マジックアワー


青と赤が溶ける。境界線は曖昧になって、昼と夜が混ざりあっていく。
目が覚めると、腕の中にナマエがいた。このごろは陽が落ちるとぐっと寒くなり、こうしてうたた寝をしてうっかり夕方になってしまうと、足先が随分と冷えるようになっていた。
ナマエが風邪を引かないようにずり落ちたブランケットを肩にかけ、その寝顔を眺める。

「はは、間抜けな寝顔」

僕は腕の中に納まる子供みたいな彼女の顔を見下ろす。
薄く開いた唇からすうすうとささやかに寝息が漏れ、時おりむにゃむにゃとなんとも言い難い寝言が転がった。
僕は眠りが浅く、あまり睡眠を必要としない。それが術式と関係があるのか六眼と関係があるのか、はたまたどちらとも特に関係のない僕の性質なのかは知らないが、とにかく僕は普通の人間よりも随分と短い睡眠時間で人生をやり繰りしていた。
ちらりとテレビの方を見ると、流していたはずの映画はとっくに終了してしまっているらしく、配信サイトのトップ画面がおすすめの映画を表示し続けている。

「ん、んん…」
「ナマエ?」

不意に腕の中で身じろぎをして、起きたのかと思って声をかけてみたけれどその様子はなかった。随分と難しい顔をしながら寝ている。変な夢でもみてるんだろうか。

「いか…ない、で…」

寝言だというのに声が震えていた。一体どんな夢を見ているんだろう。ナマエにそんな声を出させるなんて一体どこのどいつだ。
頭の中を過ぎったのは、ナマエの心の奥底に未だ根を張っているだろう男のことだった。


高専という場所は非常に閉鎖的だが、それなりに男と女がいれば面倒ごとと青春が生まれる。
僕の生まれ育った五条の家というものは、前時代的な腐ったみかんの筆頭であり、当然のように七歳になるころには傍系から婚約者が決められていた。倫理観もクソもない家だから当然のようにその女の補欠の補欠まで決まっていて、僕は早々に愛だの恋だのというものは醜く信用ならないものだと切り捨てていた。

「あれ、五条くんだ。こんにちは」

その僕の価値観のすべてをくるりとひっくり返してしまったのが、当時僕のひとつ先輩だったミョウジナマエ。へらへらとのんきな顔をしているが、蠱毒なんてえげつない術式を持っている一般家庭出身の高専生だった。

「何か用かよ」
「え、別にそういうんじゃないけど…五条くんだなぁと思って挨拶しただけ」

初めは、ナマエもその他大勢の人間と一緒で僕の家とか、財産とか能力とか見た目とか、そういうものを見て近づいて来ているのだと思っていた。だけど実際はそんなことはなくて、ナマエは本当に何の打算もなくただの後輩として気安く僕に接してきていただけなのだった。それこそ、傑や硝子にするのと同じで。

「ねぇ、京都高専の先生来てた?」
「は?見てねぇけど」
「そっかぁ」

何でそんなことを聞いたのか、と、理由はわざわざ聞かなくたってよく知っていた。
京都高専にはナマエの恋人がいるのだ。

「なに、今日ついてくんの、あいつ」
「あいつって言わないの。五条くんよりは弱いかもしれないけど、一応先輩なんだよ?」

そう言いつつもナマエに本気で怒るような素振りはなくて、いつもみたいにへらへら笑って「じゃあね」とあっさり自分の教室のほうへと歩いて行ってしまった。

僕はナマエのへらへらとした顔が好きだったけれど、その顔が見られなくなる時期が唐突に訪れた。ナマエが高専2年のある冬の日のことだった。
その日は朝から雪が降っていて、高専の敷地内にも3センチ程度うっすら積もっていた。そう言えば今日は朝からナマエの姿を見ていないな、と退屈凌ぎにと言い訳をして僕は高専の中をナマエを探してプラプラと歩いた。

「…あいつ…任務か?」

事前に学生に周知される任務スケジュールによると、ナマエの任務はなかったはずだ。他の人間のスケジュールは見たこともないのにナマエのものだけはいつも自然に確認するようになっていた。
もしかして急な依頼でも舞い込んだのかと考えながら足を進めていると、はりぼてばかりの寺社仏閣の隅にうずくまる黒い制服を見かけた。

「…ナマエ…?」

うずくまっていたのはナマエだった。こんな雪の日にコートもマフラーも身に着けず、いつからここにいたのか肩には雪が積もっている。僕は少しだけ呆気にとられたように立ち止まって、すぐさまナマエのそばへ駆け寄った。

「オマエこんなとこで何してんだよ!風邪引くぞ馬鹿!」

咄嗟に掴んだ手首は恐ろしいほど冷えていて、僕は死人のようだとゾっとした。指先は赤くかじかみ、つかんだ手首には少しも力が入っていない。
僕は思わずもう片手でナマエの肩を掴んで、その衝撃でナマエがやっと少し顔を上げた。表情が抜け落ち、目元は真っ赤に腫れている。

「…じゃ…た」
「は?」

雪の間に掻き消されてしまうよな声でナマエが言い、僕はそれが聞き取れなくてずいっと顔を寄せる。ぽたぽたと静かにナマエの双眸から涙が流れ落ちた。

「死んじゃ、った…彼が…昨日、任務で」

口元に耳を寄せてやっと聞えるようなボリュームでそう吐き出し、ナマエは震えてカチカチと歯がぶつかる音がする。
死んだ、彼が。名前を言われなくたって、それが誰の事かはすぐに分かった。京都高専のナマエの恋人だ。

「一昨日まで、普通に…メールしてたの…今度の休み、一緒にデートしようって…」
「…ん」
「大阪の、彼の地元に…美味しい、たこ焼き屋さんがあるんだって…一緒に、食べようねって…」

掠れた声で途切れ途切れに言葉が吐き出される。いつもなら何で惚気られなきゃなんないんだと思うだろうし、そもそもナマエでなければ探してもいないし話を聞く気もなかっただろう。当時僕はどうしていいかも分からずに、かじかむナマエの指先を温めようと懸命に握って彼女の言葉に耳を傾け続けた。

「も、会えない…」

震えているのが寒さのためなのか行き場のない悲しみのためなのか、それともそのどちらもなのか。
肩を抱き寄せるとか、積もった雪を払うとか、出来ることはいくらだってあったと後になれば思うけど、その時僕はただただ指先を握ることしか出来ないでいた。

「…ナマエ、風邪ひく」
「…そ、だね」

僕は指先を握ったまま先に立ち上がり、それに連なるようにしてナマエが腰を上げた。高専に向かって手を引いて行こう、とすると、ナマエの身体がぐらんと揺れる。

「危ね…ッ!」

僕は咄嗟に掴んでいた指先を離して倒れそうなナマエの身体を抱きとめた。指先は凍えそうなほど冷たいのに身体は制服の上からだって分かるほど熱い。
ナマエは僕の腕の中でくてんと力なく項垂れて、さぁっと血の気が引いていくのを感じる。
こんな雪の中で傘もささずに身体を冷やしていたら熱くらい出るに決まってる。僕はナマエを抱きかかえて高専の医務室に走った。


ナマエが泣いたのはあの日の一回きりだった。翌日からは人前でも隠れても泣くことなく、粛々と高専での生活を続けた。
ナマエの恋人が死んで二週間ほど経った夕暮れ、傑と二人で向かった僻地での任務から戻ると、敷地内の高台にナマエの姿を見つけた。

「傑!俺あとから行くから!」
「えっ、ちょっと悟!?」

いきなり何事だと言わんばかりの傑を置き去りに僕は駆け出して、木々も建物も飛び越える一直線でナマエの元へと向かった。
ザザザザと派手に葉っぱを蹴散らしながら飛び、高台に辿り着くとぼんやり空を眺めていたナマエと目が合った。

「あれ、五条くん?」
「ん」
「びっくりした。急に空から顔出すから」

ナマエは表情を少しだけ緩ませた。だけどそれでも僕の好きなへらりとしたあれにはほど遠かった。
目元には夕暮れでもわかるくらいの隈があり、少し痩せたような気もする。唇もかさついていて今にも倒れそうだった。

「何してたんだよ、こんなとこで」
「夕日を見てたんだよ」

ほら。と言ってナマエが僕の後ろを指さした。僕は西を背にしていたから振り向く形になって、その指に従って振り向けば丁度地平線に夕日が沈んだところだった。

「この時間の空を見るのがね、好きなの。青と赤が溶けていくの。昼から夜に変わっていくところなんだよ。マジックアワーって言うんだって」

東から夜が迫り、陽の光が赤く濃くなって地平線に広がる。青と赤と、混じり合う場所はうっすらと白く輝いていた。
マジックアワー。聞いたこともなかった言葉を頭の中で何度か唱える。その時間もほんの一瞬で、すぐに夜に飲み込まれて魔法の時間は跡形もなく消えてしまった。

「戻ろっか。任務から帰ってきたところでしょう?」

ナマエがそう言い、僕はナマエの隣に並んだ。いつもよりいくらか遅いスピードで寮までの道のりを歩き、何となく女子寮と男子寮の間にある談話スペースにたどり着いた。

「今日はどこで任務だったの?」
「新潟の山ン中」
「ふふ、移動にすごい時間がかかりそうだね」

ナマエは少しも辛さなんて滲ませていなくて、それが無性に腹立たしかった。室内灯の元で見たナマエの顔は、やはり濃い隈が出来ていた。
「五条くん」と何かを切り出そうとしたところで、ナマエの頭が不自然に揺れる。

「おい!大丈夫かよ!」
「ああ、ごめんね…ちょっと…最近ずっと眠れてなくて」

ナマエは力無く笑った。こんな時にさえ笑うのがむかついて、僕はソファの方へと引っ張っていって少し強引にそこへ座らせた。

「眠れなくても目ぇ瞑ってりゃ多少楽になるんじゃねぇの」

らしくない行動にとてもじゃないけど目を合わせることなんかできなくて、僕はナマエの顔を見ないで済むように隣にぼすんと腰を下ろした。斜め下からナマエがこちらを伺うような気配がしたけれど、黙ったままでいたら小さな声で「ありがとね」と言って、僕は「ん」と素っ気なく返した。
それから二人とも何も喋らなくて、数分経った頃、肩にぽすんと重みを感じた。どきりとしてそっと見下ろすと、ナマエが僕にもたれかかって眠ったようだった。

「…俺なら絶対、死なねぇから」

彼女に降りかかるすべてのものを取り去ることが出来ればいいと思うのに、僕は彼女の悲しみの前にあまりに無力だった。


ナマエのさらさらと流れる髪をそっと梳く。指が頬に当たったのがくすぐったかったのか、ナマエが「んんん…」と身じろぎをしてゆっくりと瞼を上げた。

「おはよう。魘されてたけど気分はどう?」
「ん…おはよ…平気だよ…って、寝ちゃってた?」

僕の腕の中で無防備に欠伸をする。起き抜けの敢えない顔が可愛いと思うんだから、これは随分な重症だ。
あれから僕は、柄にもなくしつこく粘ってナマエを口説き落とした。初めは死んだ元恋人を忘れられないと断り続けていたナマエだったけど、そこはまぁ、時間の経過と僕の両手で抱えきれないほどの愛情でゆっくり固まった心を溶かしていった。

「嫌な夢?」

死んだ人間には勝てない。
だから僕は、少し意地悪くこうやって質問してしまう。別にあの男より僕が劣っているとは思わないし、そもそも死んだ人間と競い合うこと自体が馬鹿げているとは思うが、それにしたって僕より前にナマエに深く根付いた男だという事実はどうしたって変えることができない。

「ヤな夢だったよ」
「どんな?」
「…悟が変な箱になってどっか飛んで行っちゃう夢」

てっきり死んだ元恋人の話をされるかと思ったら、全然関係のない僕の話だった。しかも変な箱になって飛んでいくってどんな設定だと思って、なんだか気が抜けて「ははは」と笑いをこぼした。

「ちょっと、笑わないでよ。こっちは結構真剣に怖かったんだから」
「ごめんごめん、僕の夢見てたんだなと思って」

死んだ人間には勝てない。
だけど生きてる人間は少しずつ積み重ねていくことができる。いつかナマエを悩ませるのも喜ばせるのも、僕が一番になれたらいい

「マジックアワー、私が起きる前に終わっちゃったね」
「うん、一瞬だから」

ナマエが窓の外を見つめた。そこはもうとっくに夜が優勢になり、陽の気配はどこにも亡くなっていた。

「ナマエ、なんでマジックアワー好きなの?」
「特に理由はなかったんだけど…最近は見てると悟のことを思い出すから、昔より好きになっちゃった」

青と赤が溶けていくその真ん中に白があるなんて、まるで悟でしょ。
ナマエは僕の好きな顔でへらりと笑った。


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