いやいやいや


恋愛というものに生まれてこの方さほど興味を持ってこなかった僕が、ここ一年ほどある女の子のことをどうしようもなく気にかけていた。
ミョウジナマエ。元呪術師志望の補助監督。その有能さは伊地知のお墨付き。まぁあいつは他人を悪く言うことなんてほとんどないけれど、それにしてもナマエのことはすごく買っているのだとよくわかる。

「五条さん、この日学生の送迎があるんですが、私がこちらに回って五条さんの送迎をミョウジさんに頼んでも問題ないですか?」
「オッケー。ナマエには僕のマンションに午前8時でって伝えといて」
「わかりました」

降って湧いた貴重な機会に僕はなるべく平常心を装ってみたけれど、もう正直頭の中は割とお祭り騒ぎである。僕の送迎の類は伊地知にやらせることが多い。勝手の分かってない補助監督に来られるのも面倒だからだ。そうして発生した弊害が、送迎でナマエが僕を担当しないという点だった。むしろこれのみがデメリットといっても過言ではない。


当日、僕は意気揚々とナマエの迎えを待ち、見慣れたセダンに乗り込んでウキウキ呪霊討伐デートが始まる。他の補助監督の運転なら後部座席に座るところをあえて助手席に座れば、ナマエがびっくりした顔をして「助手席で大丈夫ですか?」と聞いてきた。

「モーマンタイ。今日は助手席の気分だから」
「そうですか。じゃあ目的地に出発しますね」

ナマエが緩やかにアクセルを踏む。ナマエは運転の腕もいいから、乗り心地だって伊地知の運転に勝るとも劣らない。
僕はウィンドウフレームに肘を引っ掛け、真剣な顔で運転するナマエを見つめた。すると、信号停止で僕の視線に気が付いたナマエがきょとんとした視線を投げ返す。

「あの…どうかしました?」
「いーやなんにも」

恋をしているっていうのは心地がいいものだ。まず好きな子に会えただけで得した気分になるし、何でもない時間でも華やいでいる気がする。どうして僕はこんなに楽しいことにいままで興味を持って生きてこなかったのだろう、と、普段そうそうしない後悔を覚えてしまう程度には僕はナマエに夢中だった。

「今回はいわくの呪物収集家と思しき男との交渉になります。噂によると、盗んだ特級呪具を隠し持っているという話で五条さんに足を運んでいただくに至りましたが…何かこちらの方からバックアップしましょうか?」
「平気平気。サッと行ってちゃちゃっと回収してくるから、終わったらランチ行こ」
「え、あ、は…はい…」

ナマエとのランチが待っていると思えば千人力というやつで、僕は呪物収集家とかいう男の家に到着次第ちゃっと屋敷に踏み込んでビシバシを呪具を押収し、ちょこっとキツめにお灸をすえてものの一時間足らずで任務を終わらせた。

「お待たせ。じゃあランチ行こ」
「えっ!容疑者は…」
「これ。眠らせてぐるぐる巻きにしてるから、トランクに突っ込んどいていい?」
「駄目ですよ!」

一刻も早くランチに行きたくて男をトランクに詰め込んでランチを経由してから高専に戻ろうとしたんだけど、ナマエの猛反対であえなく頓挫した。結局拘束した男と押収した呪具を高専に持ち帰り、それからやっとランチに出ることが出来た。


ナマエを誘ったランチのレストランは広尾の一画にある店で、敷居も低いからドレスコードもない。

「…五条さん、こういうお店は仕事着以外で来たかったです…」
「え、べつにドレスコードとかないよ?」
「いや、そういう意味でなく…」
「じゃあ今度私服のときに連れてきてあげる」
「いやいや、そういうことでもないんですが…」

これはデートに誘う絶好の口実だ。ランチにも誘えたし、次の約束も取り付けられそうだし、前途洋々とはこのことだろう。僕は史上最高に浮かれながらランチコースを注文した。


デザートまでしっかりとコースを楽しみ、目の前でティーカップを傾けているナマエをにこにこと見つめる。ランチの間中ずっとナマエを眺めていられるなんて贅沢な時間だった。贅沢って言葉久しぶりに使った気がする。

「ナマエ、美味しかった?」
「は、はい…とても…」
「そう。なによりだよ」

彼女の降ろされた髪の隙間から赤い痣のようなものが垣間見えた。まるでキスマークのようなそれである。しかしこんなことで僕は焦らない。何故ならナマエに彼氏がいないことは調査済みだからだ。これは典型的な「虫刺されですよー」のパターンに違いない。
ここは逆にキスマークのていで話を振って、そんなわけないじゃないですか、という方向に話題を持って行こう。僕はそう算段して意気揚々と口を開いた。

「ナマエ、首にアトついてるけど」
「えっ……えっ、うそ!」

彼女の反応が予定と全く違って脳みそが一瞬固まる。ナマエは指摘された首筋をバッと庇うように手のひらで覆い、顔を真っ赤にして狼狽えた。いや、いやいやいや、これじゃまるで本当にキスマークのようじゃないか。いや、いやいやいやいや。

「……まじ?」
「……忘れてください…」

まさに消え入りそうな声というのはこのことかという調子でそう言って、ナマエは気まずそうに僕から視線を逸らした。楽しんだはずのランチの味なんか、覚えているわけがなかった。


そんな出来事があってから三日。僕は何かしらの呪いを発生させそうな負のオーラを纏い、硝子の研究室で項垂れた。

「硝子、これどう思う?」
「五条、お前セクハラで訴えられても知らないぞ」
「これ職場のあれこれとしてじゃないから、いち恋するグッドルッキングガイのお悩み相談だって」

こう言ったところで硝子がまともに取り合ってくれるとは期待していないが、吐き出さずにいるよりはマシだと思う。内臓が出ない程度のぎりぎりまでため息を吐き出し、ナマエの真っ赤になった顔を思い浮かべた。そんな顔させてんの誰なんだっつー話。

「恋するグッドルッキングガイが珍しく弱気じゃないか」
「むしろ僕これまで本当の恋とかそういうのしたことないから。ナマエが初恋だから」
「少女漫画みたいなことを言うな気色悪い。三十路手前の男の初恋とか重いにも程がある」
「君だけだよとか君が初めてだからとか、女の子ってそういうの好きでしょ?」
「女子高生と二十代半ばの女の感覚を同じだと思うな」

思いのほか硝子はまだ話に乗ってくれているほうである。もっと鮮やかに無視されるかと思ってた。いやいや、硝子と仲良くお喋りしても問題は解決しないんだよ。

「で、どう思う?」
「私は現場を見てないんだ。その反応がどうとか分かるわけないだろ」

それは確かにそうかもしれないが、ここは嘘でも「きっと虫刺されじゃないか」とか「お前のみ間違いだろ」とかいうところじゃないのか。いやいや、硝子にそんな忖度をする神経があるわけがない。

「そもそもお前浮かれすぎだったんだ。恋は楽しいものだよとか言い出した時は吐くかと思ったよ」
「万年日照りの硝子には分からないかもしれないけど、恋ってのは心を潤してくれる最高の栄養なんだよ?」
「どこぞの胡散臭いライトエッセイみたいなこと言うな気持ち悪い」

まぁ確かに、浮かれていたという自覚はある。でも楽しかったんだししょうがなくない?胡散臭いライトエッセイは酷くない?読んだことないけど。

「その広尾の店って、お前まさかハイクラスなところ連れてったんじゃないだろうな」
「ハイクラスでもないよ。ドレスコードもないし」
「お前のハイクラスじゃないは信用ならん。どの店?」

僕は硝子に要求され、ぽちぽちと店の名前を検索してスマホの画面を見せる。すると硝子が呆れたようにため息をついた。

「確かにドレスコードはないが、絶対仕事着では行きたくないクラスの店だよ」
「うん、ナマエも言ってた。だから今度は私服のときに連れて行ってあげるよって」
「いや五条、お前致命的にすれ違ってるな」

硝子がもう一度大きくため息をつく。そもそもそんなこと気にするなら貸し切ってあげればいいんじゃない?そうしたら他の客がいないわけだし、他人の目なんて気にならないだろうし。これは妙案かもしれない。

「ていうか、恋愛相談なら同性にしろ。伊地知でも七海でもたくさんいるじゃないか。特に七海なんか適任だろ」
「わかってないなぁ、硝子。伊地知とか七海とか論外だから。ナマエの首にキスマークがあったかもしれないなんて話したらあいつらムッツリだから勝手にナマエのあんな姿やこんな姿想像するに決まってるから」

びしっと指をさして言い放てば、硝子が「やかましい」と言いながら手に持っていたバインダーでばちんと叩く。もちろん無限で届くはずはないが、空気を読んで同じタイミングで叩かれたように指を降ろした。

「五条、お前だって相当ムッツリだぞ」
「はぁ?僕がムッツリなわけないでしょ。陰湿な連中と一緒にしないで欲しいね」
「惚れた女に告白も出来ずに勝手にあれこれ妄想してるんだから、充分ムッツリだよ」

その言い分は大変遺憾である。女の子って告白してくるもんであってこっちから告白するもんじゃないだろ。放っておいたって声かけてくるし、僕が声かけなきゃいけないことなんて一度もなかった。だからちょっと慣れてなくてまごついてるだけで、その気になればこんなの余裕で────。

「なぁ、ミョウジ?」
「ヒョワッ!?」

僕は素っ頓狂な声を上げながら、硝子の視線の先を見る。すると、居心地の悪そうに視線を泳がせるナマエと目が合った。いや、いやいやいや、なんでここにいんの。ていうかいつからここにいたの。
狼狽える僕の背中をぐいぐいと硝子が押し、僕は成すすべもなくナマエとともに廊下に放り出されてしまった。くそ、硝子、あとで覚えとけ。

「聞いてた…?」
「え、えっと…すみません…家入さんから書類受け取る予定で、あの、決して盗み聞きするつもりでは…」
「どこからどこまで?」
「惚れた女に告白も…っていうところから…」

所在なさげに胸の前でナマエが両手を組む。硝子からなんの書類を受け取るつもりだったのか知らないが、もうそんなものは関係ない。もうここは腹を括るしかないのか。硝子に全力でお膳立てされた流れで、というのは途轍もなく格好悪い気がするが、告白は受ける専門である僕に、ここで言う以外にどうすればいいかなんて思いつかない。
僕がすっと息を吸った瞬間だった。ナマエが僕より先に口火を切る。

「あ、あの、誰にも口外しませんので…」
「は?」
「で、ですから、あれこれとか…その五条さんがムッツリとか…」

いや、いやいやいや。そこじゃない。そうか、これ言い回し的に絶対僕の好きな相手がナマエだって気付いてないじゃん。これはそれこそここで攻めないと絶対あとからこじれる。流石に人間の心がわからないとなじられる僕でもわかる。

「ナマエの話してたんだけど」

僕がそう言うと、ナマエはきょとんと首をかしげて「私の話ですか?」と不思議そうに言った。本当にまさか相手が自分だなんて想像もしていないらしい。

「そ。この前首に痣あるの指摘したら焦ってたから、男でも出来たのかって」

思いのほか拗ねたような声が出てしまった。僕が拗ねていい道理がないことは分かってはいるが、出てしまったものは仕方がない。ナマエはすこし考えてからハッとして焦りだした。

「ち、違います!これはその……家のベランダでビール飲んで寝ちゃったんです…そのとき蚊に刺されたみたいで…」

ナマエは首筋をきゅっと押さえてもごもごとそう言った。なんだよ、結局虫刺されなのか。肩透かしを食らったようなホッとしたような複雑な気分だ。もうなんか気が抜けてしまって、僕は「虫刺されのわりに焦ってたじゃん」と、どうしようもないことを付け加えた。

「だってベランダでビール飲んで寝落ちって恥ずかしすぎて…」
「あんなに顔真っ赤にして?」
「だ、誰だって好きな人にだらしない女だとは思われたくないですよっ!」

ナマエがあの日のように顔を真っ赤にした。好きな人。好きな人?

「好きな人って僕の事?」
「えっ…あっ!」

まさに「言ってしまった」と顔に書いてある。先ほどまでの脱力感はどこへやら。やる気がみるみる漲って、僕は口角をゆるっゆるに緩めたままナマエの顔を覗き込んだ。ナマエは必死に目が合わないようにと画策しているようだが、最終的に頬をぐっと掴んで逃げ場をなくせば、ようやく観念したナマエがおずおずと視線を合わせた。

「ナマエ、聞いてほしいことがあるんだけど」

いやいやいや、お友達からお願いしますとか、そういうのはナシね。


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