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夜が明けても、尾形は帰っては来なかった。覚悟していたこととはいえ、この先どうなってしまうのだろうかと不安は過ぎる。
ナマエは永倉と二人、高台から網走監獄を見下ろした。五舎が放射状にのびる舎房は完全に焼け落ち、そばにある建物も大きく損害を受けていた。第七師団の兵たちが担架に乗せた丸焦げの遺体を運び出している。ナマエは思わずぎゅっと眉をひそめた。

「…皆さん…ご無事でしょうか…」
「土方さんなら生きている」

永倉はなにか確信めいた様子だった。これこそ長年の戦友だからこそ湧き出でる信頼なのかもしれない。
見渡す限りでは仲間の姿は生存者としても死者としても確認することが出来なかった。

「まだ数日は撤収に時間がかかるだろうが、土方さんたちなら恐らく教誨堂の近くに潜んでいるはずだ。教誨堂が見える方向に行こう」
「はい。わかりました」

永倉と二人、山に潜伏して三日ほどが経過した。狩りをしようにも派手に動くことも出来ず、何とか木の実を食べて食いつなぐ。第七師団の連中がざっと監獄での処理を終えたのか、その日は夕方になるとほとんどの兵が撤収していく。
夕陽が山の中に隠れて行きそうな時間になると、教誨堂から数人の人影が出てくるのが見えた。先頭にいるのは土方だ。ナマエは永倉と顔を見合わせ、教誨堂のそばまで移動した。

「永倉か」
「ご無事で。もし生きているのなら、のっぺらぼうが隠されている場所ではないかと毎日ここから教誨堂を見張っておりました」
「囚人の情報を掴んだ。釧路へ向かう。行くぞ、永倉。ナマエ、お前も町までついてくると良い」

ナマエは頷いた。土方と牛山、都丹は牛山に背負われ、あとは門倉と夏太郎がいる。尾形の姿がそこにあるかもしれないと期待していなかったわけではなかったから、少しだけ落胆した。

「はぁ…看守も囚人もみんな殺された。金塊欲しさにここまでしなきゃいけなかったんですかねぇ」

門倉がこぼした。彼も腕を吊っていて、戦闘で負傷したようだった。こうなってしまっては彼も看守としての仕事を失ったも同然だろう。土方の古い付き合いだと聞いたし、彼もここから同行するのかもしれない。

「欲しいのは金塊ではない。その向こうにあるものだ」

土方が口を開く。その向こう。金塊を見つける目的や使い道。結局半年以上も一緒に旅をしてきたが、ナマエは尾形の「向こう」を何も知らないままだった。

「それはやつらも同じだろう。みな、正しいことだと信じている」

正しいこと、という言葉にぎゅっと眉を顰める。たくさんの人間が死んだ。敵も味方も、たくさん。
そうまでして犠牲を払った正しいことというのは一体どんなことなのだろうか。正しいことというのは正しくあるがため、その存在の裏に深い影を落としているものである。

「ナマエ、尾形は戻らなかったんだな」
「…はい。その、永倉さんにと一緒にいるように言われて…」
「そうか。確かに永倉であれば、万が一のことがあってもお前を死なすことはないだろう」

土方の言葉に、やはり彼らも尾形の行方は知らないのだと思い知らされた。兵が撤収しているとはいえ、あまり長時間近くに身を隠しているのは危険だ。一行は可能な限り網走を離れようと、一旦美幌の町を目指すことにしたのだった。

「尾形はもう戻ってくるかはわからん。お前さん尾形に連れてこられたクチだろう。これ以上俺たちについてくることはないんじゃないか」

道中、永倉がナマエにそう言った。金塊争奪戦は苛烈さを増していく。もとより危険な旅であったが、本当にこれからは命の危険に晒されることも必至だろう。
ここで離脱すれば、少なくともそんな危険からは解放される。けれどそうすればきっと、尾形には二度と会えないこともわかっている。

「いえ…尾形さんが必ず迎えに行くって言って下さったから…」

尾形は迎えに行くといった。その約束を破られたことは一度もない。永倉がぐっと眉を寄せる。無謀な小娘だと思われただろうか。

「何も、残らんかもしれんぞ、お前さんには」
「いいんです。もしも何もなくても…」

彼についていくと決めた。最後まで、ずっと。


釧路の町に到着したのは、網走を出て五日程度あとの事だった。途中の硫黄山で残っていた都丹の仲間と合流し、夏太郎を加えて登別方面へと別行動になった。釧路の町で行動を共にするのは土方、永倉、牛山、門倉、そしてナマエの五人だ。
探している囚人は土井新蔵。手掛かりは土井が持っていたという黄褐色の欠片だった。

「ちょっくらそこの漁場で聞き込みでもするか」

肩を負傷したままの門倉を町で留守番させ、ニシン漁場まで出て聞き込みをする。牛山は早速もっこを背負った女たちのもとに向かい、代わりに持ってやってきゃあきゃあと賑やかな声に囲まれている。

「お嬢さん方…ちょっとこれを見てくれないか?これが何なのか教えてほしい」

土方は近くの女に声をかけ、てのひらに乗せた黄褐色の欠片を見せる。女たちはそれを覗き込み「え?何かしらこれ…」「アンタ分かる?」と一様に疑問符を浮かべるばかりだ。何か動物の爪のようにも植物の一部のようにも見える。そこでは結局なにかわからないままだった。どうしたものか、とナマエも首をひねる。

「それが手掛かりなんですもんね」
「ああ。これは網走監獄の隠し部屋にあった…犬童四郎助の情報によれば…刺青持ちの囚人、土井新蔵が隠し持っていたらしい。土井新蔵は八年前に釧路の海岸で収監された。これが奴を見つける手がかりになると思ったのだが」

さてここからどうやって調べるか。それに町に戻るにしても少し遅くなってしまった。今日はこのままこの近くで寝床を探したほうが賢明かもしれない。
牛山がふっと顔を上げ、近くをあるくアイヌの男に声をかけた。

「そこのアイヌのヤン衆さん。俺たち今日の寝床を探しているんだが、どこか知らんかね」

ナマエも声をかけたほうに顔を向ける。そこで「あっ!」と声を上げた。もっこを背負っていたアイヌの男は釧路の村で世話になったキラウシだった。彼もここで出稼ぎをしているのか。

「キラウシさん」
「兵隊さんと一緒にいたお嬢ちゃんじゃないか」

キラウシもナマエのことを覚えていたらしい。あの時の面々が他に誰もいないことを不思議に思ったのか、キョロキョロと周りを見渡す。それから「ついてこい」と言って土方たちを番屋に招き入れた。

「あんたらシシャモ食べるかい?」
「わ、ししゃもだ。私手伝います」

ナマエはそう申し出て、キラウシの隣でししゃもを串に刺す作業を手伝った。囲炉裏の火に当て、パチパチとそれを焼いていく。皮の焦げる香ばしいにおいが漂った。

「今の時期の一週間ほどの短い期間シシャモが釧路川に押し寄せるんだ。シャケの漁期のあとに来るから俺たち釧路のアイヌはシシャモを獲る習慣がないんだがね」

キラウシによると、アイヌの昔話には飢饉で苦しんでいるときにカムイが柳の葉をシシャモに変えてくれたというのがあるのだそうだ。キラウシのコタンは例の蝗害により作物も甚大な被害が出たらしく、昔話の通りにシシャモに助けられているらしい。

「うまい!!獲って食って感謝しなきゃバチが当たるぜ」

牛山がはふはふと焼きあがったシシャモにかぶりつく。ナマエもそれを見ながらぱくりと頬張った。素朴な魚の味が口いっぱいに広がる。

「そうそう…ところであんたこれがなんだか知らんか?」

土方が黄褐色の欠片をキラウシに差し出した。それを受け取ると、キラウシはすぐにそれがなにか分かったらしい。

「エトゥピリカだ」
「なんだって?」
「アイヌ語でくちばしが美しいという意味の海鳥だ。これはくちばしの部分だよ」

爪は想像していたが、まさかくちばしだとは想像もしていなかった。くちばしだけこんなにも綺麗に保管されるものなのだろうか。キラウシが続ける。

「異性を惹き付ける飾りみたいなもんで、繁殖期が終わると剥がれ落ちるんだ」
「よく知ってるな」
「和人はエトゥピリカなんて獲らないからな。俺たちは毛皮を使って服を作ったりする」

なるほど、これはアイヌでなければ黄褐色の欠片の真相に辿り着くことは出来なかったかもしれない。ここでキラウシに会えたのは幸運だった。

「シシャモは北海道の太平洋側でしか獲れない魚だけど、同じようにエトゥピリカは釧路より東…根室の方にしかいない鳥だ」
「根室か…奴に近づいているかもしれんな」

行き先は決まった。今度はこの情報を元に根室に向かう。エトゥピリカのくちばしを持っていたということは、恐らく土井は根室のアイヌと何らかの関りがあったに違いない。問題はアイヌの村に行ったところでアイヌから情報を得ることが出来るかどうかだ。永倉がキラウシに向き直って口を開いた。

「キラウシといったな根室のアイヌへ我々を案内してくれんか。礼は弾む」
「構わねぇよ。ここの稼ぎはどうも割に合わなくてね」

キラウシがちらちとナマエを見て、それから快諾した。アイヌの協力は得難い。これでコタンへの道案内と通訳の問題は解決だ。次に永倉は牛山に向かい「気を引き締めておけよ、牛山」と釘を刺した。牛山はわざわざどうしてそんなことを言うんだと首をかしげる。

「あのジイさん、あんたらよりもさらにいくつか上だろう?あんなヨボヨボでも用心しないといけないのか?」
「土井新蔵は偽名だ。私は大昔に京都であの男にあったことがある。人斬り用一郎。幕末に要人など何人もの暗殺を行った殺し屋だ」

ぞっとその場の空気の温度が下がる。いくら老いているといってもその身に染みついた剣の腕はそう簡単に落ちるものではない。


根室に出発する準備を整える。永倉が必要な物を調達し、牛山は女のもっこを運ぶ手伝いをする。ナマエは全員分の洗濯に励む。こうしてしっかり洗濯をしてやれる場所があるかはまったくわからないし、出来るときにしておくのが吉だ。

「あのニシパはいないのか」
「あのニシパ?」

網元に話をつけてきたというキラウシが番屋に戻ってきて、藪から棒にそう尋ねる。キラウシは「銃の巧い、兵隊の」と補足した。尾形のことだとすぐに分かった。

「えっと、少し前にはぐれちゃって。今は別行動というか…永倉さんたちとご一緒して迎えに来てくれるのを待ってるんです」
「そうか」

あの時いた面々がひとりもいないことを不思議に思っているのだろうが、全員の行方をナマエは知らない。聞かれたところで答えてやることも出来なかっただろう。

「手伝おう」
「えっ、いいですよ。私これくらいしか出来ませんし…」
「いい。手が空いた」

キラウシは横から手を伸ばし、ざぶざぶと布をこすり合わせる。ナマエも作業に戻り、集中していると隣から視線を感じる。キラウシがナマエをじっと見ていた。
ナマエが「あの…」と何か言いたいことでもあるのかを遠回しに尋ねると、キラウシが「あの時と雰囲気が違うと思ってな」と答えた。

「あの兵隊さんがいないからか?」
「そんなことは……えっと、そう…ですね」

否定しようとしたが、それでは嘘になる。ナマエは頭のどこかでいつも尾形のことを考えていた。無事逃げることは出来たのか。そして今どこにいるんだろうか。怪我はしていないだろうか。病気にはなっていないだろうか。考えたって仕方ないと思ってはいても、どうしても頭の中から離れてはくれない。

「早く迎えに来てくれるといいな」
「…はい」

洗濯ものを擦り合わせる。それから水洗いしたそれらをぎゅっと絞って物干し竿に吊った。冷たい風がひらひらと洗濯ものを揺らしていった。


明日にはここを発つという夜、土方と永倉に呼び出され、ナマエは囲炉裏を挟んで向かい合っていた。一体ここまで来て何の話だろう。

「ナマエ、お前を連れていく以上、聞いておきたいことがある」
「は、はい…何でしょうか…」

土方が尋ねた。わざわざ呼び出してまでなんて物々しい。恐る恐る二人の顔を見る。ナマエが緊張していることに気が付いた永倉が「そう怯えるな」と言った。

「お前は尾形の目的を聞いているか?」
「尾形さんの目的、ですか?」
「あやつは元第七師団長、花沢中将の妾の子だ。ただ金塊欲しさに軍を抜けたというには出自が厄介でな」

土方の言葉を聞き、ナマエは唖然とした。彼はそんな身の上だったのか。まったく知らなかった。一度もそんな話は聞かされたことがなかった。ただの一度もだ。

「…すみません。私なにも知りません…お妾さんの子だって話も今初めて知りました」

自分は尾形のことを何にも知らないんだと打ちひしがれる。
もう郷里には母親も祖父母もいないこと、おふくろの味があんこう鍋であること、銃の扱いは祖父に教わったこと。たくさん知ったつもりだった。けれどその根幹になるような部分を土方や永倉は知っていて、ナマエは知らなかった。

「小樽から連れ出されたのだろう。その時はなんと言っていた?」
「ついてこいとしか言われませんでした。小樽を出てから金塊の話は聞きましたけど、それ以上はなにも」

尾形の逃亡の理由は、ほんとうのところあの時ナマエにはどうでもいいことだったのだ。ただ尾形に会えなくなってしまうのが恐ろしくて、後先考えずに飛び出してきてしまった。それからも金塊を追う理由なんて聞かなかった。

「…土方さん、やはりナマエは何も知りませんよ」
「そのようだな」
「お力になれず、申し訳ありません」

永倉と土方の言葉にナマエが頭を垂れる。彼らの欲する情報を提供できなかったということよりも、正直自分が彼らよりよっぽど尾形のことを知らないのかもしれないと、そう突き付けられたことのほうが堪えた。
どうして教えてくれなかったんだろうか。機会がなかったからなのか、言いたくなかったからなのか。いやそれよりも、ナマエと尾形はそんなことまで打ち明けあう関係でなかったと言われたほうが正しいような気がして怖かった。パチパチと囲炉裏の中で火花が弾けていく。



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