01



雪が降り始める頃のことだった。
冬鳥たちがやってきて、川には鮭が昇ってくる。晩秋の空気が街に満ち、動物も人間も冬支度を始める。
薬店を出てすぐのところで男が「あっ」と声をあげ、何かを思い出したように立ち止まった。

「親父さま、いかがしました」
「いけない、今日は油問屋の大旦那様に薬の相談にのって欲しいと言われていたんだ」
「えっ、それは大変…こちらの配達はどうしましょう」

少女はひょいっと風呂敷包をあげてみせた。二人はこれから帝国陸軍第七師団が小樽にもつ兵営に薬の配達に向かうところだった。
親父さま、と呼ばれた初老の男は小樽一番の薬問屋の店主である。油問屋も第七師団も、どちらも上客には変わりないが、油問屋の方は多少の商談が待っているのに対し、陸軍の方は単なる配達である。

「配達を任せてもいいか。この前も一度で一人で行ったことがあっただろう」
「はい。お任せください」

幸いなことに、このナマエという少女はこれから配達する予定の陸軍を仕切る小隊長に気に入られている。商談をしていけというわけではないし、以前にも一度任せた事がある配達だ。
そこから店主とナマエは分かれ、一方は油問屋に、もう一方は第七師団の兵営に向かうことになった。角にある団子屋を曲がり慣れた道を進む。道ゆく途中に馴染みの客から声をかけられたりしながら歩いてれば、目的地はあっという間だった。
元商店だったという二階建ての建物を利用した兵営の入り口に門兵が立っている。

「御免下さい、薬の配達に参りました」

ナマエがそう言うと、門兵は訝しむように視線を細める。何度か来たことのあるこの兵営でも初めて見るか顔の兵士だった。どうして女が、と言わんばかりの雰囲気を感じ取り、ナマエが説明しなければと口を開いた時だった。

「おい、一等卒、その女は小樽薬店の奉公人だ。鶴見中尉の頼まれものでも持ってきたのだろう」

門兵の後ろから低い声がかかり、遅れて人影が姿を現す。黒々とした猫のような瞳を持つその兵士の袖章は三本。この小隊に所属する尾形上等兵である。
尾形の登場に門兵は姿勢を正し「失礼いたしました!」とナマエを中に通した。もちろんナマエに恐縮したわけではなく、出された「鶴見中尉」という名前に恐縮したのだ。鶴見はこの小隊を率いる小隊長である。

「すみません、尾形さん助かりました」
「あいつは最近旭川から小樽へ来たばかりだからな。お前の顔を知らんのだろう」

尾形の手助けもありすんなりと兵営に入ることのできたナマエは半歩後ろをとことこと歩く。この尾形という男とは彼らが小樽に駐屯するようになって出会った仲だが、兵士たちの中では何かと構ってくることもあってよく話をする間柄だった。

「今日は何の配達だ?神薬か?」
「今日はフェノールが足りなくなったと聞いて」
「ああ、そういえばそ玉井伍長がそんな話をしていたな」

話をすると言っても尾形はそれほど話す男ではないから、ナマエが話しかけてそれに相槌を打つという構図がほとんどだった。
それなりの頻度で顔を合わせるものだから、話といっても本当に他愛のないものがほとんどで、こんな話に男の人が付き合っていてつまらなくないのだろうかと思うこともあったが尾形が思いのほか楽しそうに話を聞くためついつい些細なことでも話すようになっていた。

「それで、森の中から遠吠えが聞こえたんです。あれはきっとエゾオオカミですよ」
「んなわけあるか。どうせ野犬か何かだろう」
「一匹くらい生きているかもしれないじゃないですか」
「一匹ならどっちにしろ時間の問題だな」

先日森の近くでオオカミらしき遠吠えを聞いたと話せば、尾形はそれを鼻で笑う。こういう反応はいつものことなので今更気にはならないが、少しくらい夢みがちな話に乗ってきてほしいとも思う。

「尾形さん、優しくないです」
「ははぁ、俺ほど優しい男も中々いないぜ?」
「そんなことばっかり。少しは優しくしてくれたっていいじゃありませんか」

本当は尾形が自分には他より少しだけ優しくしてくれているのではないかと薄々感づいてはいたけれど、あえて拗ねてみせて唇を尖らせれば「馬鹿たれ、優しくしてるだろうが」と斜め上から声が降ってきた。

「放っておくと何もないところで転んじまいそうだからな」
「もう。流石にそんなことしません」
「どうだか。この間運河の近くですっ転びそうになってるのを見かけたぜ」
「えっ、あの時近くにいたんですか!?」

恥ずかしいところを見られていた、とナマエは風呂敷包で顔を隠す。尾形は一度ナマエの頭をくしゃりと撫で「じゃあな」と言ってその場を後にした。顔が赤くなっているのは、恥ずかしいところを見られたと言うだけではなかった。


明治37年2月に勃発した日露戦争は多大な犠牲を払いながら翌明治38年9月に終戦した。
日本の勝利であったとはいえ、戦死者は日本が約11万5000人、ロシアは約4万2000人と日本の方がより多い死者を出した。賠償も南樺太の割譲と関東州の租借で妥結し、賠償金を取ることはできなかった。
しかし、この日露戦争における勝利は欧米列強の支配下に置かれていた国々に大きな希望を与えた。極東の小国が大国ロシアを破ったことは世界の抑圧された民族に光となったのだ。
第三軍として明治37年8月から旅順に動員されていた第七師団の面々は隊ごとに数回に分かれて11月末から順次凱旋した。旭川の師団通りで行われた凱旋パレードの熱狂は凄まじかった。
帝国陸軍歩兵第27聯隊のとある小隊の一部がこの夏から小樽へと駐屯している。小隊の隊長は鶴見という中尉だ。北鎮部隊と畏敬の念を込めて道民から呼ばれる第七師団も、陸軍の中ではそう良い立場とはいえなかった。日露戦争における旅順攻略戦の強行策の責任を取り師団長である花沢幸次郎中将が自刃。その責が第七師団にあるとして中央からは冷遇された。

「鶴見さま、小樽薬店です」

とはいえ、陸軍内部の話はナマエにはあまり関係のないことだった。鶴見の小隊は軍支給の薬が足りなくなった時などに気前よく薬を購入してくれる上得意様だ。その資金が一体どこから出ているかということは考えたことがなかったが、考えたとしてもきっと軍から特別の手当てでも出るのだろうとしか思わなかっただろう。

「ああナマエくん、入ってくれ」

部屋の内側から男の声がかけられるのを待ってから戸を開ける。中には奇天烈な琺瑯の額あてを装着している肋骨服の男がいた。この男が小隊を率いる鶴見である。

「いつもありがとうございます。フェノールお持ちしました」
「ありがとう。いや、小樽薬店は何でも手に入るから助かるよ」
「いえ、こちらこそご贔屓にしてくださってありがとうございます」

ナマエは風呂敷包を鶴見へ手渡しぺこりと頭を下げた。
鶴見は目元から額にかけての皮膚が剥がれている。話によると、前頭葉の一部を日露戦争で失ったらしい。そんな大怪我をしながら現役将校を続けているのだから随分な傑物だ。この奇天烈な琺瑯の額あては失われた頭骨の一部の代わりというわけだった。

「今日は君一人で配達を?」
「はい。何か親父さまに言伝があれば承ります」
「いや、今日のところは特にはないよ」

何かあればと思ったが、そういうことでもないらしい。ナマエが「そうでしたか」と相槌を打つと、鶴見が思いついたように「お茶でも飲んで行かないかね」と提案する。

「いい茶葉をいただいてね。おじさんの話に付き合うと思って、どうだい」
「いいんですか?」
「ああ。もちろん、店主殿にはばれないくらいにね」

悪戯っぽく片目を瞑ってみせる鶴見にフフフと笑いをこぼす。座っているように言われてナマエが椅子に腰を下ろすと、鶴見は茶を用意するために一度部屋を出て行った。
その時コンコン、と扉が叩かれる。きっと鶴見に用事のある兵士が来たに違いない。ナマエはどうしようかと少し逡巡し、やはり兵士に鶴見が不在であると伝えるべきだろうと立ち上がる。かちゃりと扉を開けると、そこには一人分の人影があった。

「鶴見中尉ど、の…ってあれ、君なんでこんなとこにいるの?」
「宇佐美さん、あの、薬の配達で来たんですけれど、鶴見さまがお茶をご馳走してくださるってお話になって…」
「ああそう。それでここで待ってるように言われたわけね」

両頬の同じ位置に特徴的なほくろを持つその男は宇佐美といった。尾形と同じこの小隊の上等兵である。ここでは尾形ほどではないがナマエによく話しかけてくる男の一人だった。

「おや、宇佐美上等兵?」

そうしているうちに丁度鶴見が戻り、宇佐美が弾んだ声で「鶴見中尉殿!」と呼びかける。さながら恋する乙女のようではあるが、この小隊における鶴見の求心力というものは凄まじいため、彼ほどではなくても熱烈に鶴見に付き従う人間は大勢いた。

「先日の例の件でご報告をと思い参上しました」
「ああ、その件なら後から聞こう。今からナマエくんとお茶をするところでね。先に電報の件を確認してくれ」
「了解しました」

去り際宇佐美はこっそりと「鶴見中尉殿のお茶なんだからしっかり味わって飲みなよ」と言いつけ、ナマエはこくこくと頷く。鶴見の手に盆はなく、少し遅れて他の兵士が持って現れた。茶を淹れるといっても自分でやるはずがないか、とナマエは一人で勝手に納得をして、もう一度椅子に腰掛けて振る舞われる茶に口をつける。

「わぁ、美味しい。普段飲んでいるものとは香りも味も全然違います」
「気に入ったようで良かった。良くして下さる方が薩摩の方でね。薩摩の知覧という土地で生産しているものだそうだ」
「ちらん、ですか」
「ああ、薩摩半島の先の方だよ。地図を見せてあげよう」

そう言い、鶴見は後ろの戸棚から日本地図を取り出すとナマエの目の前に広げ、鹿児島の薩摩半島を指さしてみせた。ナマエは北海道から随分と南の、いわば正反対の場所にあるそこはナマエにとってまったく縁のない場所だった。

「知覧って随分遠い場所なんですね」
「船を使えば案外近いものだよ」
「お船ですか?」

船といっても漁船のように大して遠くに行くことのないようなものにしか乗った事がない。船を使った旅路というものがどんなものかは想像ができなかった。
鶴見という男を初めて見た時には、奇天烈な額あてに度肝を抜かれて気後したものだが、話せば話すほど紳士で品のある美丈夫であった。大した学のないナマエにもわかるよう合わせて話をしてくれるし、決して奉公人の小娘だからと蔑ろにすることはない。
しばらく鶴見が鹿児島に行った際の話を聞き、それからいくつか薬店の他愛もない話をする。丁度茶を飲み切ったあたりで宇佐美とはまた別の兵士がドアを叩き、そこでナマエはお暇することになった。

「ご馳走様でした」
「店主殿によろしく伝えてくれ」
「はい」

ナマエはぺこりと頭を下げ、執務室を退出する。とことこと兵営を歩いていくと、出入り口が見えてきたというあたりでまた別の兵士に声をかけられた。

「ああ、ナマエさんこんにちは。鶴見中尉にお届けかい?」
「三島さんこんにちは。はい。鶴見さま宛です」
「働き者だなぁ」

ナマエの隣を並行して歩く。男は三島といった。この小隊に属する一等卒のひとりで、役者のようなきりりとした相貌が特徴的だった。

「ナマエさん、ここに来たときまた尾形と…尾形上等兵と話をしていたね」
「はい。いつもお話聞いてくださるんです」
「まぁ…うーん、俺の口出すことじゃないとは思うけど、あの人には気をつけるんだよ」

出し抜けにそんなことを言われてナマエは首を捻った。気をつけるとは何のことだろうか。三島はそれ以上の言及は避け、そのうちに門のところへ到着してしまい、そこで別れることになった。

「ナマエ」

兵営を出てしばらく歩いたところでまた尾形の声に呼び止められる。まだ何か用事だっただろうかと振り返ると「手を出せ」と言われて素直にそれに従った。手のひらにぽすんと四角い缶を持たされ、じっとそれを観察する。

「えっ、有平糖?」
「やる。この前知人から東京土産に渡されたが、俺は甘いものは食わんからな」

絶対に嘘だと思った。尾形は別に甘いものが嫌いというタチではないはずだ。しかも、この有平糖は日本橋にある高級な店のもので、東京土産といっても女性向けに購入されることがほとんどのはずである。知人とやらが男の、しかも軍人にわざわざ土産として渡すのは不自然だ。

「ありがとうございます。大事に食べますね」

そう言うナマエに尾形はぶっきらぼうに「おう」と言った。
それから住み込みしている薬店に戻り、間借りしている二階へと引っ込む。缶をそろりと開けると、角の丸くなった赤と黄金の有平糖が詰まっていた。

「…私のために手に入れてくれたとかだったら…どうしよう」

我ながら思い上がりも甚だしいと思いつつも、そう期待せずにはいられない。
ナマエが黄金を一粒を口に放り込むと、ころころと口の中を転がした。有平糖の甘さが口いっぱいに広がる。



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