても、尾形さんとなら、いいんですよ」

小樽での日々が懐かしく感じるほど遠い。ゆく先は地獄かもしれない。生きているほうが不幸だと思うほどのことが待っているかもしれない。けれどもう、この男からは離れ難い。
あなたとなら、どうなったっていい。心の底からそう思ってしまったのだ。この選択に少しも後悔はなかった。

「好きです」

言葉があふれた。これを言葉にするのは初めてだった。だけどどこまでも自然で、当然のように紡ぎ出された。このひとの傍にいたい。もう離れたくない。怖いことはひとつもなかった。
尾形が手のひらでナマエの頬を掬い、ゆっくりとその顔を近づけた。ナマエは導かれるように瞼を降ろし、やがて唇に尾形の少しかさついたそれの感覚が重なる。味のない口づけは冷えていて、触れあったところから溶けていくように感じる。

「尾形さん」

少しだけ唇が離れた隙に彼の名前を呼ぶ。吐息がすっとかかり、二人の間をほのかに白く染めた。
尾形はもう一度ナマエに口づけをする。何度も重ね、自分たちの輪郭を探しているような気分になった。

「ナマエ…冷える。部屋に戻るぞ」

尾形の一声でナマエはそっと体を離し、ふたりで元来た暗闇を歩いた。さく、さく、さく。雪を踏む音がする。じきにこの雪も溶けるだろう。そうしたらまた春が来て、夏になる。秋と冬と、それを繰り返してそばにいることが出来たら、どれだけ幸せだろう。
尾形は自分に与えられた相部屋には戻らず、ナマエの部屋に上がりこんだ。思いのほか長く外にいたものだから、指先まで冷え切っている。

「すっかり冷えちゃいましたね」
「貸せ」

ナマエが困ったように言えば、尾形はナマエの手を奪うように取った。ささくれた自分の手のひらと合わせ、指先を揉むように温めていく。ろうそくだけの部屋の明かりで尾形の顔の凹凸が陰になって揺れた。

「んっ…お、尾形さん…くすぐたい…」
「なんだよ、温めてやろうとしてるのに」
「も、大丈夫ですから…」

声音がどう聞いても揶揄っているときのそれだ。触れるところからじんじんと痺れ、まるで自分のものでないかのような感覚に陥る。尾形の手は大きく分厚く、自分のものとはまるで違うと思い知らされる。

「…お前の手は、小さいな」
「え…?」
「柔らかくて白くて…少し力を込めただけでも壊れちまいそうだ」

尾形の低い声がナマエの心臓を撫ぜた。ナマエは尾形の手を繋ぎ止めようと、一方的に掴まれていたところから指を絡めるようにして動かした。指の隙間からぴったりと触れあい、そこから二人の境界線が曖昧になっていくようだ。

「平気です。意外と頑丈ですから。もっと、握っていてください」

ナマエが言えば、尾形は黙ったままその手を引き、ナマエを自分の胸元にすっぽりと収めた。お互いのぬくもりが冷えた体を温めていく。抱きしめているのは尾形だけれど、包んでいるのはナマエだった。そういう絶妙な均衡が成り立っていた。

「尾形さん」
「…ナマエ」

ふっと顔を上げると、また尾形の口づけが降ってきた。今度はそれだけではなくって、口の端と、顎と、首筋と、あらゆるところにしるしを付けるように与えられた。くすぐったくて肩が震える。だけどもそれ以上に尾形がこんなにも近くにいることに充足感を覚える。

「んっ…あ、尾形さ…」
「あんまり艶っぽい声を出すな。聞かれるぜ」

自分がそうさせているくせになんて言い草だ、とも思うけれど、そうして意味深に笑うのさえ惚れ惚れとしてしまうのだから仕方がない。ナマエは上唇と下唇をなるべく離さないようにぴったりと合わせ、波のようなそれをなんとかいなしていく。

「ナマエ」

尾形が名前を呼び、そのまま少しの力でナマエを組み敷く。少しの力でそうなったのは、ナマエに抵抗する気が露ほどもなかったからだ。
尾形が帯に手をかけ、あっさりと解かれていく。襟元をくつろげると、尾形はナマエの鎖骨のあたりに舌を這わせた。

「ぁ……んッ…」

尾形とこんなふうになるのは、あの釧路の海岸線の番屋以来のことだった。あの時は咄嗟に「こわい」と言って彼を遠ざけてしまったが、今日は違う。不思議と少しも怖くなくて、もっと尾形のことを知りたいと思う。
分かり合えなくても傍にいて、ひとつになれなくても触れあっていたい。すべて彼に捧げてしまいたい。

「尾形さん、私のこと貰ってください」
「なんつう殺し文句だ。お前はよ」

花びらを摘み取っていくように一枚一枚ナマエの纏う布を取り去っていく。そのたびにささやかな空気の流れで炎が揺らめいた。お互いを埋めるように抱きしめる。途方もない寂しさが少しだけ夜の闇に紛れていった。



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