夏は言い訳


夏の暑さが尋常じゃない。蝉は洪水のように鳴き、テレビでは連日どの地域がどれほどの暑さだということを氷の溶ける速さなどで可視化して表現しようとしていた。
同期ほど暑がりだと思ったことはないが、もはやこれは暑がりとかどうとかの次元を超えていると思う。任務のない午後、伏黒は寮室に閉じこもり、クーラーを適度に効かせた中で数学の課題に向き合っていた。
呪術高専と言っても、こうした一般科目がなくなるわけではない。もちろん普通科のそれに比べれば及ばないながらも、当然のようにあれこれと座学の時間は設けられている。

「ふーしーぐーろー」

不意に、そんな声と共に扉がドンドンドンと叩かれた。この声と無遠慮さに誰だかということはすぐに分かった。放っておいてもどうせ帰るつもりはないだろうし、近所迷惑になる前に、と伏黒は腰を上げて扉の方へ向かった。

「ふーしーぐーろー」
「うるせぇ」
「あ、やっぱりいた。おつおつ」

扉の前に立っているのは予想通り同期のミョウジナマエ。Tシャツとショートパンツの無防備な恰好で、スナック菓子と炭酸飲料、それからアイスキャンディーの袋をふたつ抱えている。

「……何の用だよ」
「いーれてっ!」
「何で」
「私の部屋、エアコン壊れちゃったの」

へらりと笑ってナマエはそう言った。それから「これ献上品ね」とアイスキャンディーの袋の片方を差し出す。まさか他はすべて自分用か。ナマエが「暑いねぇ」とこぼし、首筋をつうっと一筋の汗が流れる。伏黒は思わず顔を顰め、締め出してやろうとドアノブを引っ張るが、ナマエがその間に身体を割り込ませてそれは叶わなかった。

「いててて!伏黒!挟まってるって!!」
「……はぁ」

全身で自分の現状に抗議するあまりにじたばたと手足を動かし、それによって何か甘い香りが漂ってきた。伏黒は大きくため息をついたあと、仕方ないとばかりにドアノブを引っ張る力を弱める。

「はー痛かった。勘弁してよね」

突然訪問してきたくせにまるで被害者のような口ぶりでそう言いながら、ナマエはトコトコと勝手知ったる様子で伏黒の部屋に侵入していく。それからローテーブルの前まで来ると、そこに持っていた飲み物と菓子類を置いてぐぐぐっと伸びをした。

「んんんっ!涼しー!」
「まぁ、エアコンつけてるからな」
「いいねぇ。夏はクーラーに限るなぁ」

我が物顔でぽすんと腰を下ろすと、ナマエはアイスの袋をピリッと破って中からそれを取り出す。どことなくひんやりとした冷気がアイスの周りを流れている。もう突っ立っていても仕方がない。観念した伏黒はナマエの隣に腰を下ろした。

「ねぇ伏黒、設定温度何度?」
「27度」
「嘘でしょ、男子の設定温度じゃなくない?」

なんだよ、男子の設定温度って、と言ってやろうとしたが、ナマエはもう目の前のアイスに夢中である。伏黒も献上品と称して渡されたそれの封を切って噛り付く。口の中にソーダ味が広がってどんどん口内を冷やしていく。

「あー、美味しい」
「ん」
「伏黒はソーダ派?」
「まぁ…変わり種よりはソーダだな」
「安定だなぁ」

ナマエがまたへらりと笑った。まったく気の抜けた女だ。彼女はそのままテレビに向かい、好き勝手にチャンネルをポチポチといじっていく。べつに構わないけれど、これではまるで自分の部屋である。

「あ、これ再放送してるじゃん」
「何だこれ」
「うちらが中学の時やってたドラマ」

好きだったんだよねぇ。と、今度はテレビ画面に夢中だ。ちろりと隣を見れば、まだ引ききらない汗がまたつうっと首筋を流れていく。ごくりと生唾を飲み込んだ。ナマエは伏黒の視線にも気付かず、この俳優はこの時の方がかっこよかっただとか、あのアイドルはいま連ドラに出てるだとか、大して伏黒には興味の持てなさそうな話題を続けた。

「ね、どう思う?」
「は?」
「ちょっと、聞いてなかったの?」

不意にそうして投げかけられて、まったく頭が回っていなかったことが露呈してしまった。ナマエは少しむすりとした顔になり、それから「だから、あのアイドル可愛いと思う?って!」と質問の内容を繰り返す。

「いや…別に何とも…」
「うっそ、国民的美少女だよ?あの顔面偏差値で何ともとか伏黒面食い過ぎじゃない?」

ナマエが「ドン引き」とでも言ったふうを装ってそうお道化る。もちろん本気じゃないと分かってはいるが、そのアイドルの顔が好みではないからというだけで異常な面食いのようであると笑われるのは遺憾だ。

「まぁ、毎日鏡見てりゃそうもなるかぁ」
「どういう意味だよ」
「ふふ、べつに?」

ナマエは不満そうな顔を引っ込め、またニコニコと楽し気にテレビを見ている。しばらくそうしていると、彼女が自分の肩をするするとさすった。何だろうと見下ろせば、ナマエが小さく身震いをしている。アイスを食べて身体が冷えたというところだろうか。
伏黒はすぐそばに畳んであるパーカーを手に取ると、ナマエの肩にふわりとかけた。ナマエが驚いて伏黒を見上げる。

「冷えるなら着とけ」
「う…うん…ありがと…」

ナマエはそう言うなり顔を逸らし、両手を袖に隠して自分の鼻先まで持ってくると、すんすん匂いを嗅いだ。そのしぐさにカッと羞恥心が湧き上がった。

「へへ…伏黒のにおいがする…」
「なっ!おまっ…!何でそういう…!!」

無意識なのかそうでないのか知らないが、そんな心臓に悪いしぐさはやめてくれ。ただ良かれと思って貸したパーカーがこんな武器になるとは思わなかった。ナマエは伏黒の心中など露知らず、もう一度パーカーに埋もれるように首をすくめた。


ミョウジナマエという少女に振り回されてもう一年近くになる。彼女は中学時代に高専で知り合った呪術師だった。驚くほど強い、というわけでもないが、特筆すべきほど弱いわけでもない。いわゆる凡庸な呪術師の一人に過ぎない。
伏黒は中学の時分でも任務を請け負っていて、ナマエも似たようなものだった。もっとも、彼女の場合は等級が低いから、別の呪術師の同行という形であったが。
何となく出会い、何となく一緒に過ごす時間が増えた。天真爛漫を絵に描いたような人柄は眩しく、分け隔てない態度と他人に見せる柔らかな笑顔にいつの間にか目が離せなくなった。つまるところ、伏黒は彼女のことが好きだった。

「ふーしーぐーろー」

この猛暑で、エアコンの修理業者の手配が遅れるらしい。他の空き部屋に移ればいいのに、どうしてだかナマエはそれもせず自分の部屋で扇風機を回して寝泊りをしている。そして暑さの厳しい日中には、飲み物と食べ物を持ち込んで伏黒の部屋に入り浸っていた。

「はぁ、クーラーさいこう……」

ナマエは今日も今日とてナマエは伏黒の部屋に入り浸り、その冷風を享受していた。連日の猛暑に参るのはわかるが、それならどうして空き部屋に移らないのか。移動が面倒だとか今の部屋でないと眠れないだとか何かそういう事情はあるかもしれないが、それにしたってどうして毎回自分の部屋に来るのだろうか。しかもそんな薄着で。

「お前、エアコン壊れてるからって毎度毎度…なんで俺の部屋に来るんだよ。釘崎とか真希さんとかいるだろ」

伏黒はため息交じりにそう言って、ついに持ち込まれたナマエのBlu-rayプレイヤーから流れる恋愛映画を興味もないくせに眺める。これは知らない映画だった。「ミョウジは恋愛映画が好きなのか」などとぼんやり思っていると、不意に隣から拳でこんっと小突かれる。勿論拳はナマエのものだ。ナマエは視線を斜め下に落とし、クッションを抱えながらもごもごと唇を動かした。

「ふ…伏黒に会える…から…」
「は?」
「伏黒に!会う口実に!なるでしょ!」

ここまで言わせんな!ばか!と吐き捨てる勢いで言って、ナマエはそのままクッションに顔を突っ伏した。覗く耳は真っ赤になっている。
伏黒はあんまりの予想外の返答に言葉を失って、どうにか高速で脳を回し最適な言葉を探す。しかしこんな時に何と言ったらいいかなんてさっぱりわかるはずがない。伏黒がそうして黙している間に痺れを切らしたナマエがクッションから勢いよく顔を上げた。

「もういい!棘先輩のとこ行く!」

ナマエが真っ赤な顔のままパッと立ち上がる。虎杖ではなくわざわざ先輩の狗巻だというのが妙にリアルでざわついた。伏黒は慌ててナマエの手首を掴んで引き止める。
ナマエが伏黒の行動に「……なに」と不服そうに尋ね、伏黒は「や、その…」とまた言葉を探した。引き止めなければいけないのは間違いなくて、なのに口実が見つからない。口実というものはこんなにも探すのが難しいものらしい。

「アイス…買ってある、から……」

他の部屋になんて行かないでくれ、なんて。結局もう想像の何倍も格好悪い言葉しか浮かんでこなくて嫌気がさした。例えば今流れっぱなしになっている恋愛映画なら、きっともっと気の利いた言葉で彼女を喜ばせることが出来たのだろう。
ナマエはきゅっと引き結んだ唇のまま伏黒を見つめ、それから伏黒のTシャツの裾を少しだけ摘まむ。

「……冷えちゃうからパーカー貸して」

冷えるならわざわざアイスなんか食べなくていい。暑い部屋が嫌なのならさっさと空き部屋に移動すればいい。そんな分かりきったことばかりを苦しい言い訳にして、今日もクーラーの効いた部屋にふたりで閉じこもる。お互い真っ赤になった顔をその冷風がさましてくれるかどうかは、今のところなんとも言えないようだ。
外では今日も、刺すような日の光の下でセミが鳴いていた。


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