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村に連行された谷垣は、通常時狩りで見つけた小熊を飼っているという檻に両手を縛り付け拘束された。
村人は谷垣を殺してしまえと言う者と和人なのだから警察に連れていくべきだと言う者との二つに分れた。尾形はそれを食料庫になっている高床の建物から眺め、ナマエはその下でどうすればいいんだと状況を見守っていた。
このままでは谷垣が殺されかねない。鼻と耳と足の腱を切るというアイヌのやり方で裁こうという声まで上がった。

「ちょっと待った」

アイヌと谷垣の間に割って入ったのは杉元だった。どうやら彼らも捜索中にこの村のアイヌに会い、犯人が捕まったという知らせを聞いて駆けつけたらしい。アイヌ流の裁きを下そうという大柄の男は「どけッ!!」と杉元の右顔面を拳で殴る。

「まぁまぁ、落ち着きなって」

杉元は軍帽のつばを掴み、アイヌの男を見上げる。悲鳴を上げるどころか少しも怯む様子のない杉元に男は目を見開いた。
犯人の仲間である和人の言葉など聞く価値もない、とでも言うように、男は続いて杉元の鳩尾と左の頬を殴る。
ナマエは先日の偽アイヌが潜伏していた村のことを思い出し、このままではアイヌの男の身が危ない、と息をのむ。アシリパが「杉元ッ!!」と焦ったように名を呼ぶ。
杉元はアシリパに対してニコッと微笑み、手出し無用と左手で彼女を止める。
次の瞬間、杉元の凄まじい拳がアイヌの男の顎に綺麗に入り、男はぐらぐらと巨体を揺らしたあと、バタンと後ろ向きに倒れて気を失った。
あんな穏やかに笑ったのだから平和的解決をするのかと思ったのに、まさかの拳に全振りだった。思わずその場のほとんどが黙り、尾形だけが愉快そうに笑って手を叩いた。

「犯人の名前は姉畑支道。上半身に入れ墨がある男だ」

杉元はそう言いながら谷垣のシャツのボタンに指をかけ、上半身が見えるようにそのボタンを千切ってしまう。もちろん谷垣の上半身には入れ墨などあるわけがない。

「この谷垣源次郎は寝てる間に犯人に村田銃を奪われたドジマタギだ!!」

杉元が谷垣の胸毛をぶちっと毟り取る。そして「俺達が必ず姉畑支道を獲ってくる」と言い胸毛を放る。それがアシリパの顔にかかってくしゃみをした。
アイヌは協議の末、三日の猶予を与えた。それまで谷垣は熊の檻で身柄捕らえられ、村の人間にはその期間刑罰を保留させてくれるらしい。
谷垣によれば姉畑は一緒に野宿した夜、彼が非常にヒグマに興味を示していたと杉元に話した。これは不味い。ヒグマ相手に素人だろう男が村田銃で敵うわけがない。しかも相手がヒグマとなれば、入れ墨ごと食われてしまう。

「私と杉元が三日以内に姉畑支道を連れて戻れなかったときは…尾形が谷垣を守ってくれ」

尾形はまだずっと食料庫に座ったままだ。じっと谷垣の捕らえられている檻を見つめた。

「あの子熊ちゃんを助けて何の得がある?奴は鶴見中尉の命令で俺たちを追ってきた可能性が高い。鶴見中尉を信奉し、造反した戦友三人を山で殺す男だ」
「谷垣と行動していた三人のことか?あいつらを殺したのはヒグマだ。俺がその場にいたんだから間違いない」

杉元が尾形にそう言って、尾形が「ヒグマ?」と聞き返す。ナマエの脳裏に玉井と岡田、野間の顔がよぎる。アシリパが続けた。

「谷垣はマタギに戻りたがっていた。足が治ったあとも軍に戻らずフチの家にいたと聞いた。谷垣に何かあればフチが悲しむ」
「アシリパさんの頼みを聞かねぇと…嫌われて獲物の脳みそ貰えなくなるぜ?」

アシリパが尾形を見つめた。尾形は品定めするように数秒間彼女を見下ろす。それからニッと口角を上げる。

「言っとくが…俺の助ける方法は選択肢が少ないぞ」

視線をアイヌの男たちに投げた。湖のほとりでのことを思えば、尾形の言葉は冗談でも脅しでもないだろう。尾形はそれを遂行する実力があるし、そんな場面で躊躇う男でもない。

「…ナマエ、尾形を頼んだぞ」
「えっ、あ、う、うん…」

アシリパに急に話を振られ思わずそう返したものの、実際問題ナマエにはどうすることもできないだろう。アシリパと杉元は必ず姉畑を見つけてくる、と言い村を出ていく。
三日間。こんな広大な湿地帯からたった三日で人間を探し出すことなんてできるんだろうか。もしもの際は谷垣を逃がさなければならない。そのときどうやってこの村のアイヌに被害を出さないようにするか。ナマエは必死に頭の中で選択肢を増やす方法を試みた。


村に残った尾形とナマエには、少し訝し気な視線が投げられるようなことはあっても害されることは一度もなかった。しかも食事まで振舞ってくれるという好待遇で、時間になると同じ男が椀を持って現れる。

「おいお嬢ちゃん、メシだ」
「ありがとうございます…えっと…」
「キラウシ」
「ありがとうございます、キラウシさん」

名前を尋ねようとした意図が伝わったらしく、アイヌの男がそう名乗った。このキラウシという男は杉元たちが谷垣を探していた際に出くわしたアイヌであり、聞けば谷垣の村田銃の元の持ち主である二瓶鉄造と一緒に狩りをしたというのは彼らしい。

「兵隊にアイヌにマタギに和人の娘…妙な組み合わせだな、アンタら」
「あはは…たまたま旅の道中で一緒になったというか…」

キラウシの眼光が鋭くて、思わずナマエがたじろぐ。確かに妙な集まりであることには変わりはないが、これを上手く説明できるだけの言葉が見つからない。
ナマエはキラウシから二つの椀を受け取った。器の中には何か団子のようなものが入った汁物がよそわれている。

「あのニシパはアンタの夫か?」
「えっ、いえその…そういうわけでは……」

あの、と言われた時の視線が完全に食料庫の上に座る尾形に向けられていて、ナマエはどもりながらそれを否定した。するとキラウシが「話さなくても意思の疎通が出来ているようだからそうなのかと思った」と理由を述べた。

「野暮なことを聞いたな」

キラウシはそれほどの興味もなかったようで、そこで踵を返して中心部へと戻っていく。ナマエは汁物を溢してしまわないように慎重に尾形のところへと運んだ。
尾形さん、と声をかけようとすると、思いがけず強い圧力で見つめられていた。

「…何を言われた」
「え?」
「さっきのアイヌに何を言われた」

質問の意図が分からずに聞き返せば、繰り返しのような言葉が戻ってくる。もしかして何か不利益なことを言ったのではないかと危惧しているのか。

「旅にしては妙な組み合わせだと言われましたけど、旅の途中で会ったって言ったらそれ以上は尋ねられませんでした」
「そうか…それならいい」

やはり尾形が気にしていたのはその点だったようだ。預かった椀を渡すと、クンクンと用心深く匂いを嗅いでから口をつける。ナマエもそれに続いた。汁物は団子の他にも根菜が入っており、これは汁物であるがよく腹にたまりそうだと思った。

「んんっ!野菜のお出汁がすごくよく出てます!それにお団子がよくそれを吸っていて…このお芋も丁度良いホクホク加減でやみつきです」
「ははぁ、久しぶりに出たな、それ」
「あっ!」

ナマエは指摘されてから口を閉じた。やってしまった。このところあの「料理の感想を語ってしまう癖」を封印できていたのに、尾形とふたりきりという状況で気が緩んだのか。谷垣はまだ檻の中に囚われているというのに随分のん気なことをしてしまった。

「す、すみません…」
「いい。お前がのん気にしてるのは嫌いじゃない」

そういう問題でもない気がする。ナマエは愉快そうに笑う尾形を食料庫の下から見上げ、振舞われた汁物の具をもぐもぐと咀嚼した。


杉元とアシリパは、なかなか姉畑を連れて戻ってこない。この広い湿地帯の中で人間ひとりを探しているのだから妥当ではあるものの、だからと言って彼らが姉畑を連れてこれなければ谷垣の身が危ない。
夜になり、いよいよこれは不測の事態について考えておかなければならない、とナマエは食料庫の上に座る尾形の隣まで梯子をよじ登る。

「尾形さん、あの、起きてますか」
「…ああ」
「谷垣さんのことなんですけど…」

ナマエはひっそりと切り出す。周囲は寝静まり、何の進展もない状況に飽きが来たのか見張りのアイヌはぐっすりと眠っている。
ナマエの作戦はこうだ。まず、藁で人型程度の塊をつくる。それに布を被せ、あたかも尾形がそこに座しているように見せる。谷垣が尾形を置いて逃げるわけがないと村人は思っているだろうから、谷垣の発見までにある程度時間を作ることが出来るだろう。

「いい作戦だ。極力いらん面倒ごとは避けたいところだしな」

尾形はそれに乗った。問題は決行のタイミングだが、これは実質選択の余地がない。最終日になれば流石に監視の目が厳しくなるだろう。やるなら二日目の夜、つまり今夜しかない。

「それにしても意外だな、お前は話し合いで解決出来ないかとでも言うかと思っていた」
「そりゃあ、話し合いで解決出来れば一番ですけど…そういうことばかりじゃないって、流石に道中思い知りましたよ」
「ははっ、いい傾向だ」

尾形が藁の身代わり人形を用意しながら笑った。実のところ本当に、ナマエは自分が清廉潔白な人間ではないと思っている。極悪人であるというつもりもないが、何か理由ときっかけがあれば、他人を害したり欺いたりする普通の人間だ。
この旅の途中、尾形が誰かによって危うい状況に陥れられれば、間違いなくその誰かを害してでも尾形を救おうとする。

「…私べつに、尾形さんが思ってるほどいい子じゃありませんから」
「いいじゃねぇか。高潔な人間は好かんからな」

高潔。それはまた大きく出たものだ。まるで誰か特定の人物を指すような言葉に少し首を傾げつつも、そんな悠長なことは言っていられない。二人は手早く準備を済ませ、こっそりと谷垣の囚われている檻に近づいたのだった。


あくる朝、日が昇るころにはナマエと尾形と谷垣の三人は、無事村を抜け出して湿地帯の中に潜り込むことに成功した。とは言っても、いつ身代わりの人形に気付かれてしまうかわからない。逃げたということは自らを犯人であると認めるようなものだ。藁の人形に気が付けば間違いなく追ってくるだろう。

「杉元たちを信じて待っても良かったのに…」
「時間が迫ればそれだけ監視も厳しくなる。ナマエでも分かることだ」
「逃げれば罪を認めるようなものだ」
「お前の鼻を削ぐのは俺がやっても良かったんだぜ」

湿地帯を走りながら谷垣と尾形がそう言葉を交わした。谷垣の言うことの方が真っ当ではあるが、それでは杉元達が戻らなかった時に間違いなく刑罰が科されるだろう。
しばらく走って村から離れ、近くの街で合流しなければならない。はぐれた際は街で合流する手はずとなっており、恐らく白石とインカラマッとチカパシは街に出ているだろう。

「銃声だ」

不意に、鈍い黒色火薬の銃声が聞こえた。これは三十年式歩兵銃ではなくそれよりも旧式の、恐らく村田銃のものだ。ということはつまり、恐らくこの近くに姉畑がいる。
銃声の方へと向かって行くと、三人のさらに背後から追っ手のアイヌの男たちが走ってきた。中にはキラウシもいる。

「いたぞッ!逃げた三人だ!!」
「見つかった!!」

まずい。もうすぐそこに谷垣の無実を証明できる姉畑がいるというのに、ここで捕まってしまっては谷垣が罰せられてしまう。
その時だった、一同が目の前の光景にぎょっとし、逃げるも追うもすべて動きを止める。視線の先にはヒグマがおり、あろうことかその下半身に眼鏡の男がしがみついて、まるで交尾をしている。

「なんてこった」
「信じられん…みんな、見てるか」
「ああ…!!」

騒然となる。動物にのしかかって交尾の真似事などをしようとしているのが既に奇妙奇天烈であるが、その上相手がヒグマだ。危険過ぎる。ヒグマに殺される。
近くで杉元の声が聞こえた。彼らもまた姉畑まであと一歩のところに迫っていたらしい。

「えっ、あっ杉元さん!?」

杉元が茂みから飛び出し、一直線に姉畑に向かう。今姉畑を救出しなければ刺青の暗号ごとズタズタに引き裂かれてしまうことだろう。しかも杉元は小銃さえ手にしていない。丸腰だ。
姉畑は既にこと切れていて、ヒグマからぽろっと落ちるとその足を踏み折られた。杉元はそこから振りかぶったヒグマに対して何かをびゅうッと差し向けた。遠くてなんだかは見えない。杉元はヒグマの追撃をかわしながらすぐそばの水たまりに身を隠す。あれは正確に言えば川の一部であり、湿原ではああして水たまりかのように各所で水面を見せてるのだ。

「安らかな顔だ…ウコチャウプコロして力尽きるとは…鮭みたいなやつだったな」

アシリパが杉元のそばに寄り、続いて谷垣、尾形、ナマエの三人も歩み寄る。姉畑は満ち足りた顔で息絶えていた。「あのヒグマが人を殺してウェンカムイにならずに済んだのが唯一の救いだ」とこぼす。

「どうしてこんな馬鹿な真似を…熊に殺された人間は熊に好かれて結婚相手に神の国へ貰われていったのだという話もあるけど…」
「そのアイヌの話…姉畑先生は知ってたのかなぁ?」
「アイヌに詳しければ知っていたかもな」

アイヌにはそんな話もあるのか、と感心しながら聞いていると、杉元が「決死の想いも恋は成就せず…だったってわけか」とまるで哀れむような声音で言った。それはなんだか違う気がするぞ、という気持ちで黙っていれば、アシリパも同じだったのか、キッと杉元を睨んで「おい杉元!この男を哀れむのか?やめろ!」と強い口調で言った。

「姉畑支道が本当に動物を愛していたならどうして最後に殺すんだ?姉畑もどこかで動物とウコチャヌプコロするのが良くないことだと分かっていたんだ。あとになってその存在ごと無かったことにしようとするなんて…本当に自分勝手だ」

アシリパが絶え間なく言い立てる。全くもってその通りだ、とナマエは隣でこくこくと力強く頷いた。先ほどからアシリパの言っているウコチャヌプコロという独特の語感のアイヌ語はどうやら交尾だとか性交だとかそういう類の言葉らしい。

「どうしてウコチャヌプコロする前によく考えなかったのか…そうすれば殺さずに済んだのに…なぁ杉元!!そう思わないか?」

アシリパの主張に杉元が黙り、もごもごと言葉を飲み込んだ。アシリパの厳しい視線は下げられることはない。

「男ってのは出すもん出すとそうなんのよ」
「オイやめろッ!」

さらっと尾形が髪をかき上げながらそう言ってみせた。ナマエはムッと顔を顰める。じろっと軽蔑の視線を尾形に向けてからナマエがつんっと言った。

「尾形さん、最低です」
「おいおい、お前はまさか生娘でもあるまいし、なに言ってんだよ」
「なっ……!!」

尾形の言葉にわなわなと震え、首から頭の先までが真っ赤になった。こんなところで杉元やアシリパもいるのになんてことをいうんだ。しかも自分が当然経験はあるだろうというふうな、まるで貞淑ではない女のような言い方だ。ナマエは思わず大きな声で「悪かったですね!子供で!」と言い放ち、何も手伝えることはないくせに熊を捌くアイヌたちの方へずんずんと歩いていく。尾形が小さく「マジか」と言った。

「杉元…お前のせいでナマエの機嫌を損ねちまったじゃねぇか」
「は!?知らねぇよ!!お前が勝手に言ったんだろ!!」

すったもんだの末にとんでもないものまで見てしまったものの、これで杉元陣営の刺青人皮は8枚になった。実に総数の3分の1というわけである。



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