29



網走監獄のほど近いアイヌの村に一行は潜伏した。入手した網走監獄の見取り図を囲み、一同で顔を突き合わせる。

「敷地内には監視のやぐらが5箇所。巡回する看守もウヨウヨいた」

杉元が偵察の結果を報告する。昼間にアシリパとふたり、こっそりと監獄のそばまで様子を見に行ったのだ。

「網走監獄は周囲三方が山に囲まれている。山にも20箇所…見張り小屋があって、看守は全員ロシア製のモシン・ナガンで武装していた。小屋の中にはマキシム機関銃まであったぜ。戦争にでも備えてんのか?あいつら」
「私達が脱獄する前よりさらに厳重になっている」

杉元の話を聞き、土方が言った。おそらく四年前の囚人の脱獄事件を受け、犬童典獄が強化した物と思われる。のっぺらぼうを収監している以上、金塊を狙う輩がいつ忍び込んでくるかも分らないからだ。
今度は白石が見取り図を指さし口を開いた。

「山側は囚人の舎房があるので特に厳重なんだ。脱獄する囚人の心理としてはすぐにでも山に身を隠したいだろうし…看守たちがいる建物の前を危険を冒して通ろうと考えるやつはまずいないからな」
「それもあるが…監獄側はのっぺらぼうを奪いに来る連中も警戒しているということだ」

永倉がそれに続く。舎房は北側にある。そしてその手前に看守の宿舎を含め、耕耘庫や漬物庫などの倉庫、苦役に使われる作業場や風呂などの施設が広がっている。
白石はすっとその見取り図の南側をさす。

「とすれば、やはり侵入経路は警備の手薄な網走川に面した塀しかねえ。ここだ」
「手薄といっても誰も見に来ないわけじゃないだろう?」
「いや、とっておきの作戦がある。この計画は今の時期しか出来ねえぜ。鮭が撮れるいいまだからこそな」

白石が自信たっぷりに言ってみせる。
作戦はこうだ。塀の外側から監獄の敷地内に向けてトンネルを掘る。その入り口はアイヌの小屋で偽造し、さもアイヌの鮭漁のように見せかけるのだ。
トンネル堀りは日露戦争でロシアの堡塁を破壊するためトンネルを掘ったというキロランケが指揮し、トンネル掘りで出た土は鮭漁をしながら川のあちこちに流してうやむやにする。

「シライシ…やっぱすげえや。脱帽だ」
「ッピュウ!」
「脱獄王…やはりお前を網走まで連れてきて正解だった」
「ピュウ!」

杉元とアシリパが口々に誉めそやし、白石がまんざらでもない顔で手を鉄砲型にしてパンと撃ち抜くしぐさをして見せる。ピュウピュウ、ピュピュピュウ、と尾形にもその調子で迫ってみたが、尾形は微塵も表情を変えてやらなかった。まるで猫の置物である。


翌日から早速作戦は始まった。看守の目についてもいいように、キロランケのほかに谷垣と土方がアイヌの衣装で船に乗って移動した。杉元や土方一行で一番若い夏太郎は穴掘りのために鮭漁の仮の小屋「クチャ」の中に潜伏する。牛山が加われば百人力だろうが、いかんせん目立ちすぎる。
ナマエを含めた家永やインカラマッなどのトンネル堀りに参加できない面々は村に残り、村の手伝いをすることになった。

「家永さん、お野菜ここに置いておきます」
「あらありがとう。なんだかナマエさんとゆっくり話すのは久しぶりね?」
「あはは、そうかもしれませんね。合流しても大所帯になっちゃうし…」
「それに彼の監視の目が鋭いんだもの」

彼、が誰を指しているのか一拍遅れて理解してナマエはかぁっと顔を赤くした。家永がわざとらしく「進展があったのかしら?」と笑う。
進展なんてとんでもない。そう呼べるほどのことはないと思う。確かに小樽にいた頃や茨戸の時よりは距離も近くなったと思うが、それでも関係に明確な名前はついていない。
ナマエの片思い、尾形の気まぐれ。そう表現した方が的確なように思える。

「進展だなんてそんな…」
「尾形さんも意外と奥手なのかしら?」
「…私みたいなお子様は相手にしてもらえませんよ」
「ふふ、拗ねた顔も可愛いわ」

例えば家永のような、色っぽい空気を纏うことができたら、尾形はもっと自分のことを見てくれるようになるだろうか。
家永は男なのだから「家永のような」という表現は正確に言うと誤用ではあるが、概念としては間違ってもいないと思う。

「…家永さんみたいに色っぽくなれたらいいのにって、最近ちょっと思います」
「あら、嬉しいこと言ってくれるけど…どうして?ナマエちゃんはそのままでも充分可愛らしいのに」
「なんだか、尾形さんに釣り合う女性になれる気がしなくって」

普段はそんなことを考えている余裕もないが、決戦前の束の間の緩やかな時間はナマエに少しだけ思考の余裕を与える。
嫌われているわけではないし、目をかけてもらっているとも思う。自分の他に尾形からそういう扱いを受けている女がいるかといえばそれはおそらく否であり、それを嬉しく思う気持ちもある。

「私から言わせれば、ナマエちゃんはとっても羨ましいわ」
「私がですか?」
「ええ。若くて可愛らしいし…それに普通の女の子がこんなところまで殿方を追って旅できるなんて…なかなかできることじゃないと思うわ」

家永にそう言われ、ナマエは今までのことを思い浮かべた。確かに、連れ出したのが尾形でなければ、ここまでついてくることはなかったと思う。きっともっと早くに、ついてくることを諦めていただろう。

「尾形さんだったから」

ぽつり、と言葉がこぼれ落ちた。彼だからいいと思ったし、そばにいたいと思った。それはこの旅の道中で何度も感じさせられたことだ。

「本当に好きなのね」
「……はい」

静かに、そして力強く頷いた。尾形のことを考えるといくらでももやもやとしてしまうのに、その感情だけはいつだってどこまでも透き通っている。
随分恥ずかしいことを言ってしまった、と自覚して、ナマエは慌てて「ちょっとインカラマッさんの方手伝ってきますね!」と言い訳をするとパタパタと厨を出ていく。

「ですって。男名利に尽きますね?」
「ジジイ、変なちょっかいかけるな」

物陰から姿を現したのは、見回りから戻ってきた尾形だった。先程の話が聞こえていたのかいないのか、表情を変えないまま髪をナデナデと撫でつける。視線はナマエが走り去ったほうに向けられていた。


トンネルがついに土方の指定する地点まで到達した日。そこで待ち構えていたのは網走監獄の看守部長である門倉だった。話によれば、門倉と土方は古くからの繋がりがあり、脱獄する以前より土方の協力者の一人であったらしい。
そして今回の作戦でももちろん土方の斥候として役割を果たし、網走監獄のトンネルの最終地点は彼の宿舎であったという話だ。

「アイヌにとって主食だった鮭はシペ、本当の食べ物と呼ばれ、川に鮭が極端に少ない年は餓死するものが出るほど重要なものだった。だから私たちは鮭一匹を余すことなく利用する」

アシリパの祖母の十三番目の妹のもと、一同は鮭を捌いて夕食の支度に励んでいた。
アシリパ曰く、鮭は皮までも冬靴の材料として利用するのだという。頭を切り落とし、上顎の氷頭という軟骨のある部分を切り取る。

「この部分を主に使う珍味な料理があるけど杉元!何かわかるか?」
「えええー?まさか…」

二人のやりとりを眺めながら、ナマエはこれは絶対にチタタプだ、と確信する。

「チタタプだ」
「ハイ!出ましたチタタプ!!」

やはり正解はチタタプで、杉元がはた迷惑なほどの気合いでそれを復唱する。さらにアシリパが「チタタプとは本来鮭のチタタプのことを指すんだ」と補足すると「チタタプの中のチタタプ!!」と杉元がキロランケに向かって抓りかかる。杉元のこのチタタプに向かう情熱はなんなのだろうか。

「エラを外してよく洗って血を抜く。エラと氷頭をチタタプする。チタタプはすればするほど美味しくなる」

アシリパがそう説明すると、まず夏太郎が連れてこられてまな板「イタタニ」の前に座らされると小刀は両手に持たされ、後ろから杉元が「チタタプって言えよ夏太郎」と強要する。
続いてチカパシが土方の和泉守兼定を手に「これでチタタプしてもいい?」と言いだし、まさかと思っていたら土方がチカパシごと抱えて兼定でチタタプをした。
とんでもない光景だ、と唖然としていると、今度はアシリパが尾形に寄ってきてチタタプをするよう命じる。

「尾形ぁ」
「………」
「みんなチタタプ言ってるぞ?本当のチタタプでチタタプ言わないならいつ言うんだ?」

黙ったままトントントンとチタタプに向かう尾形にアシリパがそう囃し立てる。尾形にそれを言わせるのは難しいかもしれない。そう思いながら状況を見守っていると、アシリパがさらに「みんなと気持ちをひとつにしておこうと思ったんだが」と続ける。その時だった。

「チタタプ」
「えッ!」

尾形が小さな声でチタタプと言い、ナマエもあまりに驚いて声を上げてしまった。アシリパも「言った!!」と言いながら振り返り、杉元や谷垣に「聞いたか?」とまるで獲物を見つけた時のような嬉々とした表情で尋ねた。
しかし残念ながらそれを誰も聞いていなくて「んもー!」とアシリパは地団太を踏む。

「あ、アシリパちゃん!私は聞いてたよ!」
「さすがだナマエ!尾形チタタプ言ってたよな!」
「うん!チタタプ言ってた!」
「やかましい」

アシリパとふたりでそう興奮していると、ついに尾形からお咎めがあった。咎められたところで先ほど「チタタプ」とちゃんと言っていたことを思えば照れ隠しのようなものに感じられ、少しも怖くない。
チタタプには、そこからさらに白子を加え、最後に砕いた焼き昆布を混ぜて塩で整える。それから身は串焼きに、米とヒエを炊いたおかゆにイクラを混ぜたり、塩煮したじゃがいもを潰したものにイクラを混ぜたりとまさに隅から隅まで鮭を使ったごちそうが並ぶ。

「柔らかくて滑らか、生臭くなくて美味い…これが本当のチタタプか」
「捕れたてだから臭みがないんだ。ヒンナヒンナ」

ナマエは家の中を見渡す。いつの間にか十人を超える大所帯だ。しかもそのほとんどが出会って間もない人間で、その面々とこれから大それたことをするのだと思うと言い知れぬ緊張が湧きあがった。

「インカラマッさんっていったかね?あんたいい人はいるのかい?」

牛山が途中、インカラマッを口説きにかかる。そうだ、牛山は谷垣とインカラマッの仲を知らないのだ。どうにか穏便に取りなそうと様子をうかがっていると、それより先にチカパシが立ち上がり、谷垣の食べかけの器を奪い取る。そしてそれをインカラマッに渡した。

「何のつもりだチカパシ」

意図が読めずに谷垣が尋ねる。すると、アシリパが「女が男の家に行ってご飯を作り、男は半分食べた器を女に渡し、女が残りを食べたら婚姻が成立する」と補足した。アイヌの求婚のようなものらしい。

「本当の家族になれば?」

チカパシの言葉はまっすぐだった。三人は小樽から釧路で合流するまで一緒に旅をしてきている。その仲をそばで見守っていたチカパシにとってはこの上ない話だろう。夏太郎は「いいねえ、おアツいぜ」と囃し立てたが、インカラマッは器を受け取るのを少しためらっているようにも見える。
そうしているうちに谷垣が「返しなさい」と言って器を取り戻すと、それを置いて家を出て行ってしまった。インカラマッがそのあとを追いかける。

「おっと、まだ微妙な関係だったか……」

牛山がこぼした。ナマエは大丈夫だろうかとおろおろその背を心配気に見送る。二人の行く末が気が気じゃないのは、少しどこか、自分と尾形の関係を重ねて見ているからかもしれない。

「大丈夫でしょうか…お二人とも…」
「放っておけ。どうせなるようにしかならん」

尾形の言葉は正しく、確かに部外者がどうと言えることでもない。ナマエは大人しく自分の器を手に取り食事を再開する。その様子を尾形はじっと横目で見つめた。


杉元、アシリパ、白石、土方、キロランケがトンネルを通って門倉の宿舎に赴き、当日の作戦会議を行った。尾形はその様子を聞くためにこっそりとトンネルに侵入し、耳を澄ませる。

「次の新月の晩にのっぺらぼうがいる房はここ…第四舎第六六房だ」
「俺の鉄則としては新月に拘らずすべての音をかき消す嵐の夜なんだが…トンネルが川のすぐ側だ。雨とか川の増水で塞がれる危険がある。今回は俺一人じゃねぇしな…誰にも気づかれないように侵入して、アシリパちゃんをのっぺらぼうに引き合わせ、何事も起きなかったように静かに立ち去れば大成功だ」

門倉に続き白石が言った。さらにキロランケが門倉に尋ねたところによると、土方と通じている看守は門倉だけで、脱獄事件をきっかけにほとんど看守は入れ替わっているらしい。しかも、警備増強のために犬童が裏金で雇ったモグリの看守も大勢いる。夜中でも樺戸監獄の二倍にはなるらしい。

「もし…のっぺらぼうがアシリパさんの父親だとして…連れ出すのは難しいのか?」
「片足の腱を切られているのでいつも看守に支えられている。連れて逃げるのはかなり困難だが不可能ではない」

杉元の質問に門倉が答えた。アシリパはそれを「危険を冒してまで連れ出す必要はない」ときっぱりと言い切る。

「……そこで盗み聞きしとらんで上がってこい」

土方だ。予想はしていたが、やはり盗み聞きしていることは承知のことだったようだ。尾形はにゅっとトンネルの穴から頭を出す。

「キロランケと谷垣からお前のことを聞き出したぞ。尾形百之助は自刃した第七師団長の妾の息子であるというのは、師団内で公然の事実であったそうだな?ただの金塊目当てに軍を脱走したにしては出自がやっかいだ」

面倒な人間に知られた。それは土方のことであり、ここでこの話を一緒に聞いている杉元のことでもある。尾形は髪を撫でつけると、不敵に口角を上げる。

「俺が何か軍をどうこうするために動いているとでも?冗談じゃねぇよ、面倒くせぇ」

尾形はそう嘯いた。土方と杉元は訝し気な視線を投げる。

「テメェらだってお互い信頼があるとでも言うのかよ」

その捨て台詞と共に、またズズズとトンネルの穴の中に体をひそめる。そうだ。ここにいる連中は烏合の衆もいいところで、金塊を探しているという一点のみを共通点として協力している。しかしそれも、実際手に取れるとなった瞬間やその使い道、目的については各々に秘めたものがある。
少しのきっかけですべてバラバラに崩れ去る。そういう危険性を大いにはらんでいる。
決行は次の新月の晩。もうすぐそこまで迫ってきている。



- ナノ -