09



ナマエは尾形に手を引かれ、番屋の中の梯子で登ったネダイ部分に潜んだ。やはり尾形もこのどこかに隠し部屋があると踏んでいるらしい。
覗き窓の向こうで背後の物置がごうごうと燃えている。黒い煙が怒涛の如く立ち昇る。

「その…刺青人皮、っていうのはここにあるんですかね…」
「少なくともさっきのドンパチやってた現場に持ってきたのは偽物だ。ここが燃えてるとわかりゃ、日泥親子は嫌でも動く」

日泥女将の木箱への執着心のなさがそのいい証拠だった。そしてこの番屋にでも隠してないなら、それこそ今日中に検討をつけて見つけ出すのは難しいだろう。

「刺青人皮は手土産だ」
「手土産…?」
「説明はあとでしてやる。ほら、日泥親子のご登場だぜ」

尾形が喉だけで笑う。言い合うような声とともに日泥親子三人が番屋に入ってきた。尾形はナマエをぐっと奥に押さえ、下方から見えないように匿う。女将が「番屋の中の物運び出しな!」と怒号を飛ばしているのが聞こえる。
女将と、続けて息子の新平が慌ただしく網元の居住区である右手の畳の部屋へと入っていき、親方だけが何か思い詰めたように俯いていた。そのうちにバコンッと木の戸を返すような音がして尾形は笑みを深める。やはり刺青人皮は番屋の隠し部屋に保管されていたのだ。

「おっ母…もうそんなもん捨てちまえ。金塊の暗号なんてほんとかどうかもわからんもののために何人死んだか…」
「あんた実の父親にそっくりだよ。野心のかけらもない。お前の父親はいまもどこかでモッコでも背負ってるだろうよ」

女将の手には先ほど取引現場に持ってきていたものとそっくりの木箱が握られている。女将と新平の会話は嫌でも聞こえてきた。曰く、新平と親方には血の繋がりがないらしい。新平の怯むような呼吸が聞こえたその時、ヤン衆と網元の居住区を分ける真ん中のニワと呼ばれる土間で、親方がドッと女将の頭を殴打した。手にはこまざらいを持っている。
カッカッカッ。女将の頭に向かって何度も何度も振り下ろす。こまざらいで頭骨を砕かれ、女将はニワに横たわったままビクビクと痙攣した。

「オヤ…オヤジッ!もういい、もう充分だろっ!」
「誰がオヤジだこの野郎……ずーっと俺を騙してやがったくせに…テメェの頭もこまざらいで砕いて鰊粕に混ぜて出荷してやろうか?」

親方が忌々しげにそう言った。爆発した鬱憤はもう止めることができなかった。親方の言葉に新平が言い返す。番屋いっぱいに声が響き、新平の言葉がどんどんと激化していった。
親方が横たわる女将の側に屈んだのを見て、尾形は梯子まで移動して歩兵銃の照準を親方に合わせる。女将の持っていた拳銃を引き抜いたところでドッとその頭を撃ち抜いた。

「親殺しってのは…巣立ちのための通過儀礼だぜ」

銃口から煙が上がる。緊張からナマエの首元を汗が伝った。
尾形の言葉を頭の中で復唱する。親殺しは巣立ちの通過儀礼。まるで自分がそうであったかのような物言いだ。まさか。
もう一発をいつでも撃ち込めるように尾形が遊底を引く。

「テメェみたいな意気地の無い奴が一番むかつくんだ」

声は怒りを孕んでいた。こんな尾形の声は初めて聞いた。
谷垣を追跡した雪山でも意外なほど大きな声を聞いたが、それとは全く性質が違う。怒りや憤りのような感情を帯びている。

「その刺青人皮はテメェのような男には余る。大人しくそれを差し出せ」
「も、元から俺は興味なんざなかったんだ!こんなもんくれてやる…!」

新平はそう言い、横たわる女将と親方を置き去りにして番屋を立ち去る。尾形は構えていた銃を下ろしナマエに視線をやった。

「さっさと木箱を回収するぞ」
「は、はい…」

尾形に階下へ降りてくるよう指示され、その背を追って板張りの漁夫たまりに降り立った。音や様子から想像はしていたが、日泥夫婦はすでに息絶えている。
尾形が日泥女将に近寄り、遺体の側に転がる木箱を拾い上げその中身を確認する。紐を解いて開ければ、中には正真正銘刺青人皮が収まっていた。

「大当たりだ」

尾形は一度刺青人皮を広げ、紙の写しなどではなく本物の人間の皮であることを確認するかのように検分した。その隣でナマエもじろじろと刺青人皮を観察する。
これが昨日話に聞いた金塊の暗号を記した刺青人皮というものか。確かにやくざ者の体に彫られているようなくりからもんもんとは全く違う。曲線と直線が図形のように組み合わされ、所々に丸で囲われた漢字が書かれている。
人間の皮をまるで動物のそれのようにするなんて想像もしたことがなかったから実感が湧かなかったが、広げてみると確かに人体の全容が見えてくるようにも思えた。

「ここであのジジィたちを待つぞ。煙は見えてんだ。すぐ来るだろ」
「えっ、あのお侍さんたちをですか?」

尾形が漁師たまりの奥に腰を下ろす。先程まで中心部でやり合っていたはずではないのか。その相手をここで待ち構えるなんて、ここで決着をつけようという腹だろうか。いや、そんなことにこだわりがある男には思えない。ひょっとして、その老人たちに何か交渉でも持ちかけるつもりでいるのか。

「体を低くしろ、立っていては煙を吸い込む」

尾形に言われ、ナマエもその隣に腰を下ろした。にわかに外が騒がしくなり、番屋の戸が開く。逆光の中で姿を現したのはあの二人の侍だった。
尾形は箱から取り出していた刺青人皮をヒョイっと頭に乗せ人差し指を立てる。

「どんなもんだい」
「ヤレヤレ…番屋に放火して女将に出させる方法はイチかバチかで考えてはいた。ただひとつ狂えば刺青人皮が燃えてしまう危険な方法だからな」

背の低い方の侍が先に声を発した。
間近で見て思う。ナマエにもわかるほどの鋭利な空気を放っている。きっと名のある侍であったのだろうということは容易に想像がついた。

「馬じゃなく私の頭を撃ち抜くことも出来たはずだ…なにが狙いだ?」
「茨戸まで来たのは刺青の噂を偶然耳にしたからなんだがね。床屋の前であんたらを見てすぐにわかった。俺は情報将校である鶴見中尉の下で動いていたからよく知ってるぜ。ーー土方歳三さん」

空気が凍りつく。尾形は長髪の侍を見つめてそう言った。あの男が土方歳三だというのか。土方歳三といえば悪名高い新撰組の副長である。40年近く前の戊辰戦争で死んだはずではないのか。客の男の一人に戊辰戦争へ参加したという老人がおり、五稜郭での話を何度も聞かされた。その話でも土方歳三は戦死したと聞いていた。

「腕の立つ用心棒はいらねえかい」

尾形の思いがけない言葉にナマエはぎょっと左隣の尾形に視線をやる。
煙がさらに番屋の中を満たしていく。もう時間がない。というのに二人の侍も尾形も、少しも焦る様子は見せなかった。

「名前は?」

土方がゆっくりと口を開いた。尾形がそれを受けて笑みを深める。

「尾形百之助。陸軍第七師団に所属していた」
「ほう、大方その鶴見という中尉を裏切って脱走したのだろう。目的はなんだ」
「金さ。元々あっちとは反りが合わなかったんでね」
「ふ……そういうことにしておいてやろう」

黙ってそのやりとりを見つめていたが、金、という答えにはやはり違和感がある。昨晩だって「さぁな」とはぐらかされてしまった。もっと何か違う理由があってこんな無謀なことをしているのではないのか。
しかしきっと今は真偽などどうでも良いことだ。

「ついて来い」

土方に伴われ、二人はようやく番屋を出た。もう物置から火が燃え移るところで、建物全体がミシミシと不穏な音を立てていた。


二人の侍は、土方歳三と永倉新八といった。道理でえらく存在感を放っていたわけである。
話によれば、土方歳三は函館の一本木関門で捕えられ、長らく樺戸集治監に収容されていたという。そしてその後網走監獄に移送され、四年前、そこを脱獄したのだそうだ。

「えっ…じゃあもしかして土方さんって…」
「ああ。あのジジィも刺青の囚人の一人だ」

土方たちの馬そりで連れてこられた拠点というのは小樽近郊の小さな家であった。永倉の亡くなった親戚の家であり、今はここに潜伏しているという。
ナマエは拠点に入る前に周囲の状況を見にいく、という尾形のあとを追う。

「それから仲間に引き入れてるっていう牛山という男も刺青の囚人だ。用心しろ」
「わかりました」

用心しろと言われても脱獄囚相手にナマエが立てられる対策などないだろうが、そんなことはここで言っていても仕方がない。
拠点にしているというだけあって周囲は静かなものだった。もちろん歩いて行ける距離に小樽の街はあるが、周囲への導線とも少しずれた場所にあるから早々誰かが訪れることもないだろう。

「あんなに必死で街を離れたのに、結局なんだか逆戻りですね」
「なんだ、帰りたくなったか?」
「そんなこと言ってないじゃないですか」

尾形が髪をナデナデと撫でる。まただ。まるでついてきてほしくないようにも思えるほど、こうして試すようなことを言う。確かに山を抜けてすぐのところでは恐ろしさのあまり動揺していたが、あの時にはもう「尾形さんについていきます」と答えたのに。

「しばらくは土方一味と行動する。単独では限界があるからな。こちらの方が合理的だ」
「わかりました」

アイヌの金塊を探しているという話を言葉のままに受け止めるとして、確かに全員分の刺青人皮を一人で集めるというのは相当難しいだろう。信頼できる仲間とまでは言わないが、利害の一致する人間と組んで集めた方が効率がいい。

「…その…腕の傷、どうですか」
「問題ない」
「やっぱり念のため消毒しましょう」

ああ。と尾形が応え、周囲の探索もそこそこに拠点の建物へと戻った。
試すような…まさか。尾形が自分を試してなんになると言うのか。考えすぎだ。ナマエふるふると頭を振った。
入ってすぐのところに永倉の姿を見つけ、ナマエは「あの」と声をかける。

「すみません、お水お借りして良いですか」
「ああ。構わんぞ」

台所の甕に貯められた水を桶に汲み、居間の火鉢を占領しようとしている尾形のもとに向かう。縁側では寝椅子に体を預けた土方がゆったりと新聞を読んでいた。
茨戸で見せたような鋭さはもうなく、本当にただの老人に見える。あまりに見すぎたのか土方と目が合い、ナマエはぺこりと会釈してから尾形のそばに屈んだ。

「腕出せますか?」
「ああ」

尾形は軍衣と立襟シャツを脱ぎ、左腕の患部をナマエに見せる。弾は掠めただけのようで、血は滲んでいるもののこれ以上酷くはならないように見えた。「触りますね」と断ってから手ぬぐいで傷口を拭き取り、薬店から持ち出した脱脂綿にフェノールの消毒液を住み込ませてたぷたぷと傷口に当てていく。怪我なんて日常生活で負う程度のものしかしたことがないからナマエには随分と痛そうに見えるが、尾形は平気な顔をしていた。

「谷垣さんのは…痣になってしまってますね」
「こんなもんは怪我のうちに入らん」

何気なく胸のあたりを見ると、赤黒い痣ができている。これは雪山で谷垣に撃たれた時のものだ。双眼鏡によって命中は免れたが、衝撃を吸収できているわけではなかった。ナマエは消毒した左腕に新しい包帯を巻きつけていく。
包帯を巻き終え尾形が脱いだシャツと軍衣を元に戻していると、少し離れた場所に立っていた永倉が口を開いた。

「その娘は何者だ」
「…何者というほどの女じゃねぇよ。ただの薬問屋の奉公人だ」

尾形がそう答える。明らかに危険な旅だ。それに足手纏いになりかねない女を同行させているのだから、こう尋ねられてしまっても仕方がなかった。

「ここからは危険な博打だ。何があるかわからんぞ」
「構わん。こいつのことは俺が面倒を見る。危うい状況になればアンタらはこいつのことを放って逃げればいい」

じっと沈黙が流れる。永倉が尾形を見た後にナマエを見て、ナマエは尾形の言う通りで構わない、ということを伝えるべく小さく頷いた。永倉はそれにため息をつく。

「馬鹿者、そんなことをするわけがないだろう。無茶はさせるなよ」

ナマエはホッと胸を撫で下ろした。とりあえずはナマエも共に行動することが許されたらしい。放つ雰囲気は鋭利ではあったが、言葉は優しかったように思う。
話が終わったかと思いきや、今度は背後でずっと黙っていた土方が声を押し殺すように「くくく」と笑った。

「安心しなさい、お嬢さん。永倉は女には優しいたタチだからな」
「は、はぁ…」
「しかし、道中が危険であることに変わりはない。自分の身は自分で守るように」

土方の言葉にこくりと頷く。ただでさえ尾形にとっても足手纏いのようになっているのだ。ゆきずりで行動を共にすることになった土方一行に迷惑をかけるわけにはいかない。戦力的に役に立てないのは百も承知だが、何かここで自分にできることはないか、ナマエはぎゅっと拳を握りしめた。



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