左胸のタトゥー




※七海と灰原の高専時代おおいに捏造しています。



「アナタ、どうにかならないんですか、その悪癖」

袖の隙間から覗く彼女の二の腕に真新しいガーゼが見えた。それが怪我などではないことを、私はよく知っている。
ん?といって小首を傾げる彼女に、私は大きく溜め息をついた。

「タトゥーです。また増やしてきたんでしょう」
「あら、バレちゃった?」

悪びれる様子もなく笑って、まぁ食べなよ。と取り分けたサラダを差し出した。
二人の時によく利用する創作居酒屋は、いい素材を使っているからシンプルな料理が美味い。それから酒の種類が多く、それもこの店を利用する理由の一つだった。
酒が好きなくせに今日はノンアルコールにする、と言い出したときからおかしいと思っていたが、そういうわけかと納得した。
先週、彼女がよく面倒を見ていた後輩術師が、任務中に命を落としたらしい。

「七海、よく気づいたねぇ」
「嫌でも気づきます。いくつ目ですか、それ」
「じゅう…にじゅう…?はは、わかんないや」

小さい口を大きく開けてカプレーゼを頬張る。美味しいね、と言ってからジンジャーエールをひとくち飲んだ。
私は自分のギムレットを一口含み、もう一度彼女のガーゼに目をやった。
ミョウジは、近しい術師が死ぬとタトゥーを彫る悪癖がある。


呪術高専に入学して一年と四ヶ月が経過した。
春の忙しい時期が終わり、そこそこ息をつけるかと思っていた矢先、同期が一人、任務で負傷したと聞いた。

「ミョウジ!」

もう一人の同期である灰原と駆け込んだ医務室で、彼女は頭にぐるぐると包帯を巻かれて横たわっていた。
目は覚めているらしく、口元だけでへらりと笑う。

「へへ、やっちゃった〜」
「やっちゃったじゃないよ!心配したんだぞ!」

灰原が大きな声を上げて、校医に「静かに」と窘められた。
気持ちはわかる。たった三人きりの同期で、ミョウジはどこか抜けていて危なっかしく、目が離せないところがあった。
特に妹のいる灰原からすればひとしおだったことは想像に難くない。

「ごめん、攻撃避けるときに思ったより伸びてきて…へましちゃった」

素直に謝られると強く出れないのか、灰原はぐっと押し黙った。
代わりに今度は私が長く息をつき、ちくちくと小言を言ってやる。

「アナタのドジはいつものことでしょう」
「えっ七海ひどくない?」

校医には彼女の怪我について、出血が多く一時は危なかったらしいが、目が覚めればもう問題ないと言われた。ほっと空気を緩める灰原の横で、私もこっそりと胸を撫で下ろした。
医務室の臭いは好かない。エタノールやクレゾール液の匂いがこびりついているのが、怪我をした時の記憶を引き出すのかもしれない。
いつもなら入ってすぐに顔を歪めてしまうのに、この日は彼女の無事を確認して、やっとその臭いを知覚した。


初めて彼女の身体にタトゥーが彫られたのは、それから一ヶ月後のことだった。
灰原と二人で派遣された二級呪霊祓除任務。ふたを開けてみれば、産土神信仰に深く関わる呪霊で、等級は間違いなく一級以上のものだった。
二人でどうこうできる相手ではなかった。
私は重傷を負い、灰原は死んだ。

「…七海」

霊安室に安置された灰原の遺体の前から動けずにいると、聞き馴染んだ声が聞こえた。
遺体の傷みを避けるために下げられた室温は、目の前の金属製の扉のせいか、実際よりも低く感じた。泣いてもいないのに、目元は引きつり、腫れている気がする。
項垂れたまま顔に引っ掛けていたタオルを取ると、唇を引き結んだ彼女の姿があった。

「灰原、顔きれいに残ったんだ」
「下半身は呪霊に食われました」
「うん、でももう顔も見れないかと思ったから」

霞む視界の中で、ミョウジは見たこともないような顔をしていた。
泣きそうな、悔しそうな、寂しそうな、それでいて、慈しむような穏やかな顔だ。
冷たい蛍光灯の光が彼女の頬を白く浮かび上がらせる。責めてくれ、と思った。
隣にいて、こんな状態の仲間を連れて帰るしか出来なかった私を。手酷く罵ってくれ。

「それでも死んだら意味ないだろ…!」

気がついたら声を荒げていた。
それでも彼女に怯えたような様子はなく、凪いだ海の眼差しでミョウジがこちらを見た。

「うん、そうだね」

そう言って、最後はいつもみたいにミョウジはへらりと笑った。
それから一週間がたって、授業は再開されたしミョウジも通常通り任務に駆り出さされることになった。
寮の隣の部屋が空室になったことのほかは何も変わらない。人が一人死んでも、何も。
呪術師はクソだ。
死に近しいところにいるから、今まで人間の死を見てきたことは何度もあった。先輩の術師が死んだこともあったし、助けられなかった非術師が目の前で死ぬこともあった。
だからなんだって言うんだ。仲間の死が、悲しくないわけがなかった。

「七海?大丈夫?」

はっとして顔を上げると、制服をぼろぼろにしたミョウジが目の前に立っていた。
胸元の生地が割け、パンツにもところどころ穴が開いている。顔も泥がついていて、任務先から戻ったばかりなのだと言うことは聞かずともわかった。
訝しんでいると彼女は「怪我はしてないよ」と言うが、私が見ていたのはそこではなかった。

「…ミョウジ、それ…」

大きく露出した左の胸元に、星のタトゥーが刻まれている。見間違いかと思ったが、多分違う。
彼女は頬を掻いて、まるでいたずらが見つかった子供のように所在なく足をぶらぶらと動かすと、人差し指で自分の左胸を指し示した。

「へへ、星のデザインの意味、光の象徴なんだって。灰原みたいだよね」

その一言で、すべてを理解した。これは元々彫っていたものではなく、この一週間のどこかで彫られたもので、しかもそれは、灰原のために彫ったものだと。
私はたまらなくなって、目頭をぎゅっと押さえた。そろりと近寄ってきた彼女に背を撫でられ、私は泣いた。

「灰原のこと、絶対忘れないよ、魂が死んでも肉体に刻むし、肉体が死んだって魂が覚えてる」

呪術師はイカれてる。呪術師はクソだ。
けれどこの時、死んだ仲間を自分の体に刻むなんて奇行に、私は確かに救われていた。


高専を卒業して一般企業に勤めている間も、彼女の鎮魂のタトゥーは増え続けていた。
世話になった先輩、親しい後輩、親に決められた婚約者。彼女の周りで死んでいった人間は、余すことなくタトゥーとして刻まれている。
時にそのモチーフは月や碇であり、龍や虎、蛇であることもあった。それぞれ別の時期に彫られたものだったが、彼女の体の限定的な部分に身を寄せ合あううちに、新しい大きなモチーフのようにも見えた。
私はそのタトゥーをなぞることを許されたとき、ひとつひとつの輪郭を確かめるように触れた。ミョウジはくすぐったい、と身をよじったが、私は極めて真剣で、逃さないように腕の中へ閉じ込めた。

「限度があるでしょう、アナタ、そのうち全身真っ黒になりますよ」
「ええ…その前に私が死ぬって可能性は?」
「ないですね、アナタは昔から生き汚いですから」

ひどくない?と言って笑って、ジンジャーエールを飲む。
左右の前腕、上腕、大腿、下腿、背中、それから左の胸の上。ミョウジの体のありとあらゆるところに描かれる大小ざまざまなタトゥーは、服で隠れて見えないところばかりに彫られている。隠れる場所で彫れるところなんてもうないんじゃないかと思う。

「じゃあ七海はさ、私にタトゥー増やさせないでよね」

へらりと気の抜けるような顔で笑った。
灰原は左胸だ。なら私の鎮魂はどこに刻むつもりなのか。興味がないわけではないが、そんなものになる日が来ないことを祈っている。

「もちろんです」

もしも彼女をタトゥーにするならきっと、私は蝶のタトゥーを選ぶだろう。


戻る






- ナノ -