20



いつの間にか眠ってしまっていたようで、グラグラと激しく揺らされる振動で目を覚ました。地震か、いや違う、このエゾシカが揺らされている。

「お、尾形さ…」
「追手か…」

尾形は舌打ちをしながらそっとエゾシカの腹の中から這い出る。エゾシカを揺らしていたのは追手の兵ではなく、エゾシカの死骸の臭いに呼び寄せられたヒグマたちであった。ヒグマは4頭で、まだ若いメスのように思われた。
尾形たちと時を同じくしてアシリパと杉元もエゾシカの腹から顔を出す。真後ろにまでいたヒグマの存在に思わずびくりと声を上げそうになった尾形をアシリパが「尾形静かにッ」と制する。

「白石が持って行かれる!!」

白石のもぐりこんでいたエゾシカをヒグマがずるずる引きずり、助けなければ、というところでコロンと白石が転げ出た。寝ぼけたままの白石が生まれた赤子よろしく「おぎゃあ」と産声を上げ、どうしてだか分らないがヒグマがそれにひるんで距離を取る。

「ゆっくり立ち去るぞ、慌てるな…!!」

充分に周囲を警戒しながら五人はゆっくりとヒグマの群れから離れる。白石はそこでやっと目が覚めたらしく、顔面蒼白で「ええ?なんでこんなにヒグマが?」と情けない声を上げた。

「アイヌは大雪山をカムイミンタラと呼んでいる。ヒグマがたくさんいるところという意味だ。シカの肉は残念だけど諦めよう…」

アシリパが言った。あのヒグマたちのほかにも、エゾシカの死骸の臭いにつられて集まってくるヒグマはいるかもしれない。早くここから立ち去るのが安全策だといえる。

「さすがに追っ手もあの天候では進めなかったか」
「このまま諦めて帰るとは思えないけどね」

追っ手を一度撒くことが出来たのは幸いだが、この程度で鶴見率いる小隊が引くわけがない。ここからの逃走経路が肝要だろう。この山の中でこれ以上追いかけっこをするのは無理がある。

「追っ手は俺たちが網走方向へ下山すると踏んでるはずだ。意表をついてここは十勝方面へ下山して追っ手をまくついでに…釧路へ寄るのはどうだろうか」

杉元がそう提案した。網走はここからさらに東へと向かう必要がある。対して十勝はそれより少し南に逸れ、南東方向への移動になる。追っ手を撒くために十勝というのは理解できる話だ。白石が「どうして釧路へ?」と尋ねる。

「詐欺師の鈴川聖弘から釧路にいたという囚人の話を聞いた」
「ああ、なるほど。一石二鳥ってワケ」
「刺青人皮は一枚でも多いほうがいい。山の中を歩き通しってわけにもいかねぇしな」

杉元の提案で一行の行く先が決まった。ここから裏大雪方面へと下山し、釧路を目指すことになった。


先だっての問題は食料の調達である。厳しい山といっても山頂付近にエゾシカやヒグマがいるくらいだし、獲物になる動物はたくさんいる。しかしいかんせん銃が使えない。銃声でもさせようものなら追っ手に十勝方面へと下山しようとしていることが明るみになってしまう。
そこでアシリパが捕まえたのはキュンと妙な鳴き声で鳴くネズミだった。石を下から木の板を使って支え上げ、ネズミが先端につけたエサの米を食べようとすると組んだ木が外れて石が落ちてくる仕組みになっている。いわく、ロシアの少数民族がリスを獲るときに使うブラーシカという罠で、本来は石ではなく丸太で重しにするらしい。

「エルムが獲れた。下山したら丸焼きにして食べよう」
「ネズミ煎餅かよ」

獲れたネズミはペラペラのまっ平になっていて、杉元のネズミ煎餅という表現は言いえて妙だった。
しかし序盤順調だったネズミ獲りも下山するにつれてだんだん獲れなくなって来てしまう。これは標高の高い所にしかいないのかもしれない。そのネズミが獲れなくなるころには周りに木が生えているところまで降りて来られたから、アシリパのくくり罠も使って獲物を獲ることにした。もっとも、このような罠で獲れるのはこのあたりでは木ネズミくらいらしく、いずれにせよネズミを獲る羽目にはなったけれども。
あんまりネズミしか獲れないものだから、杉元が尾形に「我慢しろよ」と釘を刺した。銃さえ使えればもっと美味いものが獲れるのに、と尾形は不満げだ。

「少ないけど尾形も食べろ」

アシリパがそう言い、焼いて毛をむしったネズミを差し出す。仕方なしにまだ肉のついていそうな部分をガジガジとしがんだ。

「尾形ぁ、ヒンナは?」

ヒンナとは食事などに対して使う感謝の言葉である。道中頑なにその「ヒンナ」という言葉を使わない尾形にアシリパは口にするよう促すが、それでも尾形は無言だ。
杉元が「ほっときなよ」と言うが、アシリパはシパシパとなにか子供でも見るような顔をしながら「尾形はいつになったらヒンナできるのかな?」と続ける。

「好きな食べものならヒンナ出来るか?尾形の好物はなんだ?」

尾形はやはり黙したまま何も言わなかった。ナマエは尾形の好物を聞けるかと期待していたから、少しだけ残念な気持ちになった。


日が暮れて、一行は山中で野営をすることになった。杉元とアシリパが食材を集め、白石とナマエと尾形が野営の準備にかかる。夏とはいえ、山中の夜は冷える。火と煙は獣をよける効果もあるし、野営に焚火は必須だ。夜の間は相当派手に煙を上げない限り追っ手に見られることもないだろう。

「じゃあ私、薪を集めてきますね」
「おい待て、俺も行く」

薪を集めに立ったナマエに尾形が続いた。アシリパと杉元が戻ってくるときにはぐれないように、白石は野営地で留守番だ。
薪になりそうな木を集めるだけであれば簡単に見つけられる。それに手で火をおこすわけでもあるまいし、焚火を始めることそのものにさほど時間がかかるわけでもない。薪集めのついでにキノコか何かを採集できればいいというのがナマエの目論見であった。

「あっ、キノコありましたよ!」

ナマエは木の陰にキノコが群生している地点を見つけ、ひょいっとしゃがみ込む。5センチほどの傘を持つキノコで、確かこれはハタケシメジというキノコだ、と思い出しながら手を伸ばす。すると、背後から尾形が「待て」とそれを止めた。

「食えねぇぞ、それ」
「え、これハタケシメジですよね?小樽にいたとき食べてましたよ?」
「似てるが違うな。そいつはクサウラベニタケだ。嘔吐や頭痛を引き起こすぞ」

そう言われ、ナマエはじっとキノコを見つめる。記憶の中のハタケシメジと照らし合わせてみたが、正直あまり違いがよくわからない。

「じゃあこっちの柄が太いのは…」
「食用のヤマドリタケか毒のあるドクヤマドリか見分けはつかないが…見分けがつかねぇならやめとけ」
「そんなぁ…毒キノコばっかりなんですか?」
「ははぁ、何なら杉元あたりに食わせて試してから食うか?」
「そんなこと出来るわけないですよ!」

せっかく山の幸を採集して貢献しようと思ったが、キノコひとつでも初心者にはなかなか難しい。ナマエはキノコを諦め、薪集めに専念する。ついてきたのだから手伝うつもりなのかと思ったが、尾形にそんなつもりはないらしい。

「はぁ、キノコ…」
「なんだ、そんなに食いたかったのか?」
「そういうわけじゃないですけど…いつも獲ってもらってばっかりだし、何か役に立てたらと思ったんです」

食材があれば調理の手伝いは出来るが、そもそも先ほどのキノコしかり野草しかり、山の中で食用か否かを見極めるのは難しい。こと薬草に関しては多少勉強していたからまだ見分けがつくが、そこに特化しているから知らない山野草のことを山中で見極めるのは難しいことだった。
ふと、ナマエはここで今日の話の続きを聞けるのではないだろうかと思いついた。結局アシリパに尋ねられた時は聞けなかった。

「あの、尾形さんの好物って何なんですか?」

尾形は自分のことをあまり語りたがらないから、彼については知らないことばかりだ。尾形は一度ナマエをじろっと見てナデナデと髪を撫でつける。それから躊躇ったような間を取ってから口を開いた。

「…あんこう鍋」
「あんこう鍋?」
「ああ。俺の地元じゃよくある鍋だ。おっかが…母親がよく作ってた」

予想もしていなかった「母親」という言葉にナマエはぱちぱちと瞬きをした。そうか、あんこう鍋は彼にとって母の味なのだな、と思うと、彼の思わぬ一面にふっと頬が緩むのが分る。

「いつか食べてみたいです。あんこう鍋。北海道じゃ食べられないんですかね?」
「さぁ、どうだろうな」

心なしか、尾形の声も柔らかい気がした。あんこう鍋とはどんな味がするのか。いつか尾形と一緒に食べることが出来たらいいと思いを巡らせる。
漁どころか釣りもろくに経験のないナマエにあんこうを獲ってくることは難しいだろうが、街に降りたらどこかで売っていないか探してみるのもいいかもしれない。

「……お前は」
「はい?」
「お前の好物は何だ」

まさか質問が返ってくるとは思わず、またもナマエは目を瞬かせた。尾形は探るような視線を投げたあと、失敗したか、とでもいうようにそれを逸らす。
尾形がそのまま踵を返してしまうような気がしてナマエは咄嗟に外套を掴んだ。

「あ、あまいもの…!」
「甘味?」
「はい、あの、好き嫌いとかあんまりないんですけど、甘いもの大好きで…尾形さんにいただいた有平糖も大事に食べてて、ここまで持ってきたくらいで…」

今度は尾形が目をぱちぱちと瞬かせる番だった。ナマエは自分の肩掛け鞄から有平糖の赤い缶を取り出した。からん、と小さく中の飴が転がる音がする。

「あれをやったのは何か月前だと思ってるんだ」
「だ、だってもったいなくて…もう残り少しだけになっちゃいましたけど…」

小樽では中々お目にかかれないもので、しかも尾形がくれたものだ。だから特別なときに一粒ずつ大事に食べていたのだ。しかも、この道中でひとりだけ有平糖を食べるなんてことも出来るはずなく、小樽を出てからは実質数粒しか口にしていない。

「溶けちまうぞ」
「さすがにそんなことになる前にはいただきます」

どこか満足げな顔になったのを見ながらナマエは缶をまた鞄の奥に仕舞う。
結局キノコも野草も見つからないまま終わったが、アシリパが両手いっぱいの野草を採ってきてくれたおかげで、野営だというのになかなかの食事になった。


事件は翌日の下山の最中に起きた。白石が突然「痛あッ!!」と叫び、何事かと思えば転んで蛇に頭を咬まれたらしい。手には自分を噛んだ蛇を捕まえていて、すでに石で叩いて絶命した後だという。
意外だったのはアシリパの反応だ。蛇なんぞ山中にいくらでもいるが、叫び声をあげるほど蛇が嫌いだったようで、しきりに白石に蛇が死んでいるのか否かを尋ねた。

「咬まれたとこすげぇ痛くなってきた…毒で死ぬかも…アシリパちゃん吸いだしてくれ!!」
「いろいろと気持ち悪いから嫌だ!!蝮の毒ではめったに死なないから我慢しろ!」

アシリパが一蹴し、日暮れまでに薬になる草を探してくるとものすごい勢いで逃げ出した。

「お前らでいいから吸い出してくれよぉ!!毒をチュッチュと!!」
「……めったに死なねぇってよ」

今度は杉元と尾形に詰め寄るも、またしても一蹴された。白石はその「稀に死んだ」というのが頭を咬まれた連中ばかりだったらどうするだとか網走監獄に潜入できる自分が死んだら困るだろうだとか、ことの緊急性を訴えてなんとか誰かに毒を吸い出させようと並べ立て、最後に尾形を指名して「尾形ちゃん吸ってくれよ!」と要求した。

「歯茎とかに毒が入ったら……嫌だから…」
「えぇぇぇっ」

そう言っている間にも白石の頭部が冗談みたいに大きく腫れていく。もはや腫れというより帽子を被っていると形容したほうが納得できる有様だ。
白石はその場にごろんごろんと転がり痛みを訴える。それからぎゅるっと勢いよくナマエを見た。

「ナマエちゃんッ!お願い!ネッ!治療だと思って!!」
「えっ!!」

ついにナマエにお鉢が回ってきてしまってあわあわとうろたえた。助けてやらなければとは思うが、頭に吸いつけというのは気が進まないし、尾形の言う通り万が一口内の傷に毒が入ったり毒を誤飲してしまったらと思う部分もある。
白石がもう一度「ネッ!!」というと、ナマエが返事をする前に尾形がひゅっと銃口を向ける。

「なんだ、そんなに苦しいなら今すぐ楽にしてやろうか?」
「あ、ははぁッ…冗談だよ尾形ちゃん冗談だって!」

白石が両手を上げる。続けて「なんとなくいける気がしてきたかもッ!!」とあからさまな嘘をつき、隣で杉元が「もうおとなしくアシリパさんの薬草待っとけ」と諭した。
結局ヨモギとショウブの煙で燻され、その後白石の頭部にはヨモギの煮汁を湿布された。あとはこの効果を待つだけだ、というとき森の中に見たこともない大蛇が出現し、いの一番に蛇嫌いのアシリパが逃げ出す。
逃げた先でアシリパが蛇を避けるというアマニュウを懐に抱きこんだ上にぐりぐりと頬に擦りつけ、とんでもなく青臭いにおいに仕上がっていた。これだけアマニュウの臭いがすればもう蛇の一匹も寄ってこないだろう。
その晩アシリパはアイヌの子守唄を歌って床についた。意味は理解できなかったがその音は心地よく、一行を安らかな眠りに導いたのだった。



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