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ナマエは永倉と土方とともに、今日まで別行動をしている都丹と夏太郎のもとへ向かった。二人は今日まで按摩の仲間と共に登別へ潜伏している。今回牛山、門倉、キラウシは留守番である。
とくに都丹のほうは、按摩という立場を利用して刺青の囚人の情報を得ようと言う腹だ。登別を選んだのは、土方の采配だった。
登別は北海道最大といわれる温泉地である。ここの温泉は傷によく効いたため、第七師団傷病者による療養地に指定されていた。訪れる第七師団から情報を掠め取ることも可能かもしれないと考えてのことだ。

「土方さんッ!!」
「夏太郎、任せて済まなかったな」

ここでは山中にひっそりと建つ小屋を拠点としている。土方と永倉は早速都丹と夏太郎と向かい合って座り、今日までの報告をし合った。
釧路の土井新蔵、阿寒湖の関谷輪一郎の刺青を手に入れたことを伝えると、夏太郎は興奮した様子で「土方さんすげぇ!」と漏らしていた。

「こちらの状況はどうだ」
「第七師団の連中が旅館に数名いますよ。鶴見という名を聞いた。恐らくヤツの小隊の人間だ。そろそろ向こうが仕掛けてくるかもしれない」

都丹たちの計画も概ね上手くいっているようだ。誘い込むならもちろん新月の夜が好ましいが、仲間の二人は存在を気とっているかもしれない菊田と有古という兵士は早々に消すべきだと譲らなかった。

「明日の夜、その二人の兵士を森に誘い込んで始末します」
「菊田…有古…ナマエ、知っているか?」
「いえ…すみません。小樽では一度もお会いしたことがない方だと思います」

どちらも誰からも聞いたことのない名前だった。小樽に駐屯の経験がないとみえる。鶴見の部下はそれこそ北海道中に散らばっているようだし、そうした部下のひとりなのかもしれない。

「有古か……」

土方はじっと何かを考えている様子だった。そしてひとつ、とある作戦を思いつく。夕張からずっと気がかりだった「偽の刺青人皮」を手に入れる方法だ。
次の晩、都丹と按摩の仲間は菊田と有古を誘い出すべく山を下りた。土方も夏太郎を連れて出ていき、ナマエは永倉と二人で山小屋で留守番をする。

「大丈夫ですかね…みなさん…」
「心配いらん。夏太郎はともかく、あの二人はそう簡単にやられるタマじゃない」

永倉が冗談めかして言った。まぁ確かに、向こうには都丹の仲間だっている。その菊田と有古という兵士二人だけを誘い出すことが出来ればそこまで難しい話ではないのかも知れない。暗闇での戦いがいかに難しいかをナマエはよくわかっている。

「それに…土方さんは有古という兵士と交渉するつもりだろう」

交渉とはどういうことだろうか。永倉の言うことがよくわからず、ナマエは「え?どういうことです?」とそのまま聞き返す。しかも菊田と有古という二名の兵士がいるのにも関わらず、どうして有古を指名なのか。

「土方さんはのっぺらぼうから有古シロマクルという男の存在を聞いたことがあるそうだ。金塊を巡って命を落とした7人のアイヌのひとりで…息子はコタンを出て軍に入ったらしい」
「じゃあまさか有古さんっていうのが…」
「ああ。有古イポプテ……そのアイヌの息子の可能性が高い」

ただのアイヌであればいざ知らず、関係者となれば話が変わる。第七師団を裏切らせることがどこまで現実的かはナマエにはかれることではないが、交渉の余地は充分にあるだろう。


土方たちが戻ってきたのは翌日のことだった。とりあえず全員が無事であることにほっと胸を撫でおろしたが、都丹は昨晩雪崩の中に埋まりかけたらしい。少しも無事ではない。

「土方さん、例の作戦は…」
「ああ、問題ない。都丹の刺青と偽って関谷のものを持たせた。あとは鶴見中尉の出方次第だろう」
「えっ、本物の刺青人皮を持たせたってことですか?」

まさかと思いナマエがそう尋ねると、土方からは「ああ」といとも簡単に肯定の返事が返ってきた。そして彼は有古と打ち合わせた作戦をナマエに説明していく。

「都丹のことはもう電報が打たれているころだろう…有古には都丹を仕留めたことにさせ、鶴見中尉に手柄として報告する。その際に鶴見中尉の所持する刺青の暗号を確認、それを持って逃げさせる」
「そんなことしたら…」

土方はそれ以上の言及をしなかった。あの鶴見が刺青の暗号を持ち逃げされて易々と逃がすとは思えない。しかし土方がそんなことをわかっていないはずがない。それも含めて作戦ということだろうが、何か意図がなければわざわざ本物の刺青人皮を持たせるわけがない。

「我々は有古イポプテをここで待つ」

土方の言葉にその場の全員がこくりと頷く。電報を受けた鶴見が登別を訪れるまで数日。あの鶴見を簡単に出し抜けるはずはないだろうが、今は土方の策を信じるほかない。


次の新月の夜、作戦は決行された。都丹は按摩として彼らの宿の近くに潜伏し、道案内役となった。他の面々はこの山小屋で都丹と有古の到着をじっと待つ。

「都丹さん、大丈夫かなぁ」

ぽつんと夏太郎がこぼす。自分もつい先日同じようなことを言ったばかりだった、と思い、やはり待つ身の人間はこうして心配してしまうものだと改めて思い知る。冬の真っ只中の山は非常に寒さも厳しい。雪や風のよけられる山小屋でさえこんなにも寒いのだから、山の中なんて比でもないだろう。

「あったかいごはんを用意して待ってよう。きっと外は寒いから」
「……そうっすね!」

夏太郎をそう励まし、囲炉裏の火にじっとあたった。
がたがたと大きな物音がしたのは、作戦の翌日の夜のことだった。ナマエはハッとして夏太郎と目を合わせた。きっと都丹が戻ってきたのだ。
永倉が開けた戸の向こう側にいたのは、顔の腫れ上がった兵士とくたくたに疲れ果てた都丹だった。兵士はたしかにアイヌの特徴を有する男で、彼が有古イポプテなのだろうことは一目瞭然だ。永倉が一番初めに口を開く。

「ずいぶんやられたな」
「…刺青人皮を盗もうとして見つかった」

都丹はごろんと横になり「疲れたぁ」と疲弊した声をあげる。夏太郎が「収穫は?」と尋ねると、有古は六枚の刺青人皮を差し出した。鶴見が持っていたものの全てというわりには少なく思える。
土方はそれをどう思っているのか、刺青人皮をすべて畳の上に広げ、隅々まで検分した。写しは一枚もない。いずれも人間の皮で出来ているものばかりである。

「都丹庵士と称して有古が持って行った関谷の皮一枚と、鶴見中尉が持っていた五枚。合計六枚…これが全部か?」

じっと土方が有古を見下ろす。有古は殴られ腫れあがった顔で「鶴見中尉が俺に見せた全てだ…」と答えた。有古は酷い怪我のせいか、じわりと脂汗をかいていた。

「他に隠し持っていた可能性は?一枚は本人がいつも着ているそうだが…」
「風呂の時間を狙ったのでこの中に含まれているはずだ」

永倉の問いに有古はきっぱりと答える。しかし本人が着ていた、というなら、着られるように仕立てているものではないのか。これらはすべて一枚の皮の状態である。わざわざ有古が山中を逃走しながら仕立てられているそれを解くだろうか。
土方に「有古イポプテの手当をしてやれ」と言われ、ナマエは有古の傍によると膝をついて傷の様子を診た。酷い怪我ではあるが、いずれも武器でつけられた様子はない。単純に殴打されたものだろうと推測される。

「消毒しますね。少し沁みると思いますが、我慢してください」

鞄から脱脂綿と消毒液を取り出すと、ぽんぽんと傷口に当てていく。そのたびに有古はぐっと顔を歪めた。これだけ派手に血が出ているのだから沁みて当然だ。
左の瞼も右の頬もひどく腫れていた。しかもここまで都丹を背負うも同然の格好で連れてきていて、体力もずいぶんと消耗しているようである。

「必死にお逃げになったんですね…こんなにも腫れるほど殴られるなんて…ここまで逃げられて本当に良かったです」

鶴見中尉のもとから逃げてきた、となれば相手は彼の小隊の兵士に違いない。ナマエの知っている兵士であるかは定かではないが、いずれにしても第七師団の兵士はみな屈強な男たちである。その話は小樽にいる間いくらでも聞いたし、なによりここまでの旅で何度も思い知ったことだ。

「……ありがとう」
「いいえ。私にはこれくらいしか出来ませんので」

ナマエは消毒を済ませた傷口を包帯でくるくると覆っていった。手当が終わるころには包帯だらけでずいぶん痛々しい有り様になってしまったが、傷口から菌が入ればもっと大変なことになる。しばらくはこうしておくしかないだろう。有古がじっとナマエを見た。

「……あなたのような娘も…アイヌの金塊を探しているのか?」
「…金塊のことはよくわかりません」

もはや初対面の人間から恒例となった類の質問に、ナマエはひとつの答えを得ていた。道具をてきぱきと片付け、それからそっと笑ってみせる。

「私、あるひとを待っているんです」

アイヌの金塊のことはよくわからない。聞かされた土方の話も壮大で実感を得ることはナマエには難しい。
では何のためかと尋ねられると、これが一番正しいと思う。例えば金塊がどうなってしまっても、尾形が迎えに来てくれさえすれば、それだけで少しも不足はないと思える。

「有古さんは、どうしてこちら側にいらっしゃったんですか?」

有古が「俺は…」と言い淀む。陸軍を、しかもあの鶴見のもとを逃げ出すことは並大抵の覚悟ではなかっただろう。追跡者となった鶴見の恐ろしさは痛いほど知っていた。

「俺は、父の遺志を…継いだんだ」

何かどこか、言い聞かせるような口ぶりに見えた。ナマエは有古をじっと見つめる。嘘が上手いほうにはどう見ても見えない。嘘が下手に見える素振りさえ偽りだというなら大したものだけれど、それもなかなか考えづらいだろう。
だとしたら、きっと彼は何かを隠しているのではないかと思った。それが何かまでは、わからないけれど。


そのころ、ナマエたちを山小屋の中に残し、土方と永倉、夏太郎は一度外に出てひっそりと言葉を交わしていた。

「…どうなんすか?あのアイヌの男…」
「要注意だ。有古には悪いが、あの刺青人皮が都丹庵士のものではないとバレるのをわかったうえで鶴見中尉のところへ持って行かせた」

予想だにしていなかった土方の言葉に、夏太郎はごくりと息を飲む。一歩間違えれば刺青人皮を手に入れるどころか有古は殺されていただろう。さらに永倉が網走監獄で杉元佐一が鶴見中尉達に確保されているのを確認しており、その際に都丹庵士の写しも押収されているだろうことを続けて説明する。

「有古がこちらに逃げて来られたということは…我々のもとへ間者として送り込まれたか…鶴見中尉があえて刺青人皮を奪わせたか…いずれにせよこの五枚の刺青人皮は偽物の可能性が非常に高い。だがこれが欲しかったのだ」

夏太郎が確かに杉元を確保したならもっとたくさんの刺青人皮を回収していたはずだと指摘する。その通りだ。
製屋で猫が見つけた怪しい刺青人皮が一枚。この五枚と合わせれば製屋で作られた痕跡のあった人体剥製の数と一致する。

「刺青人皮が皮であることは信用たり得る条件ではあるが、本物の人間の皮で出来た偽物が混ざると非常に厄介だ。ばら撒かれる前にすべて確保できたのは大きい。手に入れた刺青人皮六枚は限りなく黒に近い灰色。有古を使った作戦は我々にいい結果をもたらしてくれた」

土方は満足げに笑う。これは非常に有利だ。恐らく鶴見は土方たちが「人間の皮を使った刺青人皮の偽物が存在すること」を知らないと思っているはずである。だが実際は、土方一行はすでに夕張でその情報を掴んでいた。これは大きな一歩である。

「引き続き情報を探りながら小樽へ行くぞ。待機させている門倉たちもそこで合流だ」

次なる目的地は小樽。牛山と門倉、キラウシの三人も含め、ここで一度合流することを選択した。ナマエにとっては実に10か月振りの小樽帰還となる。



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