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尾形はじっと、森の中に潜んだ。狙撃に向いている人間というのは、臆病なまでに慎重なものだ。
あのロシア兵は腕がいい。尾形が釣りにそう易々と乗ることはないこともすぐに気が付くだろう。これは持久戦だ。一瞬、一発。確実に仕留めることのできるその瞬間を待ち、引き金を引く。
しばらくすると、少し離れたところからドンッと何かが爆発するような音が轟く。続いて聞こえてきたのはロシア語の雄たけびだ。キロランケが仕掛け爆弾でも工作したのか。
しかしどこからも狙撃手が姿を現わす様子はない。被弾したロシア兵はいまだ激しく叫び続けている。

「そう…助けに出てくるような奴ではないだろうな。このうめき声を一晩中聞いても平気な人間のはずだ」

いい狙撃手とは、冷酷でなければならない。あれほどの狙撃手が仲間のうめき声程度で好機を逃すわけがない。
尾形はウイルタの息子から借り受けたベルダンを木にかけ、あたかもそこに人が隠れているかのように偽装していた。そしてそこに続くよう棺から雪の上に足跡をつけ、さらにそれを消してうっすらと痕跡を残す。

「さて…上手く引っかかってくれよ…」

これはすべて罠だ。あのロシア兵は、ベルダンを使った人影を見つけ監視するだろう。そして朝になれば消された足跡の痕跡に気が付く。そうすれば、そこに続く棺を怪しんで引き金を引くに違いない。

「……夜通しは、さすがに堪えるか……」

日が落ちると、呼気を消すために雪を口にする必要はなくなった。その代わりこの寒さの中でも火を焚くことは出来ない。神経を研ぎ澄ませ、じっと身を潜めるしかない。
すべての音が雪に吸い込まれていくと錯覚しそうな中、思い出したのはナマエのことだった。あの娘は無事網走を脱出できたか。永倉についていかせたのだから、むざむざ殺されていることはないだろう。
アシリパに暗号を解く鍵を思い出させて聞き出したら、いずれ北海道に戻る。このままではアシリパを有する陣営が有利になりすぎてしまうので、土方陣営に情報を与えてもっと鶴見を追い詰めなければならない。
その際に土方陣営と行動をともにしているだろうナマエを迎えに行けるはずだ。

「チッ……余計な事ばかり考えちまうな……」

浮かぶのはナマエの笑った顔ばかりだった。自分の目的さえ打ち明けずに振り回しているというのに、随分身勝手なことだ。ゆっくりと瞬きをして周囲の様子に意識を割く。気が付くと、夜が明けようとしていた。もうそろそろあの狙撃手が雪を消した後に気が付く頃合いだろう。尾形は呼気を発見されないよう雪を口に含む。
その時だった。ウイルタの棺に向かい、三発の銃弾が撃ち込まれる。尾形は右斜め下から狙撃手の姿を視認すると、その顔に向かって引き金を引いた。弾丸は口元を通っていく。
カカシに使ったベルダンを回収せねばなるまい。狙撃手が倒れるのを確認してダダッとその場から走り出すと、数歩のところで体勢を崩した。体はひどい熱を放っていた。


どうにかウイルタたちが火を焚いているところまで戻ったが、熱で憔悴して体が上手く動かない。そのうちにアシリパと白石、キロランケが戻ってきたようだった。白石が尾形を覗き込み「随分と顔色悪いな、いつも悪いけど」と言って、アシリパが尾形の額に手を当てる。

「ひどい熱だぞ」
「少し雪をくちにし過ぎただけだ…こんな熱どうってことな…」

言葉は最後まで到達することはなく、目の前に殺したはずの弟、勇作の亡霊が躍り出た。その向こうで白石もキロランケも「白湯飲んだ?たくさん飲んだほうが良いよ」だとか「急いでここから移動するぞ」だとかと言っているけれど、少しも耳に入ってこない。

「寒くはありませんか、兄様」

対照的に勇作の声ははっきりと聞こえた。そりで移動をする間も、まるで尾形を庇い立つようにしてする。どうしてお前が。亡霊め。俺を恨んで出てきやがったのか。
いくつも頭の中を言葉が通り過ぎているけれど、結局どれも声には出来なかった。
あれはまだ、日露戦争に出征する前のことだ。


尾形は勇作を町へと連れ出し、一緒に酒を飲んだ。勇作は兵営で少しも話そうとしない尾形からの誘いに浮足立っているようだった。

「嬉しいです。兄様の方から誘ってくださるなんて。兵営では避けられているような気がしていましたので」

温厚で真面目、品行方正、己には厳しく、他には寛容。おまけに家柄や容姿の良さも手伝って、花沢勇作という男は男の欲しいものを大体持っているように思われた。両親に愛され、祝福され、なにひとつ不自由なく手に入れることができる。そんな勇作のことが尾形は疎ましかった。

「勇作殿…もう一軒付き合って頂けませんか」
「もちろんです、お供いたします!」

尾形が勇作を連れてきたのは、中島遊郭だった。未開の地を整然と碁盤の目のように整備された中、それがぐにゃりと乱されている場所がある。第七師団の兵営からは石狩川を隔てたそこに足を運び、尾形は女を呼んで酒を運ばせた。

「処女は弾に当たらない、とのゲン担ぎからその陰毛が御守りとされたのと同様に、童貞も同じ意味で扱われた」

尾形は注がれた酒を片手にそっと話を始めた。今日勇作を兵営から連れ出したのはすべてこのためだ。勇作をこちら側に引き込めば大いにことは好転するだろう。鶴見の提案であり、なによりも自分がやると申し出たのは尾形だった。

「眉目秀麗、成績優秀、品行方正…旗手はいわば連隊の顔だ。勇作殿が旗手に選ばれたのには、女を知らんというのもあると聞いています」

遊女がしなを作って尾形に酒を注ぐ。こういうところは好きじゃなかった。遊女だとか芸者だとか、そういう自分を商売にしている女を見るのが嫌いだ。自分が殺した母親のことを思い出す。

「旗手は真っ先に駆けて敵陣に突入するので最も死亡率が高い」

そういった背景もあって、普段遊郭に足を踏み入れることは殆どない。この料亭も手配した遊女もすべて鶴見によるものだ。尾形はお猪口をそっと膳に乗せる。勇作をたらしこんで見せる。高潔だろうがなんだろうが、男はどうせ男だ。ここで秘密を作らせてしまって、逃れられなくすればいい。

「ここの女たちは口が堅いそうですよ、勇作殿。ようはまわりが童貞と信じていれば良いのです」

そっと遊女の白い指先が尾形の寛げた軍衣の中へと伸びる。
来い、来い、こちら側に落ちてこい。そう念じながら、ゆっくりと妖艶に笑って見せた。

「男兄弟とは、一緒に悪さもするものなんでしょう?」

勇作が息をのむ。だらりと汗がこめかみから流れ落ちた。逡巡し、何度かはくはくと口を動かすと、勇作は「兄様、申し訳ございません」と、震える声で謝罪をした。面白くない。つまらない。どうして落ちてこないんだ。
尾形は遊女に「人目につかぬよう勇作殿を裏からお見送りしろ」と指示を出した。


ウイルタの親子の親戚の家に辿り着き、一行はここで尾形を休ませることにした。尾形は前後不覚の状態で足元をふらつかせ、だらだらと汗をかいている。体は熱いはずなのに、ずっと寒い。アシリパがアイヌの治療法をどうのこうのと説明しても、少しも頭に入ってこなかった。
任せているうちに外套を頭からかぶせられ、ぼたんをすべてとめてすっぽりと収まる形になる。その内側にふつふつと沸く鍋を用意されて、外套の中は蒸し風呂状態になった。こうして湯気に蒸されてたくさん汗をかけということのようだ。

「ヤイスマウカレという治療法だ」

そうして蒸されているうちに、ドンドンドンと太古の音が聞こえてきた。ウイルタの親子のいとこはサマと呼ばれる神と人間の間を取り次ぐもので、祈願によって病人を治すこともするらしい。

「病人にはアンバという悪い化け物が憑いていると彼らは考えていてな。太鼓や歌で神と対話をして取り去ってもらうのさ。賑やかにすれば神はより早く来てくれる」

そのキロランケの説明を聞き、アシリパと白石も振楽器を使ってシャカシャカと盛大に音を鳴らし始めた。ドンドンガチャガチャシャカシャカと絶え間なく音が鳴り響き、尾形は「うるせぇ…」としわがれた声で言ってみるも、騒音にかき消されて届くことはない。

「音楽は霊的なものであり、無意識に深く影響する。患者に取り憑いているなにかとの因果をあきらかにするんだ…」

湯気が凝縮した水だか尾形の汗だかわからないものがだらだらと流れ落ちる。外套の内側にひどく熱烈な視線を感じる。なんでお前が、とそう思っているうちに、まただんだんと気が遠くなってきた。


勇作を遊郭の裏口から帰らせてしばらくすると、作戦の様子を見に来た鶴見が座敷に顔を出した。尾形は寄り添っていた遊女に「もう結構です。中尉殿と大事な話がありますので」と腕を払いのけ、乱していた軍衣の胸元を正す。

「噂通りのお人柄だな、弟君は…」
「場の雰囲気に怖気づいただけかと…」
「だといいが…」
「たらしこんでみせましょう」

尾形はうっすらと笑う。それに対し、鶴見もゆっくり口角を上げた。美しいかんばせが尾形を見下ろす。

「正義感が強ければこちらに引き込んで操るのは難しいぞ。なにせ…高貴な血統のお生まれだからな」

言い方も言葉選びも、自分を煽るつもりがあるのだと感じるにあまりあった。何が高貴だ、何が血統だ。人間なんて皮を剥がせば同じ血と肉じゃないか。

「血に高貴もクソも、そんなもんありませんよ」

同じだ。同じに決まっている。生まれなど関係ない。祝福など、愛など、決して、決して。頭の中には不協和音のように不愉快な言葉が洪水になってあふれる。尾形の猫のような瞳には何も映っていなかった。


1904年2月の仁川沖海戦を皮切りに、日本はロシアとの戦争を始めた。開戦当時は北の守りを固めるために出陣命令の下らなかった第七師団にも、8月には旅順への動員がかかった。日清戦争の折にはわずが一日で陥落させることのできた旅順要塞は、10年の間にロシア軍によって大幅に改造されていた。
コンクリート製の半永久堡塁、日本軍を見下ろす立地。何より歩兵は見晴らしのよい急斜面にさらされながら突撃することを余儀なくされるため、人的被害は甚大だった。

「前進!!進めッ!走れッ!」

その中を、勇作は軍旗を手に突撃を繰り返した。挫けそうな兵士には「とどまる時ではないぞッ!」と鼓舞をして、戦場での勇作の評判はうなぎ上りだった。それを受け、鶴見から下った命令は「花沢勇作は殺すな」というものだった。あれはあのまま生きていても十分利用価値があると判断したということだろう。
尾形はそれに頷きながら、ある晩、勇作をロシア兵の死体の転がる戦地に呼び出した。

「兄様、大事な話とは何ですか?もうすぐ夜明けの時間に…小隊長殿に見つかったら大変ですよ」
「こちらです、勇作殿」

そんなことを言いながらも自分についてくる勇作がおかしかった。彼自身は尾形を兄様と慕っているが、その実自分は庶子で勇作は嫡子。おまけに彼は士官学校を卒業している少尉の身分で、上等兵の尾形についていく義理も道理もありはしないのに。

「ここです」

尾形はそこにとあるひとりのロシア兵の捕虜を連れ出していた。手足を縛り、布で厳重に口をふさぐ。これから叫び声をあげられて周囲にバレてしまってはあとが面倒だ。勇作はまったく意図が読めないといった風に「捕虜ですか?どうしてここに?」とうろたえた。

「勇作殿…旅順に来てから誰かひとりでもロシア兵を殺しましたか?」
「…え?」
「確かに旗手は小銃すら持たず前線に突撃して見方を鼓舞する役割です。ただ他の旗手は刀を抜いて戦っているのに勇作殿はなぜそうしないのか」

勇作は戦場で刀さえ抜かない。軍旗を片手に威風堂々と戦場を駆ける。その姿に味方が励まされ、兵たちは一心不乱に突撃をする。だがそれだけだ。勇作はロシア兵を殺してもいなければそもそも殺すつもりさえない。

「それは…天皇陛下より親授された軍旗の死守が第一と…」
「旗手であることを言い訳に手を汚したくないのですか?」

勇作の答えを一蹴するような尾形の問いに対し「そんな…違います!!」と必死に否定した。尾形は銃剣を抜くと、柄を向けて勇作に差し出す。

「ではこの男を殺してください」
「兄様…捕虜ですよ」
「自分は清いままこの戦争をやり過ごすおつもりか?」

じっと勇作を見つめ、銃剣を押し付けるようにして迫る。もう少し、もう少しだ。自分を兄と慕うなら、この兄の願いを聞いてくれ。自分たちは同じ人間でしかないと証明してくれ。

「勇作殿が殺すのを見てみたい」

銃剣を握らせるようにさらに迫る。そうだ、何も難しいことはない。この銃剣でロシア兵の心臓をひと突きすればいい。
勇作は何度も言葉を詰まらせ、それからついに「出来ません!」と尾形を拒絶した。言い訳はどれもつまらなかった。父親から敵を殺さないことで偶像になれと言いつけられていると、なぜなら誰もが人を殺すことに罪悪感を覚えるからだと。

「罪悪感?殺した相手に対する罪悪感ですか?そんなもの…みんなありませんよ」
「そう振舞っているだけでは?」
「みんな俺と同じはずだ」

尾形が勇作にそうして反論すると、勇作はたまらないとばかりに尾形を必死に抱きしめた。尾形の頭の中には「罪悪感」という言葉がぐるぐる渦巻いている。

「兄様はけしてそんな人じゃない。きっと分かる日が来ます。人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間が、この世にいて良いはずがないのです」

それなら自分は人ではないということか。随分なことを言ってくれる。この男と自分は一体何が違うのだろう。生まれ、母親、祝福、愛、愛。愛?
勇作越しに見る夜の空にはうっすらと細い線を描く月の光が少しだけ見えていた。あと三日もすれば新月になるだろう。
その次の総攻撃の日、尾形は勇作の頭を真っすぐに撃ちぬいた。



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