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土方一行は情報収集を続けながら小樽に向かった。ナマエたちがアジトについた数日後、牛山、門倉、キラウシの三人も宿に合流するところとなった。
また大所帯に逆戻りだ。しかも、有古という新しい顔ぶれも増えた。こうなると、思い出すのは家永のことだった。土方一行と行動をしていた時に一緒におさんどんをしてくれたのは家永だった。今どこにいるのか。網走で第七師団に捕らえられてしまったのは間違いないだろう。腕利きの医者というところを見込まれ、ひどい扱いを受けていないことを祈るばかりだ。

「ナマエ、洗濯物取り込んできた」
「あっ、キラウシさんありがとうございます」

ぼうっと考えているうち、取り込もうと思っていた洗濯物をキラウシが取り込んで来てしまった。いけない。ちゃんと役に立たなければ。
畳の上のそれをせっせと畳んでいく。キラウシの手つきも慣れたものだ。

「ナマエ、聞いてるか」
「え?あ、すみません、ぼーっとしてました!」

いつの間に話しかけられていたのか、キラウシが心配そうにナマエを覗き込んでいた。考えたって仕方のないことばかり考えてしまう。もうあの網走の出来事から五ヶ月近く経過していた。

「あの、なんでしたか?」
「…いや、俺が来る前にもこうして一人で洗濯や食事の準備をしていたのかと思って聞いただけだ」
「前は家永さんという方がいて、一緒にやって下さってましたよ」

丁度今その家永のことを考えていたところだった。人を食う凶悪犯である。けれど、ナマエにとっては極めて優秀で頼りになる医師であり、優しい姉のような存在であった。

「イエナガ…ナマエみたいに一緒についてきた女がいたのか?」
「いえ、その、家永さんはおじいさんなんですけど、なんていうんだろ。まるで見た目は美女なんですよ」
「爺さんなのに美女?」

家永を知らない人間に家永のことを説明するのは難しい。ナマエでさえ男であることを忘れそうなほどまるで女であり、料理に洗濯など女の仕事はどれも器用にこなしてみせた。会ったこともないキラウシには想像もできないだろうと思う。

「牛山さんの方が上手く説明できるかもしれません。網走監獄でも一緒だったらしいですし、家永さんをここまで連れてきたのも牛山さんでしたから」
「爺さんなのに美女で網走監獄の囚人だったのか?ますますわからないな…」

キラウシがキョトンと首を傾げる。その仕草が大人の男とは思えずにナマエはくすくすと笑った。


前にも世話になった永倉の親戚の家だったというアジトだけに潜伏するには少し手狭だったため、近くに別の潜伏先を用意して別れて潜伏した。そちらの方のあらゆる世話は夏太郎が中心になり、有古も手伝っていると聞く。

「はい、ナマエさん。今日の買い物の分っす」
「夏太郎くんありがとう。ごめんね、いつも私行けなくって」
「ナマエさんワケありでしょ。これくらい俺が行きますんで」

ナマエは買い出しに行くことを永倉から禁じられていた。小樽を出て一年と経っていない。薬問屋の主人がまだ探しているかもしれないし、うっかり顔見知りにでも会ってしまったら噂が広まってしまう。ことが大きくなるのは一行もナマエも望むところではない。

「よいしょっと…今日は土方さんも永倉さんも戻らないし…牛山さん夕飯はいらないって言ってたから…こっちは三人分でいいかな?」

受け取った食料を厨に運び、今日の献立を考える。時折キラウシが鳥を撃ってくれることもあったから、食材はいつも豊富だった。牛山が特によく食べるので、食料が多いことは大変ありがたい。

「お、いいねぇ。若い娘が厨に立ってるってのは」
「あ、門倉さんお帰りなさい」

町まで情報収集に行っていた門倉が戻ってきた。彼には離縁した妻との間にひとり娘がいて、それがナマエと同じ年のころなのだそうだ。それもあってなのか、ナマエのことをあれこれ何かと気にかける節がある。

「今日の夕飯はなんだい?」
「今日は夏太郎くんがお魚買ってきてくれたんです。なので焼き魚とお芋の煮つけにしようかなぁと思って」
「芋の煮つけいいね。酒が進みそうだ」
「もう。飲みすぎは体に悪いですよ?」

土方がいる日は気が引き締まるのか粗相はしないのだが、たまにキラウシとふたりで晩酌してべろべろになっているところを見かける。ひとつの気分転換だろうと思うけれど、飲みすぎは心配だ。

「あれ、ナマエちゃんなんか落としたけど…」
「え?あっ…写真!」

ふっと振り返った際にぴらりとはがき大の白い紙が落ちる。門倉がそれを拾い上げた。それは北見の写真館で撮った尾形との写真であった。ナマエは尾形と離れて以降、それをこっそりと見ては湧き上がる寂しさを押さえていた。

「ほらよ、大事な写真なんだな」
「えと…はい…土方さんのお知り合いだという写真師の方に撮っていただいて」

門倉が差し出したそれを受け取り、ぎゅっと胸元に押し付けた。尾形は今頃どこで何をしているだろうか。彼の迎えを待つ時間は途方もなく長く感じる。門倉が唇を引き結ぶナマエを見下ろし、それからナマエの肩をぽんと叩いた。


あれこれと準備を整えて、おさんどんに追われているとあっという間だった。暇な時間はないほうが都合がいい。尾形のことを考えると、苦しくて仕方のない時がある。
座卓にニシンの丸焼き、漬物、芋の煮つけ、味噌汁、白米を並べる。多い時には六人で囲む食卓も今晩は半分の三人だから少し寂しい気もした。

「そうだ、この前近くの漁場を手伝った時に酒を貰ったんだが…」
「お酒ですか?」

キラウシがごそごそと自分たちの使っている部屋の奥から瓶を持ってきた。そういえば数日前に情報収集がてら近くの漁場に行くと言っていた。ひょいっと門倉が背後から顔を出し「いいねぇ」と相槌を打つ。これは今晩飲むつもりだろう。

「おいカドクラ、誰もお前にやると言ってないぞ」
「いいじゃねえかよ貧乏人」
「うるさい、尻の穴覗きジジイ」

阿寒湖以降、留守番している間にも仲が良くなったのか二人の距離はずいぶんと縮まったように見える。ナマエはくすくすと笑いながら「お食事冷めちゃいますよ」と声をかけ、二人はようやく定位置についた。
手を合わせてニシン箸を沈め、身をほぐしていく。口に運べば甘さがほんのりと感じられ、小樽の戻ってきたのだと実感するもののひとつであった。

「はぁ、身が柔らかくって美味しいです。春が来るなぁって思いますね」
「確かになぁ。北海道の春と言やぁ、ニシンだよな」

門倉がナマエに相槌を打つ。端々の言い回しがまるでどこか別の土地から来た人間のもののように感じられた。

「門倉さん、北海道のご出身じゃないんですか?」
「ああ。陸奥国さ。ナマエちゃんは北海道かい?」
「はい。小さい頃は函館で、途中から引き取られて小樽に」

ニシンは北海道の各所で水揚げされる名物である。薬問屋の主人はニシンが好きで、春になると毎日のようにニシンを食べていた。ナマエも時おり夫婦の自宅に呼ばれ、ニシン料理をご馳走になった。二人は元気にしているだろうか。
すっかり夕飯を食べ終え、門倉とキラウシの晩酌が始まった。食器類の片付けを終え、間に合わせで作ったおつまみを持って居間に戻ると、すでに二人はそこそこ酔いが回っているようだった。

「ナマエちゃんも一緒にちょっと飲もうぜ」

門倉が戻ってきたナマエに声をかける。門倉の後ろではキラウシがお猪口を持ってじっと待っていた。せっかく誘ってもらっているのにひとくちもくちをつけないなんてあまり良くないのかもしれない。少しだけ迷った挙句、ナマエはそこへ合流することに決めた。

「じゃ、じゃあ…一杯だけ…」
「よしよし、じゃあこっちおいで」

ナマエの返答に門倉が満足そうに笑い、ナマエは手招かれるまま門倉の隣にちょこんと座った。空いているお猪口を持たされ、あっという間に透明な液体で満たされていく。ふんわりと酒の香りが鼻先まで届いた。

「いただきます」

ちょこんと口をつけると、口内に芳醇な米の味が広がった。酒の良し悪しがわかる方ではないが、これは飲みやすくて美味い。こくこくこく、思わずおちょこ傾け、中身を流し込んでいく。あっという間にお猪口は空になった。

「いい飲みっぷりだねぇ」
「美味しいです」

門倉は早速空いたナマエのお猪口にむかって徳利を傾けた。器か満たされてナマエはまたそれを勢いよく呷る。門倉が「ヨッ!」と囃し立て、キラウシがその隣で「大丈夫か?」と心配そうに声をかける。

「だいじょおぶ、です…」

三杯目を飲み干したあたりで途端に酒が頭に回ってきた。ふわっと視界が揺れた。手に持っているお猪口が大きくなったり小さくなったりして見えた。ナマエは「もう一杯ください」と言って門倉にお猪口を差し出し、キラウシがその上に手のひらを添えて酒を注がせないようにした。

「ナマエ、そんなに急に飲んだら悪酔いするぞ。もっとゆっくり飲め」
「だいじょおぶですよ、ほら、ぜんぜん酔ってませぇん」

へにゃりと笑う顔が普段と違うことは明白で、キラウシはナマエを止めた。ナマエはつんと唇を尖らせて不満げに口元を歪める。「だめですか?」と少女めいた顔で言われると、なんだか彼女を思って言っているはずのキラウシが悪いことをしているような構図になってきた。

「飲みてぇ日だってあるじゃねぇかよぉ、キラウシぃ」
「なんで門倉がそっちの味方をするんだ」
「なぁナマエちゃん。今日くらいいいじゃねぇかよなぁ?」

何を思ったか酔っぱらった門倉がナマエに加勢した。ナマエもこくこくと頷く。キラウシは押し黙って少し考えるようにして、それから大きくため息をついた。

「……あんまり飲みすぎるな。それからもっとゆっくり飲めよ」

普段こうして酒を飲むことも少ない彼女だ。今日くらい好きに飲ませてもいいのかもしれない。お猪口を遮っていた手をどけると、門倉とナマエが顔を見合わせてニシシと笑った。
それからはキラウシから飲み進める調子だけを指摘され、飲むことを止められることはなかった。一時間だか二時間だかが経過して、ついに瞼が重くなってきたナマエが船を漕ぐ。門倉はすでに潰れて酒瓶を抱えたまま畳に転がっていた。

「おいナマエ、寝るなら自分の部屋に行けよ」
「うぅん、へいきです…」
「平気じゃないだろ、ほら水のめ」

手渡された湯呑の水を飲む。冷たいそれが喉を通っていくと、ふっと気が抜けたのかナマエは空になった湯呑を握ったままうつむいてしまった。キラウシが心配そうにナマエの顔を覗き込む。唇が小さく震える。

「さみしい…」
「…ナマエ」
「おがたさん…かえってきて…」

きっと普段は口にすることの出来ない言葉だった。弱音を吐くことなんて出来ない。ただでさえなんの役にも立てないと自覚してここまでついてきている。けれどいつも怖かった。もしも尾形が帰ってこなかったらどうしよう。ひとりこのまま彼を待ち続けることになったらどうしよう。そう思うと、心臓を掻きむしりたい気持ちになった。
尾形と一緒に生きた先で何もないことは、それほど怖いことだとは思わなかった。ここで取り残される事のほうがよっぽど恐ろしい。

「……会いたい…」
「大丈夫だ。会えるさ」

キラウシは気休めと分かっていてそう口にする。ナマエいつの間にか眠ってしまって、キラウシは彼女を抱えると奥の部屋の布団に寝かせた。
いつになったら尾形は彼女の前に現れるのだろう。気丈に形作られるナマエの笑顔が早く本物になればいい。

「アプンノ シニ ヤン」

襖をそっと閉めながら、キラウシはそう声をかけた。雪解けの季節がもうすぐそこまで迫っている。



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