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アシリパの毒矢を受けた右目は、彼女に人を殺させまいとする杉元によって抉り出され、尾形は一命を取り留めていた。二ヴフの家の隅に横たえられ生と死の狭間を行き来する。目隠しのように両目を布で覆われ、周りの様子を確認することは出来なかった。
酷い熱にうなされる中、不意にロシア語がぼそぼそと聞こえてくる。ロシア語の話者は男で、杉元一行に『日本の兵士か?』と尋ねると、月島が連れ去られた少女を探しに来たこと、それから回復したら大人しく日本に帰ることを伝えた。
声が近づき尾形のことを『私の病院に運ばなければ』と言った。どうやらこの男は医者らしい。これは好機だ。目隠しをされた状態で手負いの尾形が杉元から単純に逃げるのは不可能だろう。

「病院のほうが機材が揃ってると言っている」
「ダメだ、ここでやれ」

通訳した月島の言葉を聞いて間髪入れずに鯉登が言った。医者の男がロシア語で『彼を助けたいんだろ!?』と強く言う。すると杉元が「わかった、運ぼう」とそれに応じた。

「おい杉元、いい加減に…」
「尾形にはいろいろ聞くことがある。まだ死なせない」

あまりの気迫に鯉登が黙った。医者が『ロシア軍に通報すればせっかく治療したのが無駄になる』と一行をロシア軍に売ることはしないと暗に言えば、根負けした鯉登が折れ、尾形は病院に連れていかれることになった。
犬ぞりに乗せられ体を固定される。雪の降る風の音のする中、杉元と鯉登が何かを話していたようだが、内容までははっきりと聞こえてこなかった。


病院に連れていかれた尾形は、手術室で処置を受けた。どろりと右目から血が流れていくのを感じる。コカインを用いた麻酔で痛みは緩和されているが、ずきずきと奥のほうが痛むように感じた。
数時間の処置のあと、医者が手術室を出て行った。看護婦がかちゃかちゃと道具を整理している。数分でまた扉が開き、医者が戻ってきたことがわかった。尾形は素早く上体を起こすと、驚く間を与えることなく傍にあった金だらいを投げつけ、そのまま鼻っ柱を殴打する。医者が呻き声を上げながら床に突っ伏し、今度は手術台の近くに置いてあった鋏を手に取ると看護婦の喉元に突きつけて窓を開け、扉の裏に潜んだ。またひとつ足音が近づく。尾形の読みだと杉元か鯉登だろう。

「尾形が逃げた!!」

部屋に踏み込んだのは杉元だった。杉元は空いた窓を見てそう叫び、ろくに部屋の中を確認することもなく踵を返してアシリパへ尾形の逃走を報告しに行った。表から「裏へ回れッ!白石と谷垣は向こうだ!」と杉元の指示する声が聞こえる。次に手術室に足を踏み入れたのは鯉登だった。

「生きてるか?しっかりしろ」

うつ伏せで倒れる医者の傍に屈み、そう声をかける。そのとき、鯉登が扉の裏に隠れる尾形の存在に気づいて拳銃を抜いた。

『その男を殴り倒せ!』

尾形がロシア語で指示をする。尾形がロシア語話者であることを知らない鯉登は飛び出たロシア語に怪訝な顔をした。

『この女を刺すぞ!その男を殴り倒せ!!』

動きの鈍い医者に脅しをかけると、ロシア語のわからない鯉登は隙だらけのところを医者によって殴打された。床に突っ伏し、尾形は鯉登の銃を握る手ごと踏みつけ、それを拾ってこめかみに突きつけた。鯉登が尾形を睨み上げる。

『ボンボンが』

鯉登という男は、尾形の欲しいもののほとんどを持っているように思われた。恵まれた家庭で将来さえ約束されている。のうのうと手のひらで転がされているとも知らない滑稽なこの男が、自分がどうあがいても手に入れることの出来ないものを持っていると思うとどうしようもなく腹が立つ。
尾形は窓の向こうに白石と谷垣の声を確認すると、鯉登の顎を蹴り上げてそのまま馬小屋に急いだ。繋がれている一頭の縄を外し、そのまま跨ると馬の腹を蹴り、歩行の合図を出す。動き出した馬を駈歩で走らせ、軽快な動きで病院から遠ざかった。

「杉元ッ!尾形が逃げる!!」

背後からアシリパの声が聞こえた。すぐに杉元がアシリパの傍に駆け寄り、そこから小銃で馬を狙って発砲した。射撃がめっぽう苦手な杉元の撃った弾は馬にも尾形にも当たることなく、そのまま橋を渡って駆けていく。

「ははッ」

馬上で両手を大きく広げる。どうせ当たりやしない。コカインの作用で心臓が必要以上に拍動する。興奮した頭では目の前のものがくっきりと鮮明に見えた。生かしておこうなんて考えるからいけないのだ。尾形は背後の杉元を嘲笑い、遠く、遠くへと馬を走らせた。


目標は北海道への帰還である。杉元たちを警戒するのはもちろんだが、もうしばらくで鶴見たちがアシリパ引渡しのために大泊あたりへと来るだろう。北海道へ戻るなら連絡船が1番手っ取り早いが、船賃もなければむしろ衣服さえない状態である。なんとかしなければ流石に北海道へ戻るどころの話ではなくなるだろう。
尾形は馬を降りると、一軒の民家に目をつけた。丁度洗濯物が干してある。あれを拝借しよう。

『そこで何をしている!!』

ロシア語が背後から飛んできた。住人に見つかったか、と思って振りかえれば、そこに立っていたのは自分の祖父母ほどの歳の老人であった。揉め事を起こして妙な日本人だと軍へでも突き出されたらたまったものじゃない。尾形は潔く洗濯物から手を離す。

『すみません、戦争で記憶があいまいで…どうにかここまで来たのですが寒くて死んでしまいそうだったんです。服を盗もうとして申し訳ありません』

善良さを装ってそう言えば、男は眉間にぐっとしわを寄せる。抵抗されても丸腰の老人であればいなせるだろう。尾形は悟られないように陰でぐっと構える。
老人はそれ以上尾形を追及するような姿勢は見せず小さく頷いてから尾形に言った。

『ついて来なさい』

尾形は逡巡してから、結局老人の後ろについて家に上がった。簡素なつくりの家で、中には同じ年の頃の老婆が縫物をしている。老人は老婆に歩み寄ると、小さな声で何事かを伝える。それから老婆は頷いて奥へと引っ込み、少しの間待つと手にスープの器を持って戻ってきた。

『そんな姿でここまで来たんじゃロクに食べていないんだろう』

さらに奥へと手招かれ、尾形はそれに従う。今のところ敵意のようなものは感じられない。テーブルに着くと、老婆は他にもライ麦のパンを持ってきて尾形に振舞った。

『この家で休むといい。おいお前、彼に服を用意してあげなさい』
『ええ、今持ってきます』

尾形は目の前の食事を見つめ、それからそろりと匙を持つと器の中にそれを沈める。根菜とチーズの塊が少し浮いている。味も独特で、兵営にいる間にも食べたことのないものだった。なにか香草のような匂いがする。
ライ麦のパンは固く、少し酸っぱく感じる。しかし空きっ腹にはいずれもずいぶんなご馳走だ。老人が『たくさん食べなさい』と言った。

『…どうして行きずりの私に良くしてくださるのですか』

尾形は手を止めて尋ねる。手術着のまま外をうろついていたような自分を保護する義理はない。ロシア軍に突き出してもいいくらいだ。なのにこの老夫婦は当然のように食事を用意し、衣服を与えた。

『私の孫は、日露戦争で死んだ。生きていたら君くらいの歳だっただろう』

悲しむでもなく、ただただ真っすぐな声だった。老人は目を細める。この言葉に嘘はないように思われた。なにより、素性もわからない尾形に対して嘘をついて得をするようなことがひとつもない。

『さぁ、パンのおかわりはいかが?』

老婆がかごに入ったライ麦パンを持ってきた。顔も声も国籍さえも違うのに、老夫婦を前にすると、茨城の田舎で過ごした日々のことが思い起こされるような気がした。


五日程度その家で厄介になったあと、尾形はひっそりと老夫婦の家を後にした。ささやかな礼として棒鱈を置き、残りは船賃がわりにするために持って出る。万全な装備というのは流石に難しいだろうが、どこかで小銃のひとつでも調達したいところである。

「まずは大泊か…」

じきに鶴見がアシリパを引き取りに大泊に来るだろう。そうでなくとも連絡船に乗らねば北海道に戻ることさえ出来ない。大泊に向かって損はない。尾形は馬にまたがると、大泊までの道を急ぐ。馬のおかげで数日のうちに大泊に到着したが、どうにも自分は間が悪いらしい。いや、こんな状態は逆に強運と言えるか。

「俺は不死身の杉元だ!!」

港のほうから大声でそう聞こえた。他にも銃声やら物音やらが騒がしく響き、尾形はすぐそばの建物に身を隠す。なんという巡り合わせか、まさに杉元一行は大泊で第七師団と対峙していた。
遠くに見えるのは見覚えのある一等卒と、それから特務曹長である菊田の姿もある。鶴見の姿は確認できないが、アシリパを確保できる絶好の機会に本人が顔を出さないとは考えずらい。あの手この手を使ってアシリパと杉元を説き伏せるに決まっている。

「くそ…杉元…」

小さく吐き出された声だったが、それは尾形もよく知る人間の声だった。舌打ちを加えて雑に顔についた血を拭うのは同じ上等兵の宇佐美であった。この男は面倒だ。口先で躱すのも難しいし、どうせ小樽でのことを根に持っているだろうから見つかれば確実に殺しに来る。
今すぐどうにか杉元の足跡を辿りたいけれども、この男だけはまずい。
尾形は視界から宇佐美を含む兵士たちの姿がなくなったことを確認してからそっと建物の陰を出る。

「チッ……奴らも連絡船だろうが……」

同じ船に乗るわけにはいかない。万が一船内で鉢合わせたら間違いなく杉元佐一に殺される。数日待って追いかけるのが得策だろう。その場で息を潜めて様子をうかがっていると、一発の冴えた銃声が聞こえてきた。港のほうだ。
狙撃手の性だろうか、その銃声のほうを確認しにいくと、流氷の上に兵士がうつ伏せで倒れている。周囲に人がいないのを見て、尾形はその遺体に近づいた。見事に頭を撃ち抜かれている。視線を感じてハッと振り返ると、流氷の舟遊びをしていた地元の子どもが尾形をじっと見ていた。

「おい坊主、この兵隊が撃たれたところ見たか?」
「うん。連絡船から鉄砲の弾が飛んできた」
「連絡船は…どこにとまってた?」
「あのへん」

子どもに尋ねると、子どもはそう言って二百メートルほど向こうを指さす。思わず「…手練れだな」とこぼした。
杉元でも白石でもアシリパでもない。誰か他に、途轍もなく腕のいい狙撃手がいる。二百メートルもの距離がありながら頭を精確に撃ち抜くとはそういうことだ。
しかし丁度いい。これで軍衣も軍袴も小銃も手に入る。尾形は早速遺体からムイムイと軍袴を脱がせる。

「どうして脱がせるの?」
「だってもう使わないだろう?」

軍袴も軍衣も革帯も弾薬盒も取り去ると、尾形は転がっている小銃をすっと手に取った。

「この銃だって…自分がブッ壊れるまで人を撃ちたいはずだ」

久しぶりに持った小銃の感覚は心地よかった。ようやくこれで本領の発揮ができる。狙撃手は銃を持っていなければ始まらない。左撃ちにはしばらく慣れが必要だろうが、そのうち必ずモノにしてみせる。


兵隊の格好というものは便利だった。翌日から尾形はさも軍が人を探しているようなていで旅館を中心に「アイヌの少女」の行方について聞いて回った。連絡船に辿り着いたかもしれないが、そこで鶴見に捕まった可能性も大いにある。

「アイヌの女の子?ああ、泊まってたわよ。海軍がその女の子を追っかけて連絡船を砲撃したとかなんとか。噂になってたもの…」

とある宿で話を聞くことが出来た。やはりアイヌは目立つし、それでなくてもいかつい男が一緒に犬のようについて回っているのだから印象に残りやすい。女将はよく覚えているようだった。

「女の子は捕まった?」
「北海道の近くで船から流氷に降りて逃げちゃったんだって」

これは逃げおおせたとみえる。鶴見にアシリパを確保されてしまえば、せっかくここまであれこれと状況を拮抗させていたのが大きく傾いてしまう。それを危惧していたのだ。尾形はにやりと口角を上げた。
北海道に戻って、今度は土方陣営について情報をもたらす。そして金塊争奪戦にもっと混乱に陥れる。

「ふ…生きてりゃ良いがな…」

そう言いながらも、恐らく彼らは、特に永倉はみすみす彼女を死なせることはないと踏んでいた。きっと今日も愚直に自分のことを待っているだろうナマエの顔を思い浮かべる。思い出すのはやはり、ナマエの笑った顔ばかりだった。



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