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鈴川を連れて月形に到着した一行を待っていたのは、良い知らせと悪い知らせ、ではなく悪い知らせが二つだった。
ひとつは熊岸長庵が死んだこと。これは土方一行が樺戸監獄で掴んだ情報だった。樺戸で熊岸は死んだことになっているらしい。これに関してはむしろ偽アイヌコタンで実際に死んだところを見ていた一行にはさしたる問題ではなかった。
問題はもう一つの方だ。白石由竹が第七師団に捕らえられた。
土方とキロランケが神居古潭で救出に向かったそうだが、失敗に終わった。一行は旭川まで約25キロの深川村で合流し、策を練ることになった。

「おそらく白石はいまごろ旭川に着いてしまっているだろう。アイツが勝手に脱出できたとしても、いつになるかわからないものを我々は待っているわけにもいかない」

土方が言った。永倉が「そもそも脱出できるかどうか…脱獄王とはいえ監獄とは違うんだ。どんな扱いを受けているか」と言い、家永が「今この瞬間に皮を剥がされているかも」と続ける。ナマエの背筋に冷たいものがゾッと走る。

「尾形見てこいよ。お前第七師団だろ?」
「……俺はいま脱走兵扱いだ」

牛山の問いかけに尾形が答える。鶴見達が小樽に駐屯しているとはいえ、彼の小隊の人間がいないわけではないし、尾形の脱走がどこまで知られているかもわからない。順当に話が回っていれば即座に拘束されてしまうだろう。

「キロランケは?元第七師団だろ?」
「俺はカムイコタンで顔を見られた」

今度は杉元が尋ね、キロランケが答える。
各々が白石の顔を思い浮かべた。そのどれもがふざけたり調子の良いことを言っているような顔で、不穏にも「まぁ……いいか……」と諦めの空気が流れる。牛山がとどめに「あいつの入れ墨は写してるし」と言うと、一気に諦めの空気に傾いた。

「いや……俺は助けたい」

声を上げたのは杉元だった。ナマエも見捨てるのはなるべく避けたいと隣でこくこく頷く。
問題は、どうやって救出するかと言うことだ。第七師団の本隊に潜入し、白石の所在を明らかにして救出を試みる。
どうやったら入っていけるだろうか。兵士を装えないのであれば、どうにか関係者として潜り込むしかあるまい。ナマエは恐る恐ると手を挙げる。

「あの…私が薬屋の配達として入っていくっていうのはできませんか?」
「馬鹿たれ。小樽薬店を利用していたのは本隊から離れて駐屯していたからだ。旭川の規模なら中央の支給品が山ほどある」
「ぅ…すみません…浅はかでした…」

勇気を振り絞った提案を尾形に一蹴される。言われてみればその通りだ。本隊からの支給が間に合わない時に小樽薬店を利用していたにすぎない。本隊ともなると町の薬屋が配達に来るわけもないだろう。
何か役に立てないかと思っての発言だったが、これなら黙っていたほうがよかった。

「おい尾形、ナマエさんにそんな言い方ないだろ」

杉元が尾形に強い口調で抗議する。尾形がじろっと睨んだ。

「俺は正しい指摘をしたまでだ。行ったところで門前払いか、最悪の場合間諜を疑われて捕らえられかねんぞ」
「だからって言い方ってもんがあるだろ」
「貴様には関係ない話だな」
「お前……」

言い争いはすぐに白熱した。杉元の気遣いはありがたいが、尾形の言う通り浅慮な策であったことは間違いない。これ以上こんな仕方のないことで言い争わせるわけにはいかないとナマエは「あの、私は大丈夫ですから」と言うと、杉元が渋々と言った様子で引き下がった。それからふうっと息をつき、改めて口を開く。

「この男を使おう」

杉元がぐっと鈴川の頭を掴んだ。一体この詐欺師を使ってどうやって潜入するつもりだろうか。


大所帯でもあるし、街中に滞在すれば悪目立ちするだろう、と一行は付近のアイヌのコタンに身を寄せることになった。
準備を整えるまではここに滞在することになるため、ナマエは尾形と二人、食料の調達のために山へと入る。獣道のような道なき道を進んだ。

「尾形さん、何獲るんです?」
「そうだな、鳥でもいいが……」
「私、鳥肉好きです」

ナマエが何とはなしにそう言えば、尾形は一度目を猫のように補足して驚き、ナデナデと髪を撫でつけた。何かおかしなことを言ってしまっただろうか。

「あの大所帯なら鹿か何かの方が良いかと思ったが…いいだろう。目一杯鳥を撃ってやる」

何が琴線に触れたのかは分からないが、尾形は満足げにそう言い、意気揚々と鳥を探し始める。理由は分からなくても、尾形が珍しく楽しそうにしている姿は見ていて少し得をしたような気分になった。
そこからもう少し山へと入り、調子よく尾形は鳥を撃った。一発の弾丸で二羽を仕留めることもあり、尾形の腕はやはり常人のそれを遥かに超えていることがわかる。

「すごい!たくさん獲れましたね。羽根をむしるの大変そう」
「そんなもん杉元にでもやらせろ。単純作業ならあいつでも出来るだろ」
「こんなことで頼りませんよ。ただでさえ私は役に立てないんですから。このくらいやらせてください」

ナマエがそう返すと、尾形は「ふん」と興味を失ったように視線を逸らす。戦うようなことがあれば間違いなく自分は役に立たないのだ。こんなことくらいせめて任されていたい。
その晩は尾形の鳥撃ちの甲斐もあり、豪勢な夕食になった。なし崩しで世話になる家の主人にも少しは恩が返せたかもしれない。


鈴川が逃げ出そうとしたが全員の連携で簡単に阻まれ、最後は臼よろしく牛山が重しとなりもはやさるかに合戦の様相を呈していた。

「俺にどうしろっていうんだ!!」
「お前が樺戸監獄に潜入して熊岸長庵を脱獄させたように第七師団から白石を助け出せ」
「方法は考えろ!お前は詐欺師だろ!」

吠える鈴川に土方と永倉が口々にそう言う。杉元は首だけ振り返って家主のアイヌに「すみませんね、お騒がせして」と笑った。それも一瞬のことで、鈴川に顔を戻すときはギロリと迫力のある顔に戻っている。

「おい鈴川…協力しないのなら俺がお前の皮を剥ぐ。この計画でドジを踏めばお前は第七師団に皮を剥がされる。お前が皮を剥がされずに済む道は計画を成功させるしかない」

少なくとも、第七師団でまともな扱いを受けられるとは思えない。鈴川が生き残るにはここで杉元たちに協力するほかない。鈴川は顔を真っ青にしたまま唇を噛んだ。

「白石が第七師団の兵営のどこにいるのか…中に潜入して探らなければなるまい」

キロランケの言葉に、牛山が「関係者に成りすますか?」と提案する。カムイコタンでの一件で相当に警戒しているはずだ。潜入しても捕らえた白石の所在などよほどの関係者でなければ教えることはないだろう。

「東京の師団の上級将校とかは?」
「いや…軍は上に行くほど横のつながりが強いから架空の上級将校はバレる」

杉元の提案を尾形がそう制する。少し視線を下げ、しかも杉元相手に嫌味も何も加えることなく吐き出された言葉はどこか普段と違って聞こえた。ナマエは思わずじっと尾形を見て、その視線に気づいた尾形はふいっと逸らしてしまった。

「……イヌ…犬童四郎助はどうだろうか」

そう口火を切ったのは鈴川であった。犬童四郎助というと、網走監獄の典獄である。牛山や土方、永倉によれば鈴川は決して犬童には似ていないそうだが、鈴川は強気だった。
誰か実在の人物に成りすますというのは、その人物と似ていない部分を減らすことだという。鈴川はまず長く伸ばした髪を切り、眉を薄くする。髪の毛を前に流し、見た目がそこそこ似てきたところで土方による「厳格で潔癖、規律の鬼と言われながらも個人的な恨みで私を幽閉する矛盾を持ち合わせている。心の歪みが顔に現れている」という証言をもとに、スゥッと人相を変えて見せる。犬童を知る面々はそこで息を呑んだ。これは相当に似ているらしい。
かくして一行は鈴川を犬童四郎助に化けさせ、旭川の第七師団本営に潜入することとなった。


軍都、旭川。
帝政ロシアの南下政策に対して防衛整備が急務とされ、第七師団の駐屯と鉄道の新設により、函館、小樽、札幌に次ぐ道北の中心地となっていた。駅から第七師団の兵営へは一本の大きな道路が設けられ、その名も師団通りと呼ばれている。

「随分と栄えているな。港町でもない北海道のど真ん中なのに」

杉元は顔を見られないように襟巻きを鼻の上までぐるぐる巻きにする。この珍妙なメンツもそうではあるが、杉元の特徴的な傷などは知る人間に見られて仕舞えば面倒なことになるに違いない。
旭川の発展をもたらしたのは旭川と札幌を繋ぐ上川道路である。これは囚人の苦役の一環として建設された道路で、その建設には夥しいほどの犠牲者が出た。寒さと飢えとヒグマや狼によるものだった。

「樺戸集治監に収容されたのは戊辰戦争や西南戦争で負けた国事犯と呼ばれる武士たちだ。勝てば官軍、負ければ賊軍。戦争というのは負けてはいかんのだ」

高台に登り、広大な第七師団の兵営を眺めながら土方が言った。明治維新の際、形勢が逆転するまで彼ら幕府軍こそが官軍であった。錦の御旗が新政府軍に翻ったとき、土方たちは一体どんな気持ちでそれを眺めていたのだろうか。
ナマエは市井の評判ほど悪人とは思えない土方や永倉の若かりし頃を思い、並び立つ兵舎の数々を見下ろした。


問題は、あの広大な第七師団の敷地のどこに白石が捕らえられているのかだ。監獄と違い敷地に入るのはそれなりに容易でも、一軒一軒建物を訪ね歩くわけにもいかない。
杉元たちは一度拠点としているアイヌの家に戻り、入手した第七師団の兵営の地図を広げる。

「白石を連行した連中の肩章の番号が27だった。旭川に4つある歩兵聯隊のひとつ…歩兵第27聯隊」

キロランケが神居古潭で見かけたという兵士を思い出しながらそう言い、地図の一部を指差して「ここが27聯隊の兵舎だ」と付け加える。

「えっ!」
「ちょっと待て、27聯隊?」

ナマエと尾形がほとんど同時に声をあげる。27聯隊といえば、まさに鶴見たちの小隊が属する聯隊だ。杉元が不思議そうに「どうした、尾形もナマエさんも…」と首を傾げる。

「いやお前らアホか」
「あ…!そうだったっけ。ってことは鶴見中尉も同じ聯隊か」

尾形が外套に隠れている自らの肩章をぐいっとめくってみせる。それで杉元はようやく合点がいったようだった。これで事態は面倒にはなったが、作戦は立て易くもなった。

「白石は27聯隊が密かに確保している可能性が高い。なぜなら聯隊長は鶴見中尉の息がかかった淀川中佐だ」

鶴見は上官でもある淀川をも操作し、あらゆる物事を己の都合の良いように運ばせている。そもそも軍の組織の中で小隊を率いる中尉の上にはそれを中隊としてまとめる大尉がいるはずである。その大尉の存在さえも飛び越えて中佐を傀儡としているのだから、その力はどこまで及んでいるのか図りしれない。

「淀川中佐を訪ねていけ。今なら鶴見中尉も旭川にはいない。隙を突くならそこだぜ」

尾形がにやりと口角を上げる。それからある程度話がまとまって、いくつか仕込みをするという鈴川を杉元とキロランケが監視することになり、ナマエは尾形とともに一度家を出る。

「旭川の本隊って今どなたがいらっしゃるんですか?」
「…なんだ、顔見知りがいると不安か?」
「そういうわけじゃ…ないですけど…」

この質問は単純に興味本位だった。第七師団そのものがすでに陸軍最強と謳われている兵士たちである。その中でも、鶴見の小隊の強さと言うものはこの旅で数回にわたり間近に感じた。けれど確かに、今の言い方は尾形にそう取られてしまっても仕方ないだろうか。
尾形はナマエを見下ろし、ナデナデと髪を撫でてから口を開く。

「……そうだな、宇佐美あたりは本隊に置いているとは思えん。月島軍曹はひょっとすると夕張から逃げ延びて一度旭川に戻っているかもしれんが…まぁ順当なところで鯉登のボンボンは残ってるだろうな」

残っていると尾形が読む鯉登という兵士は会ったことがないが、尾形の言い方からして彼と良好な仲でないことは容易に想像がつく。また第七師団の面々と対峙する瞬間が訪れてしまった。
もしも今度自分が誰かに刃を向けなければならない瞬間があるのなら、その時は確実に、迅速に、その判断を下さなければならない。
ナマエは尾形に隠れ、両手を組んで白くなるほど強く握りしめた。



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