やきもちなんてまる焦げです


「悟くんのばかー!!」

私は大きな声でそう言って、彼氏目掛けてクッションを投げつけた。
クッションは途中で勢いを無くし、彼に到達するころにはポスンと間抜けな音を立てるばかりになってしまう。

「いやいやナマエちゃん、どうしたの急に」

顔面にぶつかって落ちていくクッションを捕まえ、悟くんがへらへらと笑う。遺憾。まことに遺憾である。

「私見たんだからね!」
「何を?」
「悟くんがキレーな女の人と歩いてるところ!」
「女ぁ?」

悟くんは少し「うーん」と考える素振りをしてから、ほいっと私にクッションを投げ返す。
私は反射的にそれを受け取って、悟くんをじっと睨んだ。

「ナマエちゃんの勘違いじゃない?」
「勘違いじゃない!」

私はもう一回悟くんにクッションを投げて、今度はぶつかる前にひょいと受け止められてしまった。ムカつく。結局私は悟くんの手にかかれば抵抗のひとつもできやしないと、証明されているようだ。

「もう悟くんなんて知らない!」

私はついにそう吐き捨て、アパートの玄関から飛び出した。自分のアパートなのにここから逃げ出して一体どこに行くつもりなんだろう。いや、どこだっていいのだ、本当は。
全力疾走出来るのは、普段履かないスニーカーをちゃんと履いているから。今日はこうなることを予想して、下駄箱からスニーカーを出しておいたのだ。そう、これは半ば計画的な逃走だった。


私は恋人の職業を知らない。というか信じていない。
彼氏の悟くんは、もともと私の勤めていたブランドの上得意様である。そこそこの知名度を持つイタリアのファッションブランド。私はそこの有楽町の路面店で派遣社員として働いていた。

「すみません、連絡をしておりました五条ですが」

五条様、と言うお客様の名前を覚えるのは早かった。だって一ヶ月でとんでもない金額の買い物をしていくから。
立地もあって結構な金額が毎日飛び交うこの店だけれど、五条様を覚えるに至る最大の特徴はその支払い金額と全然イメージの合わないギャップにある。

「五条様、お待ちしておりました」

私は頭を下げ、真っ黒なスーツの男性客を出迎える。このお客様が「五条様」である。黒いスーツにアンダーリムの眼鏡、いかにも神経質そうな尖った細面。会計はツケ払いで、というのも、そもそも五条様はうちのブランドの日本支社外商部のお客様らしい。
店頭受け取りを毎度ご希望なさるのだそうで、この店には受け取りだけで来るのだ。

「こちらがご要望いただきましたお品物でございます。ご確認をよろしくお願いいたします」

私は五条様の前で商品を一点一点確認をしていただく。どうにも、この五条様というのはセレブの使用人か何かではないのか、と私は予測していた。だって店に来る時はいつも仕事着ですって感じのスーツだし、それにこんな金額の買い物をする男がブランド物の一つも身につけてないなんてどう考えてもおかしい。

「はい、間違いありません。ありがとうございます」

まぁ、受け取りが本人だろうが使用人だろうが、私にとっては少しも困ることはない。だから私にとってはずっとこの黒いスーツの眼鏡の男が「五条様」だった。


五条様、の正体を知る転機が訪れたのは、私が今のお店に派遣されて半年くらいが経った時だった。
その日もガラスを磨き上げ、男性従業員の一人がガラス戸の前でお客様を出迎える準備をしている。出勤時の申し送りによると、五条様は今日の朝一番には商品の受け取りにお見えになったらしい。ちょっと残念。
別にどうこうってわけじゃないけれど、自分が名前をガッツリ覚えてるお客様が来店するのはちょっとした楽しみなのだ。

「いらっしゃいませ」

小さく声をかけて会釈をする。いかにも夜の街で大金をお稼ぎになっているという風情の男性客と女性客。歌舞伎町で生まれた、おじさん、キャバ嬢、ホスト、の金の循環の終着点の一つである。
お客様に新作のバッグをオススメして、すると女性の「これ欲しい」の一声で早速お買い上げが決まった。まぁなんというか、労せず売上を得られるパターンでありがたい。
二人を見送ってまたショーケースに向き合おうとしていると、別のお客様が来店した。向き直って「いらっしゃいませ」の常套句を口にすると、お客様はすたすたとカウンターに向かって歩いてきた。随分長身の、特徴的な白い髪のお客様である。

「どぉも、今日受け取った商品多分一個間違っててさぁ、ちょっと確認して欲しいんだけど」

彼はぐいんっと腰から体を折って私に言った。ちょっと迫力がすごくてぐっと身を引く。
どれだろう。基本クレジット決済が多く、しかもうちはサイン式だから時間帯やお名前を聞けばわかるはずだ。

「大変申し訳ございません。すぐに確認致しますので、失礼ですがお客様のお名前をお伺いしてよろしいでしょうか」

私が深く頭を下げた後にそう言うと、彼は少し私を観察するようにして視線を留め、それから上体を引き起こす。サングラスの向こうの顔が一瞬見えた気がした。ヤクザ、ホスト、モデル。三つの彼の推定職業が自動的に頭の中を駆け抜けていく。

「五条」
「え?」
「え、五条。五条悟」

彼は私が聴こえていなかったとでも思ったようですぐにもう一度復唱した。
聞こえていなかったわけではない。五条様といえば、あの黒いスーツの眼鏡のひとだ。こんな派手な見た目のひとは初めて見た。

「失礼いたしました五条様でいらっしゃいますね」
「…ああ、なるほど。普段は伊地知が来てるからか」

微妙にずれた会話のキャッチボールで、男性客は何かに納得したようだった。
私は彼を奥にある商談用の部屋に通し、ことの顛末をマネージャーに報告する。マネージャーは真っ青になってお客様…五条様の待つ部屋へと入って行った。

「びっ、くりしたぁ…」

怖い感じの人ではなかったけれど、あの見た目の迫力はすごかったな。立地的に大柄な外国人もお客様には多いけど、あれはなんか…なんかもっと違うカテゴリーの気がする。とにかく五条様のことはマネージャーに任せ、私は通常の店頭業務に戻り、ショーケースを磨いた。


五条様の対応は比較的短時間で終わった。本当のお金持ちというのはせかせかしていないし早々店に怒りをぶつけることはない。まさに五条様はその本当のお金持ち然としていて、少しも何か不満をぶつけるような様子はなかったらしい。
しかしそんな上得意様にご迷惑をおかけしてしまったのは事実なので、本部からどんな指導が入るかとマネージャーはびくびくしていたけれど。
五条様はそのまま路上のパーキングメーターのところに停めたスポーツカーに乗り込み、そこでドアのそばに立っていた男性従業員を手招く。従業員が近くによると、何事かを話して店内を指さした。それからぺこりと頭を下げ、店内へ戻って一直線に私のところに歩いてくる。私のところに?

「ミョウジさん、五条様がお呼びなんだけど…」
「えっ、私ですか!?」

何もしてない、と思う。だって商品取り違えのときは私は対応してないし、まぁその、五条様が名乗られたときに若干不審な反応はしてしまったけれどそれくらいだ。
男性従業員が私に「どうする?」と視線だけで尋ねる。私は「行ってきます」と答えてカウンターを出た。
本来であれば、車に乗り込んでいるお客様のところへ女性従業員ひとりで出向くなんて防犯上よろしくないのでしないが、相手は上得意様だし店側がミスしたばかりだし、一体なんだろうと思いながらもひとりでスポーツカーのそばに歩み寄る。

「あの、五条様、何か不手際がございましたでしょうか」
「ああ、違う違う。そういうのじゃなくってさ。コレ僕の番号。あとコレあげる。君にプレセントってことで」
「えっ」
「ひとめぼれってあるんだねぇ。あ、まぁ、深く考えずに受け取ってよ」

運転席に腰かけたまま五条様は紙切れと化粧箱を差し出した。私は反射的に受け取ってしまって、すると五条様はそのままアクセルを踏んで車を発進させる。どどどど、とスポーツカー特有の低いエンジン音とともに五条様は颯爽と立ち去ってしまった。

「えっ!えっ!ちょっと…!」

私はもう小さくしか見えないスポーツカーと手元に残された化粧箱を交互に見る。化粧箱はまさに私の働くブランドのもので、恐る恐る開ければ中には新作のスカーフが納まっていた。

「…ひとめぼれ?」

その後は黒いスーツの男性ではなく五条様本人が店頭に現れるようになり、冗談かと思ってたあの「ひとめぼれ」は本気のつもりだったようで、何度も帰り際にこっそりと声をかけられた。
結局不信感より好奇心が勝り、私は職業不詳の五条悟という男と恋人という関係に納まっている。


そんな突拍子もない出会い方をしたら、悟くんが「私立の専門学校で教師をしている」なんて言われて信じられるわけがないと思う。だってスポーツカーのそばに呼びつけて番号渡して初対面でハイブランドのスカーフ渡してくるなんて、何を考えているのか意味不明にもほどがある。いや、その意味不明なひとと結局付き合ってる私もどうなんだって話なんだけど。

「はぁ…はぁ…」

だいたいあんな派手な見た目の教師がいてたまるか。やっぱりヤクザかモデルかホストの方がよっぽどしっくりくる。あ、でもやっぱホストにしてはかっこよすぎるかも。
とにかく悟くんは街ゆけば女の子が思わず振り返っちゃうカッコよさで、私はいつもそれにやきもちを焼いていた。だからといってまぁこんな、急に一方的なこと言って家出するとか子供じみてて我ながら嫌になっちゃうけど。

「はぁぁぁ…」

疲れた。全力疾走していた身体を止め、その場で小さくうずくまる。近くの児童公園に辿り着いていた。
悟くんはかっこいい。優しいし、背も高いし、お金持ちだし。女の子の理想像を詰め込んだようなひとだ。私みたいな普通の女と付き合ってる意味がわからなくて、でもそれも「二番目の女だから」とか理由を勝手に付けちゃったりなんかするとちょっと納得できちゃうのがめちゃくちゃ嫌なんだけど。これは被害妄想。

「みーつけた」
「…悟くん…」

悟くんの優しい声がして、顔を上げると悟くんが立っていた。私はむっとしたまんま名前を呼ぶけど、悟くんは全然怒らずに「ん?」と首をかしげるだけだ。
二番目の女だとして、こんなに優しくしてくれるの?だったら相当ヤバい。絶対そんなの自分が一番って思っちゃうじゃん。まぁ被害妄想なんだけど。

「ナマエちゃんって意外と足速いよねぇ。一瞬見失いそうになっちゃった」
「…なんで追いかけてきたの」
「そりゃ、好きな子に誤解されたままなんて困るでしょ」

好きな子。悟くんはそう言い、私の前にしゃがんで目線を合わせるサングラス越しじゃない青い瞳と目が合う。

「ねぇ、僕が女と歩いてるの、どこで見たか当ててあげようか」
「やっぱ心当たりあるの?」
「まぁね。三日前恵比寿の駅前でしょ。水色の長い髪のおば…女。黒いワンピースの」

悟くんの言った通りで、私が見たのはまさに恵比寿の駅前でのことだった。スタイルがよくって、悟くんとお似合いの大人の女って感じのひと。私が「そう」と肯定すると、悟くんは「やっぱりねぇ」と笑う。

「あれは仕事仲間だよ。年齢不詳でお金と結婚してる守銭奴。ちょっと仕事の話があってさぁ」
「仕事の話って…悟くん学校の先生なんでしょ?学校でするじゃん、ふつう、そういう話は…」
「えー、まぁそうなんだけどさぁ…」

じっと悟くんを見上げた。だってそうでしょ、学校の先生がわざわざ外で打ち合わせとか、なくない?悟くんは何か悩むように「うーん」「あー」と唸った。それから小さく息をつき「あのね」と切り出す。

「…僕の仕事さ、教師っていうのも嘘じゃないんだけど、他にも別の仕事してんの。でね、そっちの方は誰にも言えない仕事なんだ」

悟くんはちょっと困った顔をしてて、嘘を言っているような感じはしなかった。
だけどそんな映画みたいなことある?公安とか、スパイとか、そういうやつでしょ、誰にも言えない仕事って。

「…ほんとに?」
「本当。あの人はその仕事の仕事仲間。僕が言えない仕事してるって話したのは、ナマエちゃんが初めて」

私は優しい声にぐっと押し黙る。結局、真実がどうだったとしても、私は悟くんの言葉を信じることしかできない。
こんなに嫉妬心に振り回されるくらいなら、さっさと別れたらいいのに。と、多分悟くんに恋をする前の私ならそう言うだろう。だけど絶対そんなの嫌だって思っちゃうんだから、結局のところどうしようもないのだ。

「悟くん…好き」
「うん、僕もナマエちゃんが大好き」

いい年してこんなふうに逃げ出して、追いかけてきて欲しいだなんて馬鹿げている。その上フィクションじみた「人に言えない仕事」なんてものだって信じようって思うんだから、恋っていうのは厄介だ。

「悟くんがモテるのイヤ…」

私がそう言うと、悟くんが嬉しそうに笑った。それから私のことを両腕に包み、おっきい手で優しく頭を撫でる。そうされるとさっきまでのぐらぐら煮え立つ感情が、あっという間に鎮静化されていってしまうのだ。

「やきもち?」
「…うん」
「ごめんね。信じてとしか言えないんだけどさ」

これで悟くんが詐欺師だったら、私は今頃身ぐるみ剥がされて風俗に沈んでるんだろうなぁ。私なんかから剥がす身ぐるみなんて大したことないんだろうけどさぁ。
こうして私はまた、あやふやで怪しい言葉に縋って信じて、何者かもよくわからない悟くんを愛し続ける。だけど私のこの感情だけは天地がひっくり返っても変えらんないんだから、しょうがない。

「ナマエちゃんには誠実でいたいんだよ」

やきもちが本当の餅だったら、きっと今頃まる焦げになってしまっている。


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