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順調に下山し、釧路まで目前となった山のふもと。尾形と白石を留守番させ、ナマエはアシリパに伴われて杉元と三人で近くを散策していた。ナマエが前方不審なものを見つけ「あれ」と指さす。

「アシリパちゃん、あれってもしかして…エゾシカ?」
「どれだ?」

ナマエの指さす方向に視線を合わせる。アシリパはぎょっとしてエゾシカのそばまで寄ると、今度は自分で杉元を呼び寄せた。

「杉元、ちょっとこれ見てみろ」
「なになにぃ?今度はなんのウンコみつけたのぉ?」

確かに動物の糞便を探すのはアシリパの得意技であり半ば癖でもあるが、今回はそんなものではない。指さす先には一頭のエゾシカが血まみれになって横たわっていた。

「このエゾシカ…ヒグマにやられたの?」
「ヒグマの傷じゃない。人の足跡がある。メッタ刺しにしてそのまんまにしたんだ…」

これは毛皮を台無しにする殺し方だから狩猟の傷ではない。それに猟師であればこの夏場に肉の処理を何もせずに何時間も離れることはないだろう。エゾシカは若いオスで、アシリパの見立てによると死んで数時間は経過している。

「アシリパさんこの肉どうする?白石たちに持って帰る?」
「いや…なんか嫌な感じがする。お祈りだけして立ち去ろう」

アシリパの判断により、そのエゾシカに祈った三人はその場を離れ、罠を仕掛けた湿地に向かうことにした。それにしてもなんだか恐ろしいものを見てしまったように思う。猟師の仕業でもなければ、エゾシカから逃げようとした人間の仕業ということもないだろう。だとしたらどうしてあんなことをしたのか。アシリパの言う通り、なにか関わってはならない恐ろしいものの予感がする。

「獲れてるよッ!アシリパさん!!丹頂鶴が罠にかかってる!!」

湿地に仕掛けた罠には丹頂鶴がかかっていた。杉元は「スゲー!」と興奮しているが、アシリパはマナヅルの方が美味しいんだと不満げである。しかしせっかく獲れたし白石たちも腹を空かせているだろうから、と一旦丹頂鶴を持ち帰ることに決める。
大きな丹頂鶴を抱えて戻ると、白石と尾形が膝で山を作って並列で座っていた。しかも間に絶妙な間隔があいており、なんとも珍妙な空気に満ちている。

「あ!!良かった、帰ってきた!」

よっぽど居心地が悪かったのか、白石の声が随分弾んでいる。さっそく持ち帰った丹頂鶴を捌き、火を焚いて汁物にしていただくことにした。

「鶴って江戸時代は関東の方にも飛んできたらしいな。将軍様もこうやって鶴の汁を食べたって…」
「そうなんですか?」
「だいぶ減ったみたいでもう関東じゃ見たことないぜ」

意外にも博識さを披露した白石にナマエが驚いた声をあげると、杉元がそうして補足する。将軍様も食べたのか、と神妙な気持ちになりながら器を受け取り、ナマエもそっと口を付けた。
不味い。泥臭いような、なんだか独特の臭みを感じる。そう思ったのはナマエだけではないようで、杉元も「うーん」と苦い顔をした。

「泥臭いようなムッとする変な匂いだろ?」
「なんで丹頂鶴なんか獲ったんだ!」

アシリパに的確に味を指摘され、白石が同調する。こればっかりは庇いようもない。アシリパが続けて丹頂鶴を獲った理由を「杉元が北海道の珍味を食べつくしたいんだといつも言っていたから」と適当にでっち上げ、即座に杉元が「俺はそんな目的で北海道を旅してるんじゃないんだよ!」と突っ込んだ。

「……杉元は…どうして金塊が欲しいんだ?」

アシリパが尋ねる。この旅における一行の唯一の共通点は金塊だ。ナマエは杉元にどんな目的があるのだろうかとナマエも泥臭い丹頂鶴を咀嚼しながら耳を傾ける。

「まだ言ってなかったっけ。戦争で死んだ親友の嫁さんをアメリカに連れてって、目の治療を受けさせてやりたいんだ」

杉元の声は凪いでいた。驚いた。ろくに考えたことがあったわけではないが、まさか彼にそんな動機があるとは思いもよらなかった。
先の日露戦争では実に30万人以上もの日本兵が死んでいる。兵士ではないナマエにとってはあまり実感がないが、こうして親しい人を亡くした人間はいくらでもいるのだ。
カラン、と飯盒に箸を預け、口火を切ったのは尾形だった。

「惚れた女のためってのは、その未亡人のことか?」

ぐいっと髪を撫で上げ、横目で杉元を見る。白石も向かいで「え?そうなの?」と意外そうに声を上げた。杉元は何も答えなかった。
親友と結ばれたそのひとを未だに思いこんな遠く離れた地で危険に身を晒しているなんて、とんでもないまっすぐさだ。ナマエは顔も知らない杉元の「惚れた女」に思いを馳せる。

「フン!トリ!フンチカッ!ハァホォォ!ホーイホオ!」

突如アシリパがおそらくアイヌ語で歌いだし、服の裾を頭にかぶって両手を広げ、まるで鳥のように踊りだした。杉元が突然の奇行に「アシリパさんどうしたの?」と尋ねれば、これは釧路に伝わる鶴の舞なのだと返ってきた。

「この踊りで着物の裾をバサバサさせるのはホパラタといって、鶴はヒグマととても仲が悪くて羽をバサバサして喧嘩するから、ヒグマにあったらホパラタすると逃げていくと言われている」
「へぇ……どうして急に踊ったの?」
「別に…鶴食べたから」

フーフーと息を切らす。博識な物言いはいつもの通りだが、誰がどう見ても脈絡がなくいつも通りの様子ではない。
ああそうか、アシリパは杉元に対して特別な感情があるんだな、と、窺い知るには充分だった。そもそも普段から二人は旧知の仲のように親しく信頼しあっている。この旅を始めてからの知り合いだと聞いた時には驚いたくらいだ。
杉元にその好意が伝わっているとは思えない現状に微笑ましくも切ない気持ちを同調させていると、アシリパの気持ちに気が付いた尾形も隣で「ふ…」と小さく口角を上げた。
そのあとすぐのことだった。尾形がじっと遠くを見ながら言った。

「こっちに誰か来るぞ」

尾形の向く先からアイヌの女性と子供が歩いてくる。随分焦った様子だ。この中の誰かの知り合いだろうかと見回せば、案の定アシリパが「チロンヌプとチカパシだ」と言った。

「遠くからアシリパが踊ってるのみえた!やっっと見つけた!!」
「私を探していたのか?」
「谷垣ニシパと小樽から探しにきた!!」

チカパシから出た谷垣という言葉にナマエは身を固くする。白石は知らない名前に首を傾げた。
まさか尾形を追ってきたのか。そうだとしたらどうしてアイヌと一緒に。いや、そもそもチカパシはアシリパを探しにきた、と言ったじゃないか。

「でも…谷垣ニシパが大変なことに!!」
「谷垣に一体なにが?」
「谷垣ニシパは私たちを巻き込みたくなくてはぐれました。谷垣ニシパは昨日から追われています」

ナマエが思考を巡らせている間も話は続いていく。いわく、現在このあたりで家畜や野生のシカを斬殺して粗末に扱う人間がいるらしく、カムイを穢す人間がいると怒った地元のアイヌから谷垣は犯人と間違われて追われているのだという。

「アシリパさん、さっきのオス鹿…」

杉元の言葉にナマエも隣で頷いた。詐欺師の鈴川聖弘の言っていた詐欺師の情報もある。こんな惨いことをする人間がいるなら、刺青の囚人である可能性は高い。
アシリパがチロンヌプと呼んだアイヌの女性はインカラマッという名前らしい。そのインカラマッの話によると、まずこのあたりで4日前、谷垣とインカラマッ、チカパシの三人は地元のアイヌの男たちと出会った。そのうちのひとりが谷垣の持っていた村田銃を指さし「二瓶鉄造のものではないか?」と指摘した。二瓶鉄造というのは谷垣の恩人でもある刺青の囚人であり、確かにその村田銃は二瓶のものだった。
アイヌの男は10年以上前、二瓶とともにヒグマを狩ったことがあるという。その村田銃につけられた特徴的な傷を見てそんなことを言ったらしい。

「あの出来事がその後まさかあんな事態になるとは…」
「ハンッ!!占い師のクセにぇ!?」

アシリパがインカラマッを指さした。
その後谷垣たちは森の中で姉畑支道と名乗る男と出会った。彼は学者であり、北海道で動植物の調査をしているらしい。チカパシも懐き、谷垣たちはその晩姉畑とともに野宿をした。しかし翌朝になって予想外のことが起きていた。

「翌朝…男と共に谷垣ニシパの銃と弾薬が消えていました。おそらくその銃が新たな犠牲に使われて…」
「銃から離れるなとあれほど…」

尾形が舌を打つ。この口ぶりからするに今までも口を酸っぱくして言ってきたことのひとつなのだろう。なるほど、谷垣が二瓶の村田銃を貰い受けたのことを知っていたアイヌに出会ってしまっていたがために、谷垣が一連の事件の犯人として追われることになっているのだ。

「囚人に学者がいるってのは聞いたことがある。あちこちで家畜を殺して回って、牧場主に見つかって大怪我させて捕まったとか」
「鈴川聖弘から聞いた情報と一致するぜ。そいつが刺青脱獄囚24人のひとりだ」

手分けをして谷垣を捜索することになった。杉元はアシリパと、白石はインカラマッ、チカパシと、尾形はナマエと、といった具合に三組に分かれ、杉元とアシリパの組が森の中で見つけた鹿の死骸のもとに急ぐ。

「おいナマエ、俺たちも行くぞ」
「はい」

杉元たちとは反対側の捜索に向かう。谷垣といえば、小樽の山で一番最初に銃を向けあった相手である。あの時は確か玉井たちの造反に誘われるも断り、殺し合いになった末に負傷したところをアイヌの村で匿われていたはずだ。傷が癒えて鶴見の元に戻ったかと思いきや、対立勢力である杉元やアシリパとも面識があるらしい。

「…谷垣さん、私たちを追ってきたんですかね…」
「その可能性が高いな。鶴見中尉の差し金だとして杉元たちと顔見知りなのはどうしてだか分らんが…」

背の高い草を分けて進む。湿地帯であるために足元が悪い。ぬかるんだ中を進むのは中々にこつが要った。
ナマエは足を取られ、ずるっと体勢を崩した。慌てて踏ん張ろうとしたらそれも失敗し、泥まみれになることを覚悟したところで尾形の腕が伸びてきて、ナマエの体を支えた。

「危なっかしいな」
「あ、ありがとうございます…」

思わぬ距離の近さに心臓がきゅっと鳴った。間近で真っ黒の瞳がナマエを見つめた。
そのとき、東の方からダァンという鈍い銃声と派手な水の男が聞こえる。二人は再度目を合わせ、その銃声を確認すべく東へと急ぐ。
おそらく銃声の地点であろうそこには、四人のアイヌの男とアイヌの装束を身にまとった谷垣が乱闘になっていた。

「俺はやってない!濡れ衣だッ!!」

湖のほとりで囲まれ、谷垣が無実を主張している。和人の言葉が通じていないのかそれとも聞く気がないのか、躊躇うことなく銃床でゴッと顔面を殴った。「エライケアン!」と叫ばれた言葉は意味が分からなくても殺意が込められていると分る声音だ。
この状況でまさかアイヌを殺すつもりだろうか、と尾形を見ると、上空に銃口を向けて引き金を引く。ダァァンと銃声が高らかに鳴り響いた。

「久しぶりだな、谷垣一等卒」

その場にいた全員が尾形に視線を向けた。谷垣が驚いた顔で「尾形上等兵!!」と名前を呼ぶ。

「オマエ、仲間か?」
「谷垣、きさまは小樽にいたはずだ。何をしにここへ来た?」

アイヌの男の言葉を無視して尾形がじっと谷垣を見つめた。もしもここで鶴見との繋がりを認めるのなら即刻殺すつもりなのかもしれない。

「鶴見中尉の命令で、俺を追ってきたのか?」
「俺はとっくに下りた!軍にもあんたにも関わる気はない。世話になった婆ちゃんの許に孫娘を無事返す。それが俺の役目だ」

婆ちゃん、という言葉に少し尾形が反応したような気がした。いや、思い過ごしかもしれない。
尾形は口角を上げ、ジャキッと遊底を引いて戻す。

「頼めよ、助けてください尾形上等兵殿と」

厭らしくそう言って見せて、するとアイヌのひとりが「銃を捨てろッ」と叫んだ。尾形がアイヌの男を一瞥する。

「あんたの助ける方法なんて…あんたはこの人たちを皆殺しにする選択しか取らないだろう。手を出すな!!ちゃんと話せば分ってくれる!」

尾形を止めたのは谷垣だった。確かにナマエが見ていても尾形がここで谷垣を助けるとして、間違いなくアイヌの男たちを撃つことは目に見えている。
尾形が「ははッ、遠慮するなって」と言って見せれば、先ほどとは別のアイヌが「テッポオスラ!!」と叫びながら尾形に銃を向ける。

「俺に銃を向けるな、殺すぞ?」

ゾッとするような低い声だった。隣にいたナマエも、自分に向けられているわけではないのにだらだらと脂汗が流れる。

「テッポアマヤン」
「エカシ…」
「コタン オレネ チトゥラ ワ パイェアシ」

一番年嵩の男が何か指示をして、すると男たちは銃を下げた。
谷垣はそこからアイヌの村に連れていかれることになり、尾形とナマエもそれに同行することとなった。



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