楽土




※2017年12月24日の話。あんまり幸せじゃないです。


何も悔いはないんです。
はじめからわかっていましたから。
残念ながら私は彼について語るべき言葉を持ちません。そんな言葉は私には不要のものと知っていたからです。
ええ、はい、私は彼を愛していましたので。
悔いなど、何も。


「おはようナマエ」

縦に細長く取られた窓から、冬の朝日がじんわり差し込んでいた。
私はベッドの上に寝ていて、傑はそのふちに腰掛けて私の髪で遊んでいる。
擽ったさで徐々に覚醒し、その甘さを胸の奥まで吸い込む。

「おはよ」

くるくる毛先を弄ぶ指に頬を摺り寄せ、かさついた感触にうっとりと目を細めた。
十五畳ある部屋にはベッドのほかにチェストがひとつ置かれているだけで、声が反響するほどがらんとしている。
夜になればみっともない声を上げさせられて、しかもそれが反響するのだから恥ずかしいったらない。

「傑の今日の予定は?」
「今日は何の予定も入ってないよ、久しぶりにナマエと過ごしたくてね」

けれど、朝の澄んだ空気の中、傑が私のことを呼ぶ声が反響するのは、悪くないと思う。
朝の傑の声は特別甘やかだ。ちょっと掠れていて、舌も寝坊しているみたいにはっきりとは動かない。私はこの声が大好きだ。

「嬉しい。どこかへ出かける?」
「新しい靴が欲しいって言ってたろ、それを見に行かないか」
「賛成」

私と傑は、高専の同期だった。
粒ぞろいの学年の中で大した術式も呪力もない私の面倒を、傑は根気よくみてくれて、おかげで三年生になるころにはなんとか二級まで昇級できた。
私は当然のように傑のことを好きになって、どうしてだか傑も私のことを好きだと言ってくれた。五条くんと硝子にからかわれながら付き合い始めて、三年生の秋、私は当然のように傑を追って高専を出た。
傑は泣きそうな顔をして「今なら間に合う、高専に戻ったほうがいい」と言ったけれど、私の中にそんな選択肢なんで初めから存在していなかった。
無理を推して傑にくっついて、団体の仕事は触らせてもらえず、そもそも私なんかに手伝えることなんて殆どなかったけれど、菜々ちゃんと美々ちゃんのお世話とか、ちょっとくらいは役に立っていると思う。

「菜々ちゃんと美々ちゃんも連れて行こうか?」
「いや、今日は二人きりがいいな。だめかい?」
「ううん、だめじゃない」

デートだね、と言えば、そうだよ、と返事が返ってくる。
今日はどんな服を着ようかなぁ。私はクローゼットの中身を思い浮かべながら、もう一度傑の手に擦り寄った。


デートの服は、結局お気に入りの白いカットソーにチャコールグレーのニットのフレアスカート、それからベージュのライダースジャケットを羽織った。
傑もいつもの袈裟姿ではなくて、丈の長い黒のジャケットにバンドカラーシャツ、パンツはスリムなスキニージーンズを履いている。
スタイルのいい傑は何を着ても似合うけど、モデルみたいだなあと隣に立つ傑をみてしみじみと思った。並んで歩くのは、未だに勇気がいる。

「ナマエ?どうかしたかい?」
「べつに…傑に見とれてただけ」

私がそう言って視線を逸らすと、傑はくつくつと笑って、光栄だね、と言った。
傑をかっこいいと思うのは出会った時からずっとだけれど、10年前に比べて色気というか、侵しがたい濃密な空気を纏うようになったと思う。
こうして隣を歩くことも未だ慣れることはできていない。
私は恥ずかしいくらい心臓を鳴らしながら、傑の開けてくれたセレクトショップのドアをくぐった。
そのセレクトショップではお気に入りのブランドの新しいブーツを買った。レースアップの黒のショートブーツで、シルエットがスッキリとしていて可愛い。
去年一足履き潰してしまったから、本格的な冬が始まる前に買えてよかった。

「次はこのブーツ履いてデートだね」
「そうだね、どこへ行きたい?」
「もうすぐクリスマスだから、目一杯おしゃれしてイルミネーションが見たいな」

猿が多いところは嫌だと傑は言うから、連れてってもらえないだろうな。言って少し後悔した。
言わずもがな、傑は人混みが嫌いで、こういう買い物に出かけようということさえ貴重だ。
傑は不意に足を止め、考えるように顎へと手を当て数秒の間、目を閉じた。

「うーん、クリスマスまでは忙しくて時間が取れないかもしれないけど最近は冬の間ずっとやってるようだしね…いいよ、行こうか、イルミネーション」
「ほんと?」
「もちろん」

珍しい。絶対に嫌がると思ったのに。
私は傑の腕に自分の腕を絡ませて、ちょっとでも近くにいられるようにくっついた。それに気づいた傑が腕を解いて私の腰に手を回したから、今度は傑の腰にひっついて「歩きにくいよ」と笑った。


カーテンをかけることも出来ない細長い窓から、月の明かりがぼんやり室内を照らした。
私と傑はベッドの上で、裸のまんまおんなじ毛布に包まっている。床には行儀悪く脱ぎ捨てられたパジャマと下着が抜け殻みたいに頼りなく置き去りにされていた。
寒いけれど、二人でいるとあったかい。冬のそういうところが好き。

「例の計画、もうすぐ実行に移せるよ」

ピロートークには随分物騒な内容だった。
傑は私の腰に手を回したまま、落ち着いた声音で言う。
例の計画、というのは、春から傑がああでもないこうでもないと画策していた計画のことだろう。

「乙骨憂太の?」
「そう。決行は12月24日。百鬼夜行だ」

そうか、だから昼間クリスマスまでは忙しくなるって言ってたんだ。
傑は乙骨憂太に憑いている特級過呪怨霊、折本里香を使って、理想を為そうとしている。その実行のためにこの一年はずっと忙しそうにしていた。
今年の一年生は粒揃いで、それも五条くんの受け持ちだからなのだと、少し楽しそうに話していたのが一ヶ月前のこと。

「私は留守番?」
「そうだよ」
「菜々ちゃんも美々ちゃんも行くっていうのに?」
「すぐ帰るさ。だからナマエはここで私のことを待っていてくれないか」

そういう言われ方したら私が断れないって、知っていて傑はそういう言い方をする。
傑は私の頭を撫でて、そのまま指先を耳の付け根に持ってくる。縁取るように撫でられるとくすぐったいけれど、いまは心地いいほうが勝っていた。

「眠いかい?」
「うん、少し…」

囁く小さな声が、まるで砂糖菓子のように甘い。
頬を掬い上げられ、額にキスを落とされた。

「おやすみ、ナマエ」

傑のあたたかい胸板が近づき、私をすっぽりと抱きすくめてしまう。
その体温が眠気を誘い、まぶたがまたひとつ重くなった。傑の体温も、匂いも、すべてがすべて私を安心させる。

「おやすみ、傑」


ーー12月24日クリスマスイブ、傑の宣戦布告により街は例年と違う静けさの中にあった。特に新宿、京都は戒厳令を敷かれ、一般人は一定のエリアへの立ち入りを禁じられた。
お昼すぎに菜々ちゃん、美々ちゃんを初めとする家族が連れ立って出発するのを、私は玄関から手を振って見送った。
傑は一度額にキスを落とし、私を抱きしめてから「行ってくるよ」となんてことない言葉を残して出て行った。
傑が特別なことを言わなかったから、私も「行ってらっしゃい」といつもの通りに言葉をかけた。
声は震えていなかっただろうか。
みんなが出かけてもう半日近くが経過した。時計を見ると、短針が天辺を回ってしまうような時間だった。
私は一人でダウンコートを着て、あの日買ってもらったキャメルのショートブーツを履いて、玄関にうずくまっていた。指先も爪先も多分冷えている。
体が内側からすべて凍ってしまうようだ。
ふと、玄関の前に人の気配を感じた。
鍵のかかっていないドアは呆気なく開かれ、月光を背に長身の男が立っていた。

「ナマエ」
「…五条くん?」

私は目の前の五条くんを見て、何が起こったのか全てを理解した。
そうか、傑はもういないのか。

「傑は僕が殺した。もうすぐ高専の人間がここを押さえにくる」

今なら間に合う、一度だけ見逃す、だから逃げろ。五条くんの声が少し震えていた。
月明かりが、五条くんの真っ白な髪をさらに白く照らし出した。
珍しくサングラスをしていない五条くんの目が、きらきらと宝石みたいだな、と場違いなことが頭に浮かぶ。

「ありがとう、五条くん」

理想を追い続けることは、果てのないことだ。終わらないマラソンみたいに、自分の決めた幻みたいなゴールに向かって走り続けなければならない。
それを終わらせるだけのきっかけを、私には作ることができなかった。

「お前ーー!!」
「うん、高専に連れてって。尋問でもなんでも。まぁ私が知ってることなんてほとんどないけどね」

そうだ。高専を出て10年、傑が自身の計画について私に話してくれたことはほとんどない。団体のお金のやりくりも、人間の流れも、一切知られていない。
菜々ちゃんと美々ちゃんの生まれについてくらいなら知っているけれど、離反したきっかけの事件だ。そんなこと高専が知らないはずがない。
私は本当にこの10年、ただ傑のそばにいた。絶えず、離れず、崩れ落ちてしまいそうな彼を抱きしめていた。それしかできなかった。

「なんだよ、二人して揃いも揃って…」

10年ぶりに見る五条くんは、相変わらず背が高くて、綺麗な顔をしていて、それでいて取り残された小さな子供のようだった。
昔なら、そのそばに傑がいて、少し離れて硝子がいて、その少し後ろに私が立っていた。眩しいくらい、私たちは自由だった。

「…行こっか」

私が玄関の敷居をまたぐと、五条くんの体がほんの一瞬こわばって、それから泣きそうな顔で、あの日の傑みたいな顔で、私の名前を呼ぶから「大丈夫だよ」と声をかけて手を握った。
何も悔いはない。
私はここが限りある楽土と知っていて、あなたのことを抱きしめていたかったのだから。


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