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ナマエが土方たちと行動をともにしていた頃、アシリパと白石、キロランケ、尾形の四人は樺太に渡り、国境近くの町、敷香にたどり着いていた。樺太アイヌの犬ぞりでの移動がかなり時間の短縮に役立った。
路銀は主に動物の皮を売って稼いだが、この前獲った黒貂はかなり高く売れた。もう一度獲って路銀を稼ぎたいところだが、黒貂を獲るにはもう時期が悪いらしい。
トドマツの間を縫って進んでいると、樹上に忽然と長方形の大きな木箱が点在していることに気が付いた。

「何だ、これ」
「それは棺だ。ウイルタ民族の天葬ってやつだな」

アシリパが尋ね、キロランケが答える。いわく、樺太には大きく分けてみっつの少数民族が暮らしている。樺太アイヌとウイルタ民族、二ヴフ民族である。樺太アイヌの生活圏の北限は敷香あたりで、ここから先にはウイルタ民族と二ヴフ民族が暮らしている。木の上に棺をおいて天葬をするのはウイルタ民族だけなのだという。
しかしその文化も絶えつつあった。多くのウイルタ民族はロシア正教に改宗させられ、天葬は土葬に変えられた。神が替われば生活も変わる。
そのときだった。尾形はすっと小銃を構え、一発の弾丸を放つ。それは目の前を歩く四つ足の獣へと真っすぐ伸びた。

「尾形、何を撃った?」
「エゾシカだ」
「樺太にエゾシカはいねぇよ」

確かにエゾシカに似ているが、違う。これは北極圏周辺に分布する偶蹄類、馴鹿である。
アシリパが横たわる馴鹿の傍に寄り「なんか首から下げてる」と気が付いたようだった。首から下がっているのは大きな二又の木の枝だった。

「これは馴鹿のスネに棒が当たって痛みで遠くへ逃げないようにするための首輪だ。ウラーチャーンガイニという」

キロランケが説明すると、アシリパがふざけて白石の首にそれをつける。キロランケも「勝手に遊郭に行けなくなるようチンポに当たる長さに調整しよう」と悪乗りをしていた。

「首輪してるってことは誰かが飼ってる馴鹿なのかな?」
「近くにウイルタ民族がいるはずだ。彼らは夜に放牧して日が昇ると飼馴鹿を集める……たぶんあれだ。馴鹿を呼んでる」

少し先で何人かの男がホーウホーウと声を上げて馴鹿を呼んでいるのが見えた。白石が「あーあ、知ーらないッ!尾形怒られるぅ!」と愉快そうにからかい、キロランケとアシリパが「謝ればいいさ、タバコあげたら喜ぶから」「尾形!一緒に謝ってやる、心配するな」と声をかける。アシリパはまだしも、キロランケはこれも計画のうちのくせに良く言うものだ。
尾形はこの樺太での旅で、キロランケと結託していた。


キロランケがウイルタ民族の男と交渉したところによると、馴鹿を殺したのなら馴鹿で返してくれとのことらしい。そして飼馴鹿で返せないのなら山馴鹿狩りを手伝って償えということだ。

「こんなに馴鹿がいるのにわざわざ馴鹿を狩りに行くの?」
「飼馴鹿は彼らにとって唯一の財産で決して食べることはしない。狩りで殺すのは野生の山馴鹿だ」

白石があからさまに面倒そうな顔をして、またもキロランケはそう説いた。それからすっとアシリパに視線を落とす。

「実は…アシリパの父親も若い頃、尾形と同じように飼馴鹿を撃っちまってな」
「アチャが?」
「あいつが住んでいた樺太の南の地方は気温が高くて馴鹿が生息していないから、ウイルタの放牧を知らなかったんだ。謝罪して彼らの山馴鹿狩りに参加したそうだ」
「その話、初めて聞いたかも…」

自分の知らなかった父親の話を聞かされ、アシリパの表情が穏やかに緩む。順調だ。記憶の奥底を揺り起こし、本人さえも忘れている鍵を思い出させる。そして同時にアシリパにつけ入り、その鍵を聞き出す。
尾形はつとめて、かつて鶴見が自分にした表情を再現しようと試みた。

「一緒に行くか?アシリパ…」
「……そうだな…何かアチャのことを思い出せるかも」

ウイルタたちは飼馴鹿をウラー、山馴鹿をシロと呼んで区別している。目の前に山馴鹿、シロの群れを見つけた。山馴鹿は夢中で雪を掘っていて、あれは雪の下にあるトナカイゴケを探しているらしい。冬の時期は栄養のあるそれを求めて移動しているのだそうだ。
夢中で食べてはいるが、群れの中にはヌガと呼んでいる見張り役の番兵が必ずいる。まずはそれを撃てばシロは混乱し、その場から逃げることができなくなる。

「そこは人間と同じか」

尾形がじっとシロの群れを双眼鏡で観察した。果たしてどれがヌガなのか。
山馴鹿の番兵に見つかってしまわないよう飼馴鹿の首に長い紐をつけて先へ走らせる。その後ろに隠れて山馴鹿に接近する。アシリパがふとくちを開いた。

「オロチックウラー」
「どうしてそれを?」
「オロチックウラー。山馴鹿狩りの囮に使う化け馴鹿。アチャが話してくれたのをいま思い出した」

キロランケがそっと笑った。アシリパが思い出したのはこれだけではない。樺太の旅の中で彼女の奥底に眠る記憶は徐々に呼び戻されつつある。キロランケが「よし!化け馴鹿作戦行くぞ!」と音頭をとった。
出鼻を挫くように白石が馴鹿に頭をかまれ「いでででッ」と声を上げた。

「大丈夫がシライシ!」
「いったぁ…尾形ちゃんが飼馴鹿を撃たなきゃこんな面倒なことしなくてすんだのに。バカ正直にあやまんないでさっさと逃げりゃよかったんだよ」
「やっぱり最低だな、シライシ」

アシリパと白石がそうやり取りをした。じろりと白石を見れば、キロランケが口を開く。

「いいや…これは予定通りなんだ。俺たちが敷香から先に進むにはウイルタとの接触がどうしても必要だった」

どうしてそれを正直に打ち明けるのか。黙っていればいいものを、と思いながら、尾形は投げた視線を元に戻した。
化け馴鹿の後ろに隠れながら進む。途中でウイルタの男がなにやらキロランケに言い、それをキロランケが通訳する。

「右端が見張り役のヌガだと言っている。山馴鹿は警戒心が強くて銃でも獲るのが難しい」

そう解説されながら小銃を構えると、ウイルタの男もそこで銃を撃つべく準備を始めたので、尾形は「おい待て、俺が撃つから邪魔すんなと伝えろ」と言い放った。
そこからの手際は鮮やかだった。まず番兵のヌガを一発で仕留め、混乱する群れを次々と撃ちぬいていく。
五発打ち切ったところで背後に小銃を渡し「弾を込めろ」とキロランケに指示すると、ウイルタの男の持っていた銃を取り上げる。
ドドドドと向かってくる山馴鹿にすうっと銃口を向け、狙いすまして頭を一発で撃ちぬいた。

「ベルダンM1870か…単発の古い銃だが悪くない」

借り受けた銃でまでもあっさりと馴鹿を仕留めてしまった。それからも少しの狂いもなく馴鹿を狩り続け、気が付くと群れを全部倒してしまうような有様だった。
アシリパが「皮をがすのが大変だ!」と嬉々としている。これほどの大量はそうそうお目にかかれることではないだろう。


一行はウイルタの家に招かれると、仕留めた山馴鹿で豪勢な食事を振舞われた。キロランケいわく、山馴鹿は飼馴鹿より肉が美味いそうだ。
アシリパは嬉々として脳みそがシカと同じだと言い、例のごとく匙に山盛りにした脳みそを尾形に差し出す。

「な?」

その他にもアリという飼馴鹿の乳をかき混ぜて作った牛酪のようなもの、麦粉を焼いたパン、リペースカなど、内容はとても充実していた。アシリパがいつものごとく「ヒンナヒンナ!!」と唱える。

「贈り物がある。チシポ…アイヌの針入れだ」

キロランケがそう切り出し、ウイルタの女にそれを手渡す。細工の施された細長い木の中には縫い針が入っている。ウイルタの女性にとっては針は非常に貴重なもので、赤ん坊が死んでも泣かなかった女性が針をなくして泣いたという話があるほどなのだそうだ。

「今日のことは全部予定していたことなんだ?ウイルタと接触した目的はなに?」

白石が訝しげな表情で尋ねる。尾形は黙した。自分まで全容を知っているとなればアシリパに警戒されてしまう。
キロランケも白石に答えることはなく、ウイルタの男に「ビー シッタイ ハイワッダー シッタム」と切り出した。それからいくつかウイルタの男と交渉するが、言葉のわからない自分たちには何をどう交渉しているのかはまったく見えてこない。もっとも、事前に聞かされている尾形にはその内容など検討はついたけれど。
ウイルタの男はいくつか迷った様子ではあったが、やがてキロランケの説得に首を縦に振った。それを確認したあと、キロランケは尾形とアシリパ、白石に向き直る。

「俺たちはみんなスネに傷のある人間だ。ロシアに入国するため旅券の申請なんてできるはずもない。だから密入国する」

北緯50度の国境周辺はほとんど無人地帯ではあるが、ロシア側や日本側の国境守備隊に見つかれば面倒なことになる。その場で上手くかわせればいいが、身元の照会を行われたり鶴見の根回しが届いていれば間違いなくそこで捕まってしまうだろう。
しかし樺太の遊牧民族は国境を自由に行き来することが黙認されている。そこでキロランケが打ち立てた案は「ウイルタ民族に変装して国境を越える」というものだった。


翌朝、ウイルタの親子、キロランケと白石、アシリパと尾形がそれぞれ組になり、そりに乗って国境を目指した。そりが走りやすいように、選ぶ道は幌内川の開けた湿地帯である。
しばらく走らせていると、前方に国境を示す国境標石が見えてきた。これを越えればその先はロシアだ。
一同は緊張の面持ちで、明治三十九年と刻まれた標石のすぐ隣を通過する。

「国境を越えた!」
「ロシア領に入ったぞ」

白石が声を上げ、キロランケが冷静に返す。まだ油断はできない。国境を越えてしばらく走り、別のウイルタの家に身を隠す必要がある。
そのとき。一発の弾丸がウイルタの男の頭を撃ちぬいた。男はぐらりと体勢を崩し、そりから落ちて置き去りにされる。息子が「アンマー!」と叫んだ。

「撃たれたのか?」
「トナカイを止めるなッ!このまま行け!」

アシリパが気づかわしげに振り返り、尾形はここで止めるわけには行かないとそう指示を飛ばす。息子はいまだ「アンマー!」と父を呼んでいた。どこだ、いったいどこから撃ってきた。ここは随分と開けた湿地帯である。確かに射線を遮るものはないが、逆に狙撃手が潜めるようなところもない。

「チッ…伏せろアシリパ、そりの陰に!」

息子がそりを止めてしまい、尾形とアシリパは荷を盾にして身を隠した。先頭に座っていたのは息子だ。どうしてその後ろの親の方を狙ったのか。答えは簡単だ。

「三八式を装備してる奴をまず狙ったか?期間限定でベルダンと交換してて命拾いしたぜ」

尾形の手にはウイルタの男と交換していたベルダンが握られている。尾形の視線の先には雪の積もる湿原、凍った小川。その向こうにやっと木々が姿を現す。

「かなりの距離から撃ってきやがった。手練れの狙撃手だ」

息子が倒れた親の元へ駆け寄ろうとする。キロランケがそれに覆いかぶさって、間一髪のところで弾丸の命中は免れた。その銃弾の発射地点を見極め、尾形が「いたぞ、あの森の中だ」と言った。白石が馴鹿に隠れながら「何者だ?追いはぎか?」と怯えている。

「木の陰からモシン・ナガンの銃身が少し見えた。ロシアの国境守備隊だろう」
「ウイルタになりすまして密入国したのがばれたのかよ!?いきなり撃つなんて…」
「日本軍の三八式を見て怪しんで優先的にこちらの武力を封じようとしているのか。それにしても乱暴だな」

双眼鏡でさらに観察する。状況からみて国境守備隊であることは間違いない。それにしても、そうだとしていきなり撃ってくるなんて聞いたことがない。尾形が白石に「走って三八式を拾ってこい」と言ったが、もちろん「出来るかッ!」と断られた。

「シライシッ!そりを進ませろッ!あっちの森に身を隠すんだ!!」

キロランケが息子を必死で取り押さえながら指示する。それを受けて白石は馴鹿を進ませようとするが、二歩も動かないうちに首を撃ちぬかれ、先頭を走る二頭のうちの一頭が倒れた。

「森に逃げるの読まれてるぞッ!」
「進むしかねぇ!その馴鹿をどかせッ!!」

指示通りに撃たれた一頭をどかして進もうとしても、残りの一頭を今度は撃たれてしまう。

「そもそも国境侵犯だとして、いきなり樺太の国境守備隊に襲われたなんて聞いたこともない」
「私たちを待ち伏せていたと言いたいのか?」

暗雲が立ち込める。どうしてここから密入国をするとわかっていた。わかっていたとして尋問もなにもなく殺す気で来ているのはなぜだ。どこから情報が漏れていた。
息子が「アンマー!」と父を呼び続け、キロランケが立ち上がる。まさか回収しに行く気か。無謀すぎる。アシリパが「キロランケニシパ!」とその名を呼ぶ。
キロランケは毅然とした足取りで倒れた父のもとへ歩いた。森から銃弾が飛んでくるに違いないと尾形は銃を構えるが、一向に銃弾は飛んでくることはない。
キロランケはそのままアシリパたちのほうへと踵を返し、その瞬間、木の陰から人影がゆらりと揺れる。尾形は好機を逃すことなく人影、国境守備隊の男の腹を撃ちぬいた。

「いまだッ!行け!!」

その合図で残った馴鹿を使って走り出す。これで少なくとも森までは逃げおおせることができるだろう。尾形が「ははッ」と笑った。
射線を切ることのできる森の中まで辿り着き、撃たれた父親の容体を確認する。幸い頭を打たれながらも生きているようだった。

「骨まで見えてるけど、頭は貫通してない。大きな帽子のおかげで狙いがそれた」
「親父さんが死んでなくて良かったけどよぉ、それにしたってさっきのは無茶だぜキロちゃん!どうしちゃったの?」

患部を見て言ったアシリパに続き、白石がキロランケに視線を向ける。確かに先ほどのは無謀にもほどがあった。しかも相手は先日知り合ったばかりのウイルタの男である。そこまでして助けなければならない義理はないだろう。

「カムイレンカイネ。カムイのおかげだ」

キロランケが自分が撃たれなかったことをカムイのおかげだと言って見せた。そんなことがあるもんか。神なんてそんな存在の曖昧なものに救われるはずがない。

「違うな…俺のおかげだ。親父さんが助かったのも帽子のおかげ。すべての出来事には理由がある。俺たちが追われてるのにも理由があるはずだ」

尾形はそう言い放ち、外套の頭巾をかぶった。アシリパも助けたことは絶対に間違っていないとしながらも、あれほどまでに命を張った理由を尋ねる。キロランケは黙した。

「やつらから直接聞き出すさ」

尾形は小銃を手に森へと繰り出す。日露戦争延長戦だ。



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