608号室


「…ひと部屋しか空いてないけど…仕方ないよね?」

そう彼女が悪戯っぽく笑った。高専三年の秋。一緒に任務に行った先で思いのほか時間を取られてしまい、日帰りのはずが現地で宿泊することになった。観光地らしい観光地ではなかったが、それが逆に災いした。駅前のホテルはほとんどが満室で、どうやら紅葉シーズンだというのがその一因でもあるようだった。

「……野宿します」
「何言ってるの。夜は冷えるよ」

ナマエはフロントでそのまま手続きをして、あれよあれよという間にダブルルームで一緒に宿泊をすることになってしまった。周囲の目もあって騒ぎ立てるのも忍びなく、七海は引きずられるようにして六階の608と書かれた扉を潜る。清掃もベッドメイクも行き届いてる部屋はすがすがしいが、今はそれどころじゃない。

「わ、結構広いね」
「……ミョウジ、やっぱり私は───」
「これだけ広かったら一緒に寝ても大丈夫だって」
「なッ…!」

ナマエからあっけらかんと言われた言葉で顔に血が上る。そりゃあ宿泊をするのだから眠ることに間違いはないが、どうしてこうも平気でそんなことを言ってしまえるのか。確かにホテルが一部屋しか空いていないという事態に嫌だ嫌だと駄々をこねるのは効率的ではない。
けれど、ナマエは女で、七海は男だ。しかも恋人でもなんでもないし、もちろん家族というわけでもない。同期と称する以外にない関係であるというのに、どうしてそこまで平気な顔をしていられるんだ。

「任務で汚れてるしお風呂入ろうよ。七海、先どーぞ」
「いえ、私は後で大丈夫です」
「えっ、私髪乾かすのとか結構時間かかるよ?」
「構いません」

そう言って七海はナマエをシャワールームに押し込む。がたがたと物音がするのを聞きながら、壁にずるずると背を預けて座り込んだ。「はぁぁぁぁ」と腹の底から息を吐き出す。目の前には綺麗にメイキングされたダブルベッドが鎮座していた。
ここで一緒に寝ろだと?冗談じゃない。

「チッ……」

七海は思わず舌を打つ。彼女はまるでいつも通りで、それが「意識する気なんてさらさらありません」とでも物語っているようで腹立たしい。普通もっと照れたり嫌がったりしないのか。いや、嫌がられるのはダメージが大きいけれど。
簡単に言ってしまうと、七海はナマエのことを異性として意識していた。任務先の不測の事態で公私混同なんて、とは思うけれど、この状況でするなというほうが難しい。ざぁざぁとシャワーの音が漏れ聞こえる。しかも鼻歌のオマケ付きで。のん気が過ぎる。

「七海、上がったよ」

そう声がかけられるが、悶々とあれこれ考えている七海には届かなかった。ナマエは備え付けられているオーバーサイズの寝巻を着ており、七海の反応がないものだからひょいっとその目の前に屈む。そして覗き込んでまた名前を呼んだ。

「なーなーみ?」
「うわッ!」

突如意識が戻されたと思えば目の前にナマエがいる、という状況に七海が思わず驚いて身を引くと、ナマエはくすくす笑って「うわってなに」と言った。
オーバーサイズの寝巻の首元はボタンをきっちり留めていても緩くて、白い鎖骨がちらちら覗いている。はっきり言って目に毒だ。

「シャワー先ありがと。七海も入ってきなよ。埃っぽくて気持ち悪いでしょ」

きっと自分がどれだけ危うい姿になっているかも分かっていないだろうナマエは事も無げにそう立ち上がり「私ベッドの奥の方使っていい?」なんてやはりのん気な様子である。少し乾ききらない髪がホテルのルームライトの暖色に照らされ、もうこれ以上見ていたらどうにかなってしまいそうな気分になった。

「シャワーいただきます!」

律儀にそう声をかけてから七海はバタンとシャワールームに閉じこもる。ようやく一人の空間に一息つけるかと思いきや、彼女がシャワーを使った温度も痕跡もありありと感じられ、誰に見られているわけでもないというのに少しだけ前かがみになってからコックを捻ったのだった。


ついでに歯磨きまでを済ませてシャワーから出ると、ナマエがベッドの隅に腰かけてテレビを眺めていた。見たこともない番組だけれど、これが単に知らない番組なのかローカル番組なのかはよくわからない。
ナマエは七海が出てきたことに気付いてひょいっと振り返る。化粧っ気が普段から強いというわけでもないけれど、風呂上がりの彼女は幼く見える。

「あ、七海もう出たんだ。じゃあ私も歯磨きしてこよ」

ナマエが立ち上がり、七海のそばをすり抜けて洗面台に向かった。当たり前のことだけれど備え付けのシャンプーは自分と同じ香りで、心臓を高鳴らせるのには充分すぎた。
ナマエがアメニティの歯ブラシで歯磨きをしている間、七海はダブルベッドを意味もなく睨みつける。寝るだけ。そうだ、寝るだけだ。
任務でたまたま帰れなくなって、たまたま部屋が一部屋しかなくて、合理的だから同じ部屋に宿泊するだけなのだ。そう、なにを意識することがある。
七海はそうして心の中で饒舌に言い訳をし、うんうんと自分を納得させる。そうだ、緊張しているのは考えすぎだからだ。不可抗力。彼女に他意はないし、自分に下心もない。

「七海?」
「ワッ…!」

いつの間にか歯磨きを終えたナマエがすぐ背後に立っていた。彼女が風呂から出たときのようにまた情けなく声を上げてしまって、ナマエには「二回目」と笑われた。

「明日朝イチで補助監督さん迎えに来てくれるって」
「そうですか、わかりました」
「もうちょっと起きてたいけど…やっぱ眠いや」

ふああ、とナマエがあくびをした。それからごそごそと自分のスペースとして振り分けられたベッドの奥側に移動して、掛け布団をぺろりとめくる。そして棒立ちになったまま一向に動く様子のない七海に向かって声をかけた。

「七海、まだ寝ない?」
「いえ、私はソファで寝ます」
「えっ、身体に悪いよ。せっかくベッドあるのに。七海の身長じゃはみ出すでしょ」

彼女の言う通りだ。一応二人掛けらしきソファではあるが、比較的長身の部類の七海は確実に手足が収まらない。そもそも寝る前提で備え付けられていないのだから当然である。

「あ、もしかしてひとりじゃないと寝れないタイプ?」
「いや、そういうことでなく……」
「大丈夫大丈夫。端っこと端っこで寝れば気にならないって」

ナマエがベッドをポンポンと叩いた。こともなげに笑うナマエを前に、自分だけが猛烈に意識していることがもはや気持ち悪いことのように思え、七海は彼女の言う通りベッドの隅に寝転がる。反対側にナマエが寝て、確かに想像していたよりは同じベッドに横たわっているという感覚は薄かった。ナマエが手元のスイッチを操作して、部屋の明かりが落とされる。

「おやすみ」
「…おやすみなさい」

真っ暗な部屋の中でじっと目を閉じていると、疲れと緊張の限界が来たのか思いのほか睡魔はちゃんとやってきた。それに従って意識を手放そうとした瞬間、ベッドがゆわんと揺れて「すぅー」と寝息が聞こえてくる。そのせいでやっと意識の外に追い出すことが出来ていた「ナマエが隣にいる」ということを思い出してしまった。

「ん……んぅ……」

こっそりと起き上がって彼女の方を見る。いくつか身じろぎをして、寝言だか寝息だかわからないものをもやもやと漏らした。

「………ソファで寝よう」

こんな状態で寝られるか。なるべくベッドを軋ませないように抜け出し、窮屈なソファの上になんとか横になる。制服の上着を申し訳程度にかけてみたけれど、埃っぽさは否めない。それでも意中の女性と同じベッドで寝るなんて苦行よりは、幾分もマシのように思えた。


と、まぁ、ここまでが長い長い前置きである。
あれから呪術界を辞めたり一般企業に就職したり、それで結局復帰したりといくつかの環境の変化を経て、七海は現在一級術師に返り咲き、あちこち任務に奔走していた。労働というものはクソであるが、今日は少しだけ楽しいと思える。何故なら同行する呪術師がナマエだったからだ。

「はぁ、やば。七海の実力でこんだけかかるなんて……他の呪術師だったら朝までかかってたよ」
「朝までかかったほうが逆に良かったんじゃないですか」
「馬鹿言わないでよ」

呪霊の発生条件が不明という状態で投入された今回の任務で、最も厄介だったのは発生してから立ち消えるまでの時間が短いことと再発生まで一定の時間を要するという二件の時間制限があることだった。
それらを見極めて祓除をしたが、現在時刻は午後11時。すでに終電はなくなっている。朝までかかったほうが、と言った理由はここだった。

「あ、そこのビジネスホテルまだ電気ついてる」
「行ってみましょう」

呪術師二名の投入であったから、補助監督の同行が削減された。現場から最寄り駅まではタクシーで来たけれど、さすがにここから高専までタクシーでは戻れない。そういうわけでもう現地に泊まって翌朝帰ろうと、二人はホテルを探していた。
駅前にぽつんと電気のついているホテルをやっと見つけ、まるで砂漠に立ち現れたオアシスかのような希望を抱きながら二人で自動ドアを潜る。少し古い匂いが鼻をつく。

「すみません、二人なんですが、今日空いてますか」

七海がフロントのホテルマンにそう言うと、ホテルマンは手元の帳簿をいくつか確認する。ホテルマンといっても、随分な歳と思われる男性の老人である。

「あぁ、えっとねぇ、ダブルルームなら空いてますよ」
「二つ空いてます?」
「いーやちょっとねぇ、他の部屋は空調が壊れててねぇ」

正直、地方のビジネスホテルなのだからどうにかなると思っていた。タイミングが悪い。ナマエを空調の完備されている部屋に泊まらせ、自分は壊れている部屋でも構わないからと交渉するか、それとも。七海が少しだけ黙り、じっとナマエを見下ろした。

「…ひと部屋しか空いてないですが…仕方ないですよね?」
「えっ…!」

七海が口角を少し上げる。あの時とは決定的に違うことがある。七海はあれから数年間、ずっとナマエを口説き続けてきたのだ。
あの頃は自分もまだ幼くてただただタジタジになるしか出来なかったけれど、今はそうじゃない。七海はナマエの返事を待つことなくホテルマンに「その部屋でお願いします」と言って手続きを進めてしまう。

「これだけ広かったら一緒に寝ても大丈夫だって、ミョウジ言いましたよね」
「ね、根に持ってる……ていうか、七海あの頃からどんだけ大きくなったと思ってんの」
「そうですね。ですから多少、ほんの少し、触れてしまったらすみません」

ホテルマンがルームキーを取り出す。レトロなキーホルダーは細長い四角のアクリルで、ホテルの名前とルームナンバーが記載されていた。ルームナンバーは奇しくも608号室である。
ナマエは一連の七海の独断を嫌がる素振りなんてひとつも見せなかった。だからそう言うことだと解釈しているし、実際そういうことなのだと間違いのない手ごたえがある。
さてあの日の意趣返しと行こう。七海が悪戯っぽく笑った。


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