嘘っぱち


そのひとはいつも、何の前触れもなく私の前に姿を現す。
夏の暑い日、単身者用の1DKの小さいアパートの一室。廊下だかキッチンだか最早よくわからない細長い場所に立ち、私は鍋を見張っていた。吹きこぼれないように慎重に。大きめの鍋で茹でればいいなんて考えもするけれど、学生のひとり暮らしである私の家にそんな大きな鍋は装備されていない。

「ナマエ、何か手伝うことはあるかい?」
「いえ、もう出来ますよ」

彼は私の背後に立ち、煮え立つ鍋の中を覗き込む。束ねるのも面倒になっている髪が長いまま彼の首筋を落ちていく。長いけれど、よく手入れをされているというわけでもない髪は、乾燥してパサついているように見えた。
私はタイマーがピピピと鳴るのを確認し、火を止めると中身をお湯ごとシンクに用意したざるの中に流し込む。すると、湯気の中からつやつやした蕎麦が姿を現した。

「すごいな。手作りに見えないよ」
「そりゃあ、毎週のように打っていればこのくらいにはなれますよ」

私は得意げになってそう言った。本当にこれは言葉の通りで、私は毎週蕎麦を打つのが趣味のひとつになっていた。それもこれも、彼の好物が蕎麦だからということ以外に理由はない。二十歳になろうという女が一人で毎週蕎麦を打っているなんてシュールな絵面も、こういう理由が付けば多少は可愛くなるだろう。
蕎麦にざばざばと冷たい水を流し込み、最後は氷で締める。それから適度に水を切って、平たい皿に盛った。

「はい。お皿持って行ってください」

私はそのお皿を彼に渡すと、そのまま二人分の皿を持って、アパートに唯一あるローテーブルの方へ運んで行った。私はツユを用意してその後ろを追う。クーラーの効いた部屋は快適で心地良い。これが今日の昼食だ。
背の高い彼は少し窮屈そうにローテーブルの前に座り、そうしているとまるでどこにでもいる、ありふれた男に見えるのだから不思議だ。

「いただきます」
「召し上がれ」

二人で手を合わせる。こうして一緒にご飯を食べるのは三ヵ月ぶりのことだった。
私と彼の関係に名前はついていない。


私が彼、傑さんと出会ったのは三年くらい前の事だった。
当時私はまだ高校生で、丁度受験生だったから塾に通い詰めていて、その日も夜遅くまで塾に居残りをして苦手科目の勉強に勤しんでいた。

「あ、そうだ…今日自力で帰んなきゃいけないんだった…」

駅から自宅までそこそこ距離があることもあって、普段は10時を回ると母が塾か最寄り駅まで車で迎えに来てくれることが多いのだけど、その日は職場の懇親会があるからと自力で帰宅するように言われていた。
いつだって迎えに来てもらえるわけでもないし、もう甘えてばかりもいられないし、こうしてひとりで帰ることも時々ある。この日誤算だったのは、それをすっかり忘れていて、朝自転車を使わずに徒歩で来てしまっていたことだ。
私は最寄り駅についたことを知らせるアナウンスを聞きながら、この重いスクールバッグを持って歩いて帰るのはちょっと面倒だな、と考えていた。とはいえ帰らないわけにはいかない。電車を降りて改札を潜り、駅の構内を出ると、早速家の方に歩き出した。

「……なに…?」

異変を感じたのは駅と家の中間地点くらいにある小さな霊園の近くだった。道路側から見えない奥まったところにあるからそこまで怖くはないけど、昔からなんだか嫌な気配を感じる場所だ。
お墓と言うものは総じてそうなのかもしれないが、この霊園だけは他のところとは何か少し違うように思っていた。

「えっ、えっ、うそ、なになになに!?」

ガサガサと派手に音がする。葉っぱを大きく揺らすような音だ。犬猫が通っているとかそんなレベルじゃない。剪定作業をしているみたいな強い音。
私は思わずそう声をあげ、早くその場から立ち去ろうとしたが、足がぬかるみに嵌ったように動かせなくなっていて、音はどんどんと近づいてきた。冷静になればまだ助けを呼ぼうとかそういうことも考えられたのかもしれないが、正直この瞬間、そんなことを考えられる状態には無かった。
そして私は、ガサガサという音が葉っぱを揺らす音などではなく、私に向かってきているもの自体が発している音だと気が付いた。

「ヒッ……!」

ワッと暗がりから飛び出たのは、二足歩行する大きな爬虫類のような化け物だった。ガサガサという暴力的な音はその化け物の下半身についたビニールやら何やらのゴミが発しているもののようだ。
ぎょろりとした眼が私を見つめる。なんだあれは。その化け物は大きな音をたてながら私の方に一歩、また一歩と近づく。もうこの時には頭の中の回路は寸断されていて、ガタガタと震えることしか出来なかった。ただこの化け物が私を害するつもりであると、それだけは鮮明に感じ取れる。
ぐわっと開かれる口の大きさはまるで物理法則を無視していて、私はこの訳の分からない化け物に殺されてしまうのだと悟った。その瞬間だった。

「あれ、おかしいな…もっと大物がいると思ったんだけど…」

その場に似つかわしくないのん気な調子の男の声が聞こえ、いつまで経っても私に化け物の牙は降りかからない。
恐る恐る目を開けると、そこに袈裟姿の男が立っていて、化け物はその足元に服従するかのように突っ伏していた。

「こんばんは。女の子の一人歩きは、危ないよ」
「えっ…えっ……そ、その化け物…」
「ああ、これかい?これは私が回収しておくから」

そう言って彼は足元の化け物に手をかざし、するとそれはみるみるうちに黒い球体に変化した。彼が大きく口を開けて、それをひと呑みにする。彼の口も大きかったが、あの化け物のように物理法則を無視しているわけではなかった。

「…うーん…間違えたかな……」

彼は親指でぽりぽりと親指で眉間を掻く。それから少し考える素振りをして「あ」と声を上げて私を見た。
切れ長の目がじっと見つめ、その視線に底知れない暗闇がある気がした。

「ねぇ君、この辺の子だよね?最近このあたりで変な噂聞いたことないかな?」
「へ、変な噂…ですか…?」
「そうそう。怪奇現象とか、不審な事件とか」

そう言われ、私はじっと考えた。
そういえば、二か月前に隣町の小学生が近くの川で溺れた。幸いにもすぐに救出され、運び込まれた病院で意識を取り戻し、なんとか事なきを得たらしい。その小学生は、誰かに足を引っ張られたと言っていたが、事故が起こった当時誰もそこにはいなかった。このところの変わったことと言えばそれだろうか。

「えっと、小学生が近くの川で溺れた事故があって…その子が足を引っ張られたって言ってるらしいんですけど、周りには誰もいなかったって……」
「へぇ、それは興味深いな」

彼はそう言って、事件が起きた場所を詳しく聞いてきた。駅の西側だと伝えるれば、にっこりと笑って「ありがとう」と言うと夜の闇に消えるようにいなくなってしまった。
結局あの日遭遇した化け物は何だったのか。何もわからないまま私は家に帰ったけれど、言ったところで誰に信じてもらえるわけでもないから誰にも言わなかった。


彼ともう一度遭遇したのは、四日後の土曜日のことだった。ちょっとした買い物があってひとりで外に出ていて、ふと彼に話した川のことを思い出した。近づかなければ足を引っ張られて溺れることもないだろう。私は怖いもの見たさでその事故が起きたという土手に向かった。

「えっ、あれ…あの人……」

私が事故現場付近で見たのは、川辺に立っているあの夜の彼だった。夜でも充分奇妙だったが、昼間の燦々と太陽の降り注ぐ中にあんな袈裟姿で、しかもお坊さんにはあり得ないような長髪はもっともっと奇妙に見える。
しかももっと変なのは、彼の周りに大きな蜂のような…いや、羽根が付いた哺乳類のようなものが飛んでいることだ。あれは何だろう。鳥ではない。胴体の長い、フェレットとかそういうのに昆虫の羽根がついているような、見たこともない生き物だ。
思わずじっと見ていると、彼が私の気配に気付いて振り返る。会釈をしようとして、それより先に空飛ぶフェレットが空高くひゅんっと飛んだために思わずそれを視線で追ってしまった。本当にあれはなんだろう。
慌てて視線を戻すと、彼はにっこりと笑みを浮かべて私を手招いていた。空飛ぶフェレットのことも気になったし、話すくらい平気だろうと思って土手を降りる。

「やぁ。また会ったね」
「どうも…あの、事故のこと調べに来たんですか…?」
「まあそんなところかな」

太陽の下でも夜のようなひんやりとした相貌は損なわれることがなかった。気が付くと彼の方の近くまで件のフェレットが戻ってきていて、私は思わず「あっ」と声を上げる。

「やっぱり君、視えてるんだね」
「えっと、そのフェレットのことですか?」
「フェレット…?」

何かおかしなことを言ってしまったのか、彼は一瞬ぽかんとした顔になってから「ふふふふ、そうかフェレットか」と笑い始めた。

「これは呪い。人間の負の感情の塊さ」
「は?」
「君を四日前に襲ったのがいただろう。あれも呪いで、この川で子供の足を引っ張ったっていうのも呪い」

ダメだ、見た目以上にヤバいひとだった。呪いって、なんて素っ頓狂なことを言い出すんだ。私は話を早く切り上げ、穏便にこの場を去る方法を模索する。非日常を求めて馬鹿なことをするんじゃなかった。

「君、多分数日のうちにもっと大変なことに巻き込まれるよ」
「…なんですかそれ」
「四日前のことをきっかけに視えるようになってるのかな…素養はあったけど目覚めていなかったってところか」

彼は「ふむ」と私の顔とお腹のあたりを重点的に観察する。見ず知らずの人間を不躾に見るなんてまったく失礼なひとだ。しかも「悟の眼ならもっと視えたのかな」と訳の分からない独り言までセットでついてきた。

「あの、私帰ります」
「待って、本当に命の危機になりうる可能性がある。素養のある若い人間が死んでいくのは私も本意じゃない」

急にそんなオカルトめいたことを言われても困る。私は半ば無理やり「失礼します」と言ってその場を切り上げ、足早に土手を駆けあがった。
そして結果として、私は彼のいう通り三日後の下校中に路地裏から猫の化け物に首根っこを引っ張られて食べられそうになった。そこにまた彼がどこからともなく現れて猫をひと払いで消し去り、私に向かって「ね、言っただろう?」と、教師めいた口調で言ってのけたのだった。


彼の名前は傑。名字は知らない。そして彼の名前は外では口にしないほうが良いらしい。
私は呪いというものの存在を知り、そしてそれらから身を守るために最小限の訓練を傑さんにつけてもらった。
傑さんはあの呪いたちを集めたり祓ったり、そういうことを仕事にしているのだという。どこに住んでいるのかは知らないが、私が大学生になってからはふらっとひとり暮らしのアパートに姿を現し、一緒にご飯を食べる。

「ねぇ傑さん、最近妙な事件がありましたよ」
「へぇ、どんなだい?」
「行方不明事件ですって。私の大学の工学部が県境の山のところにあるんですけど、その近くで立て続けに三人も。それでその三人が肝試しで廃屋に行ってたっていうんです」

ずるずると蕎麦を啜りながら、私はこの間同級生から聞いた話をした。いわく、工学部の学生が下校中、キャンパスの近くの山で三人も忽然と姿を消した。それが全員、面白半分でその山中にある廃屋に踏み入っていたメンバーだったのだそうだ。

「へぇ、それは呪いの可能性が高いね」
「でしょう?でもそんな話を興味津々に聞いたものだから、おかげで同級生からはオカルト好きだと思われちゃいました」

私が冗談めかしてそう言うと、傑さんは「猿から見ればオカルトさ」と笑った。
そのうちすっかり蕎麦は食べ終えてしまって、まだ日は高いけれど私たちはどこにも行かない。傑さんは外に出たがらない。

「ナマエ、おいで」

傑さんはそう言って、私のベッドに勝手に腰かけると、こっちに向かって大きく手を広げる。私はリモコンでクーラーの設定温度を二度下げてから、キャミソールとショートパンツだけの無防備な恰好でそこに飛び込んだ。

「私初めて会ったとき、傑さんのこと絶対ヤバいやつだって思って逃げたんですよ」
「はは、そうだろうね、そう言う顔してた」
「なのに今はこんなことになっちゃうんだから、なんか不思議」
「そうかい?私はナマエを夜道で助けた時からピンと来てたけど」
「嘘つき」
「嘘じゃないさ」

私は傑さんの胸元にすり寄る。香る柔軟剤は私と同じで、これは私がいつ来るかも分からない傑さんのために用意している部屋着だ。彼の袈裟からはいつも、鉄っぽいにおいとお香のにおいがしていた。

「ねぇ、傑さんって正義のヒーローなの?それとも悪者?」
「さぁどうだろう。ナマエはどっちでいて欲しい?」
「うーん。私にとってはヒーローだから、それでいいのかも」

尋ねたわりに、自分でもどっちと言われれば納得できるのかは分からなかった。傑さんが誰かに追われているから隠れて生きていて、なんだかとてつもない暗がりを歩いているひとだということを、私はなんとなく気がついていた。

「傑さん、今度はいつ来れる?」
「どうかな。少し海外に行かなきゃならない用事が出来てね」
「じゃあまた蕎麦の腕あげとくね」
「それは楽しみだ」

私と彼の関係に名前はついていない。ふらっとひとり暮らしのアパートに姿を現し、一緒にご飯を食べる。そしてこうやって、無責任に触れ合っては体温を確かめ合う。
ひとは自分の知ってることしか知らないし、自分の目に見えるものしか信じない。だから私にとっての真実は他人にとっての嘘だし、誰かにとっての真実が私にとっても真実とは限らない。

「傑さん、愛して」

世の中ぜんぶ嘘っぱちだ。傑さんと過ごすこの時間以外はぜんぶ。でもね、それでもいいんだよ。傑さんが会いに来てくれるなら、私はどんな嘘だって信じていられるのよ。


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