プール


ミョウジと私はたった二人残された同期だった。
長く続く呪術師の家系出身の彼女は高専全体で言うとマジョリティであるのに、同期の中では2対1でマイノリティだ。
それも二年の秋からはフィフティ・フィフティになったけれど、それで何が変わると言うわけでもない。
悪い奴じゃないけど少し世間知らず。価値観がずれてて時々変なことを言い出す。それが概ね彼女への認識であり、そんなところを好ましく思っていた。

「あ、七海見て見て、プールがある」
「…ああ、市民プールですね」

学生時代、四年、冬。灰原がいないことにも否応なく慣れてしまった頃だった。任務で行った先の田舎町でナマエ2がコンクリートブロックで囲まれた一角を指さした。古い街灯がそこをジジジと照らしている。

「ちょっと見ていこうよ」
「…今何時かわかってます?」
「夜の10時!」

わかっているなら馬鹿なことを言うのはやめてほしい。ただでさえ警察に見つかれば補導されかねない時間だ。ただふらついているわけではなく、任務が終わって自力で宿泊先まで戻るように言われて移動しているだけだから、いざとなれば高専なりなんなりに連絡をしてそのような事態は避けられるが、予定なことはしないでほしい。

「さっさと帰りますよ。警察に見つかったら面倒です」
「はは、何それ、なんか七海ヤクザみたい」

隣でミョウジがケラケラ笑う。確かに今のは事実だけども言い回しが悪かった。
私はフゥーっと息をつき、気を取り直して足を進める。

「ちょっとちょっと七海!少しだけ!少しだけでいいから!」
「嫌ですよ。何が楽しくて冬の市民プールなんか見に行かなきゃいけないんですか」
「だって私入ったことないんだもん!」
「は?」

虚を突かれて単語だけが転がり落ちる。「学校で授業なかったんですか」と尋ねると、ミョウジは「だって学校ではプール入ったことなかったんだもん」と口先を尖らせて打ち明けた。

「一回もですか?」
「うん。だって私って術式が電気系でしょ?だから制御できないうちは非術師に迷惑かかっちゃうからって入ってなかったの」
「中学校は?」
「プールがなかった」

確かに、彼女の術式は電力に強く因果関係を持つ術式である。言われてみればなるほどだが、まさかそれが影響して学校のプールの授業を受けていなかったとは思わなかった。
彼女曰く、同じ理由で修学旅行や林間学校も避けていたらしい。

「ね!だから!」
「…だったら別の日にしましょう」
「なんで?」
「暗くてろくに見えないしそもそも冬の屋外プールなんて濁って汚いからです」

私が論旨明快に言ってやれば、ミョウジは「そうなの?」ときょとんとした顔になった。屋外のプールは冬になると使わなくなって消防用水として溜められているだけなこと、清掃なんかしないから苔が生え放題だということを説明すると、その様を想像したのがぞわぞわと顔を歪めて、それから「なんだぁ」とため息をついた。

「それでもいいならあのプールに落として差し上げますが」
「ヤダヤダ!行きたいとか嘘!」

そんな気もないのにトドメのように言い、どこまで本気で受け取ったのかわからないミョウジが全力で首を振る。よかった、これで諦めてくれるようだ。

「残念だ、友達とプール入るのって夢だったのに」
「別に今日じゃなくたっていいでしょう。温水プールなら冬でも入れますし、屋外がいいなら来年の夏にでも行けばいいじゃないですか」

そうだ、そもそも今日どうこうという発想が間違っている。今は冬で、しかも任務終わりの午後10時だぞ。私はさっさとホテルに帰って汚れを流してしまいたい。
隣を歩いていたはずのミョウジが立ち止まる気配がして、なんだと思って振り返ればにまにまと嬉しそうに笑っていた。

「…何ですか」
「ふふ、七海、一緒に行ってくれるんだ」

指摘されて初めて自分が当然のように彼女とプールに行こうと思っていることに気付かされた。ぐっと首筋から頭のてっぺんにかけてが熱くなる。クソ。そんなふうに笑うな。

「ミョウジは友達がいなさそうなので」
「えー!ひどーい!」

苦肉の策でそう言い逃れをし、ミョウジが不服を申し立てるために声を上げる。
このどうしようもない口約束は、結局果たされることはなかった。何故なら、この1ヶ月後の任務でミョウジが意識不明の重体になったからだ。


五年生になってから、私は現実から逃げるように大学編入のための試験勉強に没頭した。呪術師を続けるつもりはなかった。
ミョウジは目を覚まさなかった。傷を負った際の搬送までに時間がかかり、反転術式を施すのが遅れたかららしい。もっとも、反転術式がなければ生きてさえいなかったが。
初めは足繁く通っていた彼女の病室も、数えきれないチューブに繋がれる彼女を見ているうちにどんどんと遠のいた。ピッピッと規則正しく山を描く心電図モニターの緑色の線が、真っ直ぐになってしまうのが怖かった。

『ミョウジ、目を覚ましたよ』

その連絡を受け取ったのは、大学三年の夏頃だった。実に一年半もの間彼女は眠っていたのだ。
当時の繋がりは全て消してしまったはずなのに、その連絡はどこからか私の今の連絡先を入手した五条さんから入った。

「…そうですか、良かったです」
『会わないの?』
「今の私は非術師です。OBとはいえ、秘匿の観点からみだりに会いに行くようなことは避けるべきだと思います」

全部言い訳だった。今更どの面さげて会いに行くというんだ。眠ったままの彼女を恐れて逃げ出した私が。

『お前って結構面倒くさいよなぁ』
「面倒臭くて結構です」
『まぁいいや。ミョウジ、しばらくリハビリあるけどそのうち術師に復帰する気みたいだから』

じゃあね。と五条さんが一方的に通話を切る。
尚のこと生きる世界の違いを突きつけられたような気になった。確かに彼女は呪術師の家系で、そう生きることが当たり前なのだろうとは思う。だけど逃げた自分とは大違いだと思った。そして何より、またリハビリまでして、辛い思いをして、あの地獄に戻っていくのだと思うと心臓だけが底冷えするようだった。

「暑いな…」

近くにある市営プールで子供のはしゃぐ声が聞こえる。
やっとプールの季節になったのに、私はアナタの隣にいない。


その一年半後、私は新宿にある証券会社へ就職した。ここの仕事というのはほとんど接客業だ。
クライアントの資産とビジョンに見合ったプランを提案し、クライアントの資産を増やしたり、あるいは守り残して次世代に移していくかということをトータル的にサポートする。
これは机上の話であり、私の会社はそういった高い理念よりも利益を追求していた。とはいえ、前述のような真っ当な資産家がいないわけではなかった。

「今日はありがとうございました」
「いや、いい話ができたよ」

クライアントの自宅まで来年の計画についてプランニングしてほしいと依頼があり、私は日帰りで金沢に出張に来ていた。12月、木曜日。
正直なところ12月は相場の変動が大きいからなるべく会社を離れたくないが、入社一年目の私が任されている最重要顧客の呼び出しとなれば応じないわけにはいかなかった。

「そうだ七海くん、兼六園の隣の美術館には行ったことがあるかい」
「県立美術館ですか?」
「いやその隣の」

隣、と言われて頭の中に地図を思い浮かべる。確かに県立美術館の隣に現代アートの美術館が建っている。円形が特徴的なガラス張りの美術館だ。

「私は一応発足事務局の少し手伝いをしていた経緯があってね。だからあそこには思い入れがあるんだ。良い美術館だから、行ったことがないのなら是非足を運んでほしい」
「そうだったんですね。是非伺います」

クライアントの好みや仕事を把握しておくのは結果的に有利になることが多い。この資産家は行政主導の都心整備の話にまで加わっていたらしい。
私はその場で頭を下げ、クライアントの事務所を後にした。


そのあと、勧められるがまま件の美術館に足を運んだ。平日の夕方だから客足は少なく、革靴の音さえ大きく響く。
カウンターでチケットを購入し、私は常設展を回る。現代アートを基軸としているだけあって素人には難解なものが多かったが、感覚だけで楽しめる展示もたくさんあった。

円形を順路に沿ってくるくると展示を回っていると、不意に「プール」の文字が私の目に飛び込んできた。
これはアルゼンチンの現代芸術家の作品らしい。私は引き寄せられるように足をすすめ、その小さなプールを見下ろした。
水面は小さく波が立ち、青く塗られたプールの底と思われる場所を子供がくるくるまわっている。どういう仕掛けだろう、と思うも束の間、これは上部にガラスを敷き、その上に薄く水をさざめかせているのだとわかった。
子供が私の気配に気づき、立ち止まって手を振る。私はそれに手を振り返す。

「…凄いな…」

こうして美術作品の中にひとを取り込み、また中に入ったひとはえも言われぬ没入感を得る。
ゆらめく水面で顔こそ見えなかったが、子供が手を振るのをやめ、出入り口らしき方向に姿を消す。それと入れ替わりでまたひとりプールの中へ入っていく。その人影はゆっくりとプールの中央に向かい、そこで水面を見上げた。

「…ミョウジ?」

その輪郭や雰囲気に、確証もないのにどうしてだかゆらめく水の向こう側に彼女を感じた。
私は数年ぶりに努めて呪力を確認する。間違いない、ミョウジの呪力だ。

「っ…!」

気がつくと、私は駆け出していた。足がもつれそうになりながら、懸命に足を右左右と動かす。プールの中へ飛び込むべく、私は白い地下通路を急いだ。細い廊下の先に青い空間が覗く。そこへ私は一思いに飛び込む。

「…久しぶり、七海」

ゆらめく波の模様を受けながらそこに立っていたのは、あの日のミョウジの姿だった。
久しぶり。本当に。何年振りだろう。体はもういいのか。
合わせる顔がないとずっと思っていたのに、彼女がいると思うといてもたってもいられなくなった。あの頃より髪が短くなり、化粧をしているせいか大人びて見える。でも笑った顔はあの日のままだ。

「ミョウジ、その…」
「任務でね、この近くまで来たの。ここ、一回来てみたかったんだぁ」

私の詰まる言葉を察するように、ミョウジはなんでもない声でそう続ける。私たちの距離は約2メートル。あの頃よりもずっと遠い。
水がプールの青く塗られた壁面に反射して冷たく光る。その中にアナタがいる。

「ここなら私も、プールに入れると思って」
「…今ならどんな水の中だって自由に泳げるでしょう、アナタは」
「そうだけど、七海がいないと意味がないよ」

波紋がゆらめいて透過する。ミョウジが一歩、二歩とゆっくり距離を詰め、私はそれももどかしくて結局最後には彼女の手首を引っ張って引き寄せてしまった。ミョウジの身体は少しの抵抗もなく私の腕の中に収まり、私はこんなにも彼女に焦がれていたのだと気づかされた。

「じゃあ、七海が連れて行って」
「はい。どこへでも」

非術師と術師なら、顔を合わせない方が良かったのかも知れない。気づいても知らないふりをした方が良かったのかも知れない。
それでも私は今ここで、彼女を見過ごすことなど出来なかった。

「…約束だよ」

閉館間際の美術館の中で、ライトアップされた水面が自由自在の曲線を描く。見上げた水面はすぐ頭上で波紋を描いてゆらめき、水中から空を見上げるのはこんな世界なのか、と思った。何ものにも代え難いあたたかさだった。


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