02



ナマエには両親がいない。流行り病で五年前に立て続けに命を落とした。
元々一家は函館に住んでおり、引き取り手のなかったナマエは父の恩人だったという小樽薬店の店主が引き取ってくれることになった。
薬店の仕事は楽しい。小樽は外国との交易が盛んな街と言うこともあって、店には輸入薬もたくさん置いていた。店主もナマエには良くしてくれたし、その妻である女将さんも娘のように可愛がってくれた。

「よし…今日の仕入れは目薬がこれだけだよね…」

女将さんは午前の店番を中心にしていて、その間に店主とナマエが薬の配達に向かう。午後からはナマエが店番だから、女将さんは帰って色々と家のことをしているらしい。
仕入れた目薬を戸棚に仕舞い、パタパタとはたきで埃を落としていく。
本格的な冬が始まった。北海道に生まれ育つナマエにとっては初雪とともに冬が訪れ、雪解けと共に春が来るというのが当たり前の事だったが、先日鶴見から話を聞いた鹿児島などは南の方にあるためにそもそも雪が珍しいのだという。

「すみません、どなたかいらっしゃいますか」
「はーい、ただいまー!」

ナマエは店先から聞こえた声にそう返し、急いでそちらに向かった。


仕事のお暇を貰った日、ナマエはぶらぶらと街を散策していた。特にこれといった用はなかったけれど、間借りしている部屋に置いてある本はすべて読みつくしてしまったし、何か気分転換になればいいという程度の気持ちだった。
薬店近くの団子屋で団子を買い、包みを持って行くあてを思案する。そうだ、花園公園あたりに行って外でお団子を食べるというのもいいかもしれない。

「いってぇ!」

不意に角を曲がったところから人の大きな叫び声が聞え、ナマエは恐る恐るそちらを覗きに行く。すると、そこには坊主頭の男と犬が一匹いて、犬が男の足に噛みついているところだった。
ぶんぶんと振られた衝撃に犬がパッと口を離し、どんっと男に蹴られそうになったことで逃げていく。

「あの、大丈夫ですか?」
「あ?」

怪我はないだろうかと思わずナマエは声をかけ、男がじろっとナマエを見た。鋭い眼光に一瞬たじろいだが、男は声をかけてきたのが女と見るや否やその鋭さを引っ込めて目をらんらんと輝かせて姿勢を正した。

「白石由竹です!独身で彼女はいません!付き合ったら一途で情熱的です!」
「は、はぁ…」

一体急に何の話だ、と思いながら彼の噛まれていた左足を見る。立てているようだしそこまでの大怪我ではないかもしれないけれど、獣に噛まれたあとというのは存外大きな病に発展したりするものだ。

「犬に噛まれたところを洗いましょう。少しの傷でも放っておくと良くないですよ」

お水貰ってきます。と白石に言い、そのまま二軒先の民家に水を分けてもらいに行く。幸いそこは店主の知り合いの家だった。桶に汲んだ水を持って戻ると、男は呆けた顔で同じ場所に立っている。

「左足でしたよね。洋袴上げてもらっていいですか」
「え、あ…うん」

白石がぐりぐりと裾を上げ、露出した傷口を確認した。あまり血も出ていない。ナマエは懐から手拭いを取り出すと、半分に裂いて片方を水に浸す。充分に湿らせたあと、患部の血と泥をそっと拭きとるようにして撫でた。

「痛くありませんか?」
「うん、平気」
「じゃあ、汚れが入らないように手拭いで覆っておきますので、必要があれば医者に行ってくださいね」

切り裂いた残りの手拭いでくるりと包帯のようにして傷口を覆う。きゅっと端を結べばとりあえずここでできる処置は完了だ。

「お嬢ちゃん随分手際が良いね。看護婦かい?」

ナマエは「いえ、違います」と首を振った。店主に何度か教えられたことがあるだけで、専門的な知識はさっぱりだ。店主はどうやらその昔多少医者のところで処置を習ったようなことがあるらしいけれど、それも随分と昔の話のはずである。
まあ大事ないなら良いだろうと思いその場をあとにしようとすると、ぎゅるるるる、と何か獣の唸り声かと思うほどの音が鳴ってぎょっとする。白石がぺろりと舌を出しながら腹を押さえていて、これは彼の腹の虫なのだとわかった。

「えへへ…ちょーっと最近飯食ってなくって…」
「えっと…お団子で良ければ一緒に食べますか?」
「えっ!いいの!?」

ここまで見事に腹の虫を聞かされると気の毒になってしまう。しかも身なりを見るに金は持っていなさそうに思われたし、自分の手持ちの団子くらいなら分けてやりたくなる。
それから、道端でというのも何だしと話して花園公園まで足を伸ばした。
適当な木陰に腰を下ろして団子の包みを解くと、白石に一本を差し出す。ちなみにここまでで三回はあの凄まじい腹の虫を聞いた。

「はい、どうぞ」
「へへ、助かるぜ」

白石は受け取った団子をぱくりと口に入れ、とろけそうな顔をしながらくねくねと身体をくねらせる。口に合ったようで何よりだ、と思いながらナマエもぱくりと団子を頬張る。
その後もぱくぱくと団子を食べ進め、結局ナマエよりも白石の方が多く食べた結果になったが、ああも腹をすかせた人間を見て見ぬふりをするのも居心地が悪かったし、それでよかった。

「はぁ、食ったぜぇ。お嬢ちゃんは俺の命の恩人だな」
「あはは、大袈裟ですよ」
「いやいや、そんなことないぜ?」

顔を合わせた時から調子の良い物言いだったけれど、団子を食べてもっと調子を取り戻した様子だった。

「俺は女の子から受けた恩はきっちり返すタチなんだぜ。まぁ今は無一文だが…そのうちぱぁっと競馬で稼いでくるから、そんときゃお礼させてくれよ」
「ふふ、期待せずに待ってますね」

調子の良いことをあれこれと重ねて来られたので、ナマエも同じように調子よく返した。競馬で稼いでくるだなんて夢はあるが夢で終わりそうな話でしかない。見返りが欲しくてやったことではないのだから、夢が夢で終わったところでナマエは一向に構いもしなかったが。

「そういやお嬢ちゃんはーー」

白石が他に切り出そうとしたところで、彼は何かに気づいたように言葉を飲み込むとそろそろと体勢を低くし、きょろきょろと周囲を伺いながら一度だけナマエに振り返る「じゃ、またどこかでな」と言ってどこかへと走り去ってしまった。まるで何かから逃げているようだ。

「嵐みたいなひとだったな…」

手元に残された竹串と団子の包みを見下ろしてぽつんと溢す。目的であった団子も食べ終えたし、自分もそろそろ公園をあとにしようかと立ち上がると、後ろから「おい」とよく知る声がかけられた。尾形だ。

「ナマエ」
「尾形さん!お勤めご苦労様です」

尾形はひとりではあったがきっちりと軍衣を着こんでいて、恐らく仕事の最中だと思われた。黒く大きな瞳がじっとナマエを見下ろし、どうかしたのだろうかとナマエは首を傾げる。

「さっきまで一緒にいた男は知り合いか?」
「さっき…ああ、知り合いというほどでは。犬に噛まれたところを手当てして差し上げて、お腹が空いてるっていうから私のお団子分けてあげたんです」

名前は、なんて言ってたっけ。と思い出そうとするも、いまいち思い出せない。なんとか石さんって言ってたな、と考えていると、目の前の尾形が肺の底から息をすべて吐き出すように溜息をついた。

「私、なにかまずいことしました?」
「相手がどんなやつかもわからんのに声をかけてその上団子まで奢るやつがあるか」
「えっ…だって怪我してたから…」
「ははぁ、お前は怪我をしていたら凶悪犯でも手当てしてやるのか?」
「それは…」

どうだろう。そんなことは考えたこともなかった。目の前で怪我をしている人間がいたら手を貸してしまう性分だとは思うが、それが予め凶悪犯とわかっていても同じ対応をするだろうか。もしも手当てをするために近づいて、逆に危害を加えられたらどうしよう。自分ではきっと何の反抗もできないだろう。
ぐるぐるそう考えていると、尾形がぽすんとナマエの頭に手を置き、くしゃりと髪を乱す。

「…あまり妙な連中と付き合うなよ」
「尾形さん、もしかして心配してくれてるんですか?」

いきなりどうしてこんな事を聞かれたのか意味が解らなかったが、もしかして先ほどの男のようにたまたま助けた人間に逆にナマエが害されたらどうするんだということを心配してくれたのだろうか。そう思えば質問の意図も理解できる。

「ああ。お前みたいなのろまはいつどこで騙されるかと心配で心配で仕方ないな」

ふんっと鼻で笑って嫌味を言ってみせて、ナマエはむっと顔を歪める。確かにどちらかと言えば騙されやすい方ではあると思うけれど、そんな言い方をしなくてもいいじゃないか。せっかく心配してくれたんだと嬉しくなったのに、浮かれた気持ちが少し削がれる。

「とにかく、お前が思ってるより小樽は安全な街じゃないんだよ」
「どういうことです?」
「お前は知らんでいい」

自分から言ってきたくせにどういうことだ。そうは思うけれど、これ以上尾形に理由を尋ねても答えてはくれなさそうだと口を噤んだ。
尾形はそれからまたじっとナマエを見て、踵を返すと「小樽薬店まで送ってやる」と言った。

「えっ、でも尾形さんお仕事中じゃ…」
「市民の安全を守るのも仕事の内だろ」
「それってどっちかというと警察のお仕事じゃないですか?」

適当に理由をつけながら歩き出してしまった尾形の背中を慌てて追いかける。もうすぐ師走になる。忙しくしているうちにすぐに年が明けてしまって、そうして日々を過ごすうちにまた一年が経っていく。ありふれた何でもない毎日がこれからもずっと続けばいい。

「そうだ、皆さんやっぱりお正月はお郷に帰られるんですか?」
「帰るやつもいるんじゃないか?兵卒は正月以外の外泊許可は出ないからな」

平時となった今は正月に休暇があるはずだ。皆さん、という聞き方をしたけれど、本当は尾形がどうするのだろうかということが一番聞きたかった。少しズレた回答が返ってきてしまってむずむずと唇を合わせる。

「お前は実家に帰るのか。奉公人も正月くらい休みはあるだろう」

ナマエが尋ねるより先に尾形から言葉が降ってきた。尾形の方から尋ねてくるのなんて珍しいな、と思いながら、ナマエは例年の正月の過ごし方を思い浮かべる。
もちろん薬店は休みだ。けれど親もいない、帰る場所のないナマエはどこにも行かなかった。薬店の二階に与えられた自室で本を読んだり、いつもより少しだけ贅沢な食事をするくらいのもので、あとは普段と変わらなかった。

「お休みはいただきますけど、郷には帰りません。というか…実家がないので…」
「ほう」
「はい。両親が亡くなってますから」
「それは初耳だな」
「言ったことありませんでしたっけ。まぁ…言いふらすことでもないですしね」

ナマエはぽりぽりと所在なさげに頬を掻く。突然天涯孤独の身となった時には悲しくてたまらなくなったときもあったけれど、幸いなことによい主人に巡り合えた。店主も女将も親切にしてくれるし、今では家族を失った悲しみというのも飲み込む事が出来ている。

「尾形さんはお正月お郷に帰るんですか?」
「いや、俺が軍に入る前に母親も祖父母も死んでるからな。お前と同じだ」

母親と祖父母。どうして父親のことを省いたのか。少し引っかかったけれど、他人の出自をとやかく詮索するものではないだろうと「そうなんですね」とだけ相槌を打った。曰く、尾形はどうせ郷里には帰らないのだからと週番にされるのだという。

「じゃあ毎年お勤めを?」
「ああ。まぁ普段と変わらないどころか、人数少なくて気楽なもんだぜ」

話しながら歩くうちに薬店の近くまで辿り着いた。何の予定もなくてどうしようかと思っていた休暇だったが、尾形に会うことができたのは運が良かった。

「すみません、送っていただいてありがとうございます」

ただでさえ短い距離は、尾形と話しているとあっという間だった。もう少し一緒にいたいけれどもそうはいかない。ナマエは礼を言って頭を下げ、お勤め中の尾形をこれ以上引き止めてしまうわけには行かないと勝手口から薬店の中へ引っ込む。丁度少し入ったところで店主が仕入れの整理をしているところだった。

「おや、ナマエなにかいいことでもあったかい」
「えっ、あっ、いえ!そんなことは…!」

そんなにあからさまに顔に出てしまっていたかと恥ずかしくなり、ナマエは両手で顔を覆ったあとぱんぱんと自分の頬を二回叩き「お店の棚の整理しますね!」と店の方へ向かった。「休みなのに働き者だねぇ」と店主が笑っているのは、聞こえているけれど聞こえていないことにしたのだった。



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