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アシリパ一行は、流氷が間宮海峡を覆いつくすのを待ち、大陸に渡った。キロランケの昔の仲間、レジスタンスの女頭領ソフィア・ゴールデンハンドを収監されている亜港監獄から脱獄させるのが目的である。
監獄を取り囲む柵に複数個所爆薬を仕掛けて、一斉に囚人を脱獄させようというはずが、それが爆発しても人っ子一人出て来やしなかった。

「誰も出てこないぞ。なにか起きたか?」

尾形が煙の上がるそこを眺めながら言った。あらかじめソフィアには話がついているはずだ。どうして出てこないのか。何か不測の事態が起こったか。キロランケが「もう一度爆薬を仕掛けなおす!!」と声を上げる。
仕切り直して柵を爆破し、するとようやくそこから囚人があふれるように逃げ出した。その中のひとり、大柄な女囚人がアシリパに目を止める。

「ソノ服…樺太アイヌ」
「え?樺太アイヌ?違うぞ?」
「ウイルク見せてクレた…子供のトキ着た…テタラペ」

女囚人は片言の日本語を話した。そしてアシリパの目を見つめ「ソノ目…ウイルクの目…」と感嘆の声を上げた。

「ソフィアか?」
「アシリパ…」

白石が思わず動揺を滲ませて「なんか想像とちがうッ!」と声を荒げる。確かにキロランケから聞いていたより三倍…いや、五倍は筋骨隆々の女傑である。キロランケも「ソフィア…」とその名を呼んだ。流石に変わりように驚いたのか、と思っていると「めちゃくちゃいい女になったな」と斜め上の言葉が続いて思わず尾形と白石が揃ってキロランケを見た。

『ユルバルス…よくもウイルクを……』

ソフィアがキロランケの頬を打ち、ロシア語でそう返した。尾形はじっとアシリパに視線をくれた。もちろんロシア語のわからない白石とアシリパはソフィアがなんと言っているのかもわからず「どうして叩くんだ?」とまったく行動の意図が読めないようである。キロランケはソフィアに何も言わず、ソフィアもそれ以上は口をつぐんで踵を返した。
一行はこのあたりに住む少数民族、二ヴフに偽装して逃走を図った。一見すれば看守からは見つけられないし、大量の脱獄囚が出れば当然確保しやすい方から追うに決まっている。

「上手く行った!!誰も追ってこねぇ!!脱獄決行の時間を漁師の多い明け方にして正解だった!!」

あたりには複数の二ヴフの漁師たちがいる。もう少し歩いてしまえば看守たちもソフィアのことを捕まえることは不可能だろう。

「私の父のことを教えて欲しい。ソフィアしか知らないアチャのことを」

アシリパがそう言い、キロランケがそれを訳す。ソフィアはにっこりと笑ってみせた。

『彼は純粋で美しかった』

ソフィアは上流階級の生まれで都会のことしか知らないお嬢様だった。革命運動でキロランケとウイルクに出会い、ウイルクはソフィアに彼女の知らないことをたくさん教えた。
コケモモの塩漬け、樺太アイヌの犬ぞり、前髪に結んだホホチリ、ウイルタのトナカイの骨占い、二ヴフのアザラシや魚の皮で作った服、極東に住む少数民族たちの生活。
それらはすべてこの樺太での旅でキロランケがアシリパに見せてきたものでもあった。ウイルクがソフィアに教えたのと同じように、アシリパにもそのことを教えていたのではないかと考えたからだ。それをきっかけに、ウイルクの残した鍵を思い出させようとしていた。

「戦って守らないとすべて消えてしまう。生まれてくる子どもたちは言葉も神様も忘れてしまうだろう」

キロランケがロシア語で話されるそれを訳してアシリパに伝えていった。
ウイルクは樺太・北海道を含めた極東連邦国家を作ればいいと、その文化と信仰を守る方法を示していた。
話の途中、背後の監獄の方向からドォーンと、古い銃で使われるような黒色火薬の間延びした銃声が聞こえた気がした。そう、例えば村田銃のような。

「まさかな…」

脳裏に浮かんだひとつの可能性を尾形は口に出して否定した。
少し歩いたところでオオカミの群れが流氷の上を歩いているのを見つけた。キロランケに「こっちに来るか?」と意見を聞いてみたが、大丈夫だろうということだった。

『ウイルクは狼が好きだったわ。純粋で美しいと…』

彼らが秘密警察に追われたある夜、重傷になった仲間を抱えながら森の中を逃げた。もうその仲間は助からなかった。呻き声で秘密警察に居場所が見つかってしまいそうになった時、ウイルクは迷わず仲間の首を切り、その呻き声を止めた。それにより彼らはかろうじて秘密警察をやり過ごすことが出来た。
ウイルクという男は、誰しもが迷った末に辿り着く場所へ最短で辿り着けるような、そういう男だった。

「……俺もそんなウイルクを心から信頼して、愛していたよ」

キロランケの瞳に影が落ちる。
それからソフィアはキロランケにウイルクの名の由来を知っているかと尋ね、聞いたことがないとキロランケは続いてアシリパに尋ねた。アシリパは眉間にしわを寄せ、なんだっけ、とそれを思い出そうとした。
ソフィアはそのままウイルクの名付けの由来になったというオオカミにまつわる彼の幼少期の話をした。

「ウイルクはポーランド語でオオカミという意味だそうだ」

キロランケがソフィアの言葉を訳す。アシリパはそれを聞き、少し何か考えるような間のあと「……あッ!!」と短く声を上げた。ああこれは何か思い出したに違いないと、確信するには充分だった。アシリパがうつむき、じっと涙を流す。天候が崩れ、あたりが吹雪だした。

「どうかしたのか?尾形」
「いや…なんでもない。それより急がないと風も出てきたぞ」

アシリパが思い出したことをまだキロランケに悟られるわけにはいかない。どうせキロランケとこの先ずっと手を組もうなんて気はさらさらなかった。どうにか出し抜いてアシリパからひとりで鍵を聞き出さねばなるまい。

「シライシ行くぞッ!」
「先行ってて!オシッコしたくなっちゃった」

白石が用を足そうとした瞬間、足元が割れて彼一人が向こう側の流氷に取り残されてしまった。流氷は海流に流され、どんどんとその差を広げる。

「とにかく西に向かえ!先で合流できる!」
「いやこれ先は繋がって無さそうだぜ…戻ったほうがつながってそうだ!急いで追いつくから待っててくれ!!」

白石がもときた方向へ走っていく。好都合だ。アシリパにべったりの白石がいなくなった。これでキロランケから容易に引き離し、二人きりになることが出来る。
風と雪が強くなってきたことをうけて、一行はひとまず氷上でやり過ごすしかないという結論に至った。

「流木がある。燃やして温まろう」
「氷を積んで風除けにするぞ」

各々が避難のための準備にかかった。今しかない。

「アシリパ!もっと流木がないか探してこよう!」

尾形はそう声をかけ、アシリパを連れ出した。アシリパがきょろきょろとあたりを見まわし流木を探す。「尾形ッ!!こっちにあるぞ!」そう彼女が言ったとき、キロランケからは充分距離を取ったことを確認し、尾形はアシリパの背後に立った。

「アシリパおまえ…さっきなにか、とても重要なことを思い出したな?刺青の暗号を解く鍵が、わかったんじゃないか?」

アシリパとの関係は、概ね良好に築けたはずだと自負がある。杉元を失った少女の心の穴を彼女自身が望むかたちで埋めてやった。尾形は努めて優しい声を出し、かがんで視線を合わせる。

「アシリパ、俺に教えてくれないのか?」

ここからは言葉を間違えられない。アシリパを納得させるよう、彼女の求める言葉を選んでいかなければいけない。口を引き結ぶアシリパを見つめる。

「ここまで命をはって戦った分の報酬が欲しいだけだ。白石や…杉元と同じようにな」

尾形はあえて「杉元」という名前を出し、そこからまことしやかに国を作れるほどのカネなんていらない、ひとり占めしたところで今度は自分が争奪戦の中心になりかねないと続ける。

「暗号の解き方を教えてくれればアシリパもこの殺し合いから上がりだ。コタンに帰って婆ちゃんに元気な顔を見せてやれ。故郷の山で鹿を獲って自由に生きていけばいい。そうだろ、アシリパ…!!」

アシリパはまだ何も言わない。もう一押しか。しかしあまりにも長い間キロランケから引き離して後を追われたら危険だ。あまり時間はない。

「アイヌのことはキロランケやソフィアに任せたらいい。お前がそんな重荷を背負う必要はない。教えてくれアシリパ」
「じゃあどうしてキロランケニシパから離れたところで聞き出そうとするんだ?」

ああ、やはりこの娘は賢く聡明だ。賢く聡明で、非常に厄介だ。背後からキロランケの声がアシリパを呼び、続けてさきほど聞こえたのと同じような黒色火薬の間延びした銃声が響く。
尾形は立ち上がり、銃声の方角を確認した。吹雪で遮られてしまいそうな白い視界のなか、うっすらと人影が見える。雪の間から覗くその顔に、大きく特徴的な傷を確認した。不死身の杉元だ。やっぱり生きていた。尾形は小銃を構える。アシリパが「追っ手か?」と尋ねる。吹雪で何も見えない。この状態で杉元を撃つのは不可能だ。

「ソフィア達が心配している。戻らないと」
「……網走監獄で杉元とのっぺらぼうが撃たれたとき、キロランケがどこかに合図していた」

ここでアシリパを杉元に渡すわけにはいかない。尾形は咄嗟に次の筋書きを組み立てて口を開いた。嘘というものは事実を織り交ぜることでその信憑性を上げることが出来る。キロランケが合図をしていたのは事実だ。もっとも、その相手は自分であったけれども。
「来い、アシリパ」と彼女の腕をつかんで歩き出す。急がなければ杉元に追いつかれる。

「急げ」
「キロランケニシパが…合図?どうして?何のために?」
「アシリパがのっぺらぼうを自分の父親だと確認するのを待って誰かに狙撃させた。ウイルクとの間に何があったかは知らんが、おおかた金塊の用途で揉めていたんだろう」
「何でそれを…今まで私に黙っていた?」
「お前がさっき暗号を解く鍵を思い出したからだ。それにはキロランケの協力が必要だと考えたから俺は黙って様子を伺っていた」

ぐんぐんと流氷の上を進む。そして尾形は畳みかけるように自分は金塊が手に入ればいいが、キロランケとこれ以上手を組むのは危険だということ、さらにアシリパも白石も自分も、暗号を解く鍵がわかってしまえば消される可能性さえあるのだということを説明してみせる。

「何を思い出した?早く教えてくれアシリパ!!」

もういよいよ時間がない。狙撃が出来ない今、杉元佐一と白兵戦なんて悪夢だ。尾形は一度逡巡して、一か八かの賭けに出た。

「…俺は杉元に頼まれた」
「…!?杉元?」

杉元の名を出せばアシリパはすぐに表情を変えた。面白くないとも思うが、こうなれば使えるものをすべて使って逃げおおせるしかない。
尾形は網走監獄で杉元とのっぺらぼうが撃たれたとき、まだ杉元には意識があり、そして最後の言伝を受けたと話をつくってみせる。
そしてその話は、死んだ親友の嫁に目の手術を受けさせるため、金塊を少しでいいから分けてほしいということを頼まれたのだと嘯いた。

「そんなこと一度も話さなかったじゃないか!!見に行った時はすでに死んでたって…!」
「アイツが最後に話したのは故郷にいる未亡人の事だったからだ。こんな話…アシリパは聞きたかったか?」

釧路で鶴を食べたとき、惚れた女のためというのがその未亡人のことかと尾形が尋ねると、アシリパはあからさまにそれ以上の話を拒んでいた。二人の関係にも感情にも興味はないが、少なくともアシリパにとってその未亡人が気がかりであることは間違いない。

「アイツとは仲良くなれなかったが、道中助けられたこともあった。杉元の最後の頼みのためにも教えてく……」
「そのひとの名前は聞けたのか?」
「……ああたしか…トメだと。俺にはそう聞こえたが…軍に問い合わせれば杉元の育った地元はわかるからすぐ見つけ出せる」

咄嗟に出たのは母親の名前だった。アシリパはさらに苦しそうに顔を歪め「ほかには?何を言っていた?」と杉元の最後の言葉を求めた。そうだ、それでいい。このまま劇的に演出してやればこの娘は堕ちる。

「故郷へ帰りたいと…杉元はそう言っていた…!!だからアイツのためにも…」
「他には?全部教えてくれ…最後に何か食べたいとか言ってなかったか?」
「あ?ああ…言ってたぜ。アイツは…あんこう鍋が食べたいと…」

ぴたり。アシリパの足が止まる。ああ、これは間違えたな、と、尾形は寸分の狂いもなくそれを理解した。

「尾形お前…誰の話をしているんだ?私の知っている杉元なら、干し柿と答えたはずだッ」

アシリパは尾形の手を振り払い、その勢いで体勢を崩して矢筒の矢がばらばらと散らばる。落ち着けと声をかけてみたが、もはや手遅れだ。

「近づくな!お前はなにひとつ信用できない!!」

アシリパは尾形に弓を引いた。その手が震えている。鶴見が自分にしたように、また鶴見が数々の兵士にしたように、心の柔い部分に踏み込み、荒らし、それを癒す。そうしてみせたつもりだが、残念ながらすべて失敗だ。

「あーあ…時間切れかな。やっぱり俺では駄目か。うまくいかんもんだな」

残念、本当に残念だ。自分の手に入らないものはすべて価値のないガラクタだと証明してやろうと思っていたのに。

「ところでよぉ…前から気になってたことがひとつあるんだ」

初めて会ったとき、杉元が尾形を殺そうとしてそれをアシリパは止めた。この金塊争奪戦で不殺の誓いを立てて清いままでいようとしているアシリパにずっと違和感があった。腹が立つ。気に入らない。受け入れがたい。重なったのは、清いまま死んでいった弟のことだった。

「やれよ。俺を殺してみろ。清い人間なんてこの世にいるはずがない。自分の中に殺す道理さえあれば罪悪感なんぞに苦しまない」

もはや尾形の目の前にいるのはアシリパではなかった。その先にあの高潔な弟を見ていた。この娘に道理をやろう。
自分の計画が頓挫するのは遺憾ではあるが、この娘が、勇作が、清いまま死んでいくのは認めがたい。

「お前の父親を殺したのは俺だ」

風が吹き、二ヴフの帽子が飛んでいく。アシリパは引いた弓に力を込める。そうだ、矢を放て。自分の手を汚せ。憎いものを殺せばいい。

「やれよ…お前も出来る…お前だって俺と同じはずだ」

そうだ。自分に罪悪感がないのは祝福されていないからなどではない。この娘も、勇作も、道理があれば人を殺すことが出来る。決して自分だけが欠けた存在で、祝福された者だけが満ちているわけではないはずなのだ。

「私は殺さない…」
「…お前たちのような奴らがいて良いはずがないんだ」

一向に矢を放たないアシリパに尾形は小銃を向ける。もう金塊など知ったことではない。その時だった。背後からけたたましい音量で「尾形ぁ!!」と名が呼ばれる。杉元佐一が追いついてきた。その大きさに驚いたアシリパが思わず右手をはなし、毒の付いた矢じりが真っすぐに尾形の右目を射貫いた。
ああ、これでいい。この毒はヒグマさえ殺せる猛毒だ。この娘の手を汚してやった。お前も俺と同じ人間なんだ。左目で捉える視界の中でアシリパが目を見開いていた。
ナマエを迎えに行けないことだけが、尾形の唯一の心残りだった。



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