予定調和


香りというのものは特別なものである。
幼い頃、祖父がそういうエチケットに厳しく、自宅で過ごす間もほのかに香る程度の香水をつけていた。私は当時その香水を祖父の匂いと認識しており、大人になってからその香水専門店でその香りに再会したときは大層驚いた。
もうずっと顔を合わせていない祖父のことを詳細に思い出し、香りが記憶の引き出しを開けたのだった。

「七海さん、いつもいい匂いしますよね」
「はぁ、どうも…」
「あ、ごめんなさい、キモかったです?」
「いえ、そう言うわけではありませんが…」

三つ年下のミョウジさんは、何というか、警戒心が足りていない。
彼女は例えば五条さんのように欠点の全てを不問に伏すようなほど見た目が美しいとか、特別気が利いて話が面白いとか、そういうわけではない。
ただミョウジさんには欠点らしい欠点があまりなく、加算法のような形式で積もり積もった美点はただ見た目の良い女性をゆうに超えていた。
男尊女卑の思想の強い呪術界だが、結局男と言うものはどこに行ってもそう大差ない。詰まるところ、彼女は術師や補助監督によく告白をされ、また下世話な視線に晒されていた。

「なんか香水つけてます?」
「まぁ、エチケット程度にですが」
「わー、やっぱり。七海さんっぽい」

にひひと目を弓形にして笑う。
彼女は無防備に笑い、持っていたジョッキを傾ける。ことこんな飲み会のような場所では妙な害意に当てられてしまわないよういつも隣に座るようにしていて、だから参加したくもない飲み会に参加するのももう慣れたものだった。

「飲み過ぎでは?」
「えぇぇそんなことないですよ、全然大丈夫です」

大抵の場合酔っ払いというものは自分が酔っていることを肯定したがらない。彼女もその典型で、ずいぶん前から目がどっしり据わっている。

「七海さんは飲まないんですか?」
「いえ、先程からずっと日本酒をいただいていますが」
「えぇぇ…あ、本当だ」

ミョウジさんはクンクンと私の手元のおちょこに鼻先を近づけ、アルコールの匂いに納得したように離れていった。
それからまたジョッキを傾け、飲み干して「すいませーん!」と店員を呼び止めるとおかわりを頼んでいるようだった。
へにゃりと笑う顔は誰にも見せたくないのだが、残念ながら私はそれを制限できる立場にいない。

「なーなーみー、飲んでるぅ?」
「…何ですか」

不意に、右から五条さんが寄ってきて、ごとんと透明な緑色の液体が入ったグラスをテーブルに置いた。五条さんお気に入りのメロンソーダだろう。
私は舌打ちしたいのを必死に堪え、お猪口をくいっと傾ける。無意識のうちに左側に座るミョウジさんを隠すように体が動いた。

「あっれミョウジ今日もチョー出来上がってんね」

最悪だ。どうせこの距離で、しかもノンアルコールの五条さんに見つからないだろうとは思っちゃいないが、それにしても最悪だ。
五条さんは私を飛び越えるようにしてミョウジさんに向かい「飲んでるぅ?」と意味もなく問いかけた。酔っ払ったミョウジさんが嬉しそうに「はーい!」と返事をしていた。

「つかさぁ、七海いつもミョウジの隣キープすんのに必死すぎない?超ウケるんだけど」
「わかってるなら無駄に絡んでくるのやめてもらっていいですか?」
「ヤダね」

ピクリとこめかみが動いた。五条さんが愉快そうに笑う。こっちは微塵も愉快じゃない。

「早く言っちゃった方がいいんじゃなーい?」
「何の話です?」
「え、大声で言っていいわけ?」
「やめてください」

私の気持ちをずっと前から知っている五条さんはこうしてことあるごとに私をからかってくる。しかも酔っ払ったミョウジさんが何も覚えていないというのをいいことに彼女が隣にいるにも関わらずストレートな物言いで絡んでくるのだから始末が悪い。

「そういえばミョウジ、この前京都の補助監督に声かけられてたよ」
「名前と特徴を教えてください」
「コッワ、お前今顔が完全に殺し屋だけど」

私の反応などどうせわかっているくせに五条さんが大袈裟に驚いてみせる。そんなことはいいから早くその補助監督の名前と特徴を吐いてほしい。
それから五条さんは「名前なんだったかなぁ」と首を捻り、最終的に五条さんが庵さんに連絡をしてその補助監督の名前と特徴を入手した。
五条さんがキラキラした目でこちらを見てくるので「銀座のパティスリーのミルフィーユで」と対価を述べると「まいどあり」と言ってメロンソーダをごくごく飲んだ。

「別にアナタなら私なんかにたからなくてもいくらだって食べられるでしょう」
「わかってないなぁ。七海が僕に敗北して差し出すスイーツだってところに意味があるんじゃん」

今度は我慢できずに大きく舌打ちをした。こうして面白がられるのは全くもって不本意だが、背に腹は変えられない。
情報は得たことだし早いうちに五条さんを何とか追い払おうと画策していたら、急に左隣が重くなった。

「ミョウジさん?」
「…あれぇ、ななみさん…ごめんなさい」

もたれかかってきたのはミョウジさんで、顔がずいぶんと赤くなっている。これは五条さんと話している間に何かビール以外のものを飲んだな…と彼女の前のテーブルを確認すれば案の定ショットグラスが転がっていた。乗せられるとつい飲んでしまうのは彼女の悪癖だ。

「あー、ミョウジベロベロじゃん。七海送ってやればぁ?」
「いえ、タクシーを呼んで…」

私がスマホを取り出して迎えを呼ぼうとすると、五条さんが手を掴んで止めて「はいはいお疲れお疲れー」と言って背中をぐいぐい押してくる。それからミョウジさんの手を引いてきて二人そろって追い出されるように店を締め出された。店先には既にタクシーが停まっており、五条さんの分かりにくい親切心に溜息をついた。

「ミョウジさん、自宅の住所言えます?」
「はぁい」

タクシーの後部座席にミョウジさんを詰め込み、そのまま自分も乗車する。くたくたのミョウジさんだが、夜風に当たったためか少しだけしゃんとし始めた。
運転手に彼女が自分の住所を告げ、タクシーが緩やかに走り始めた。ミョウジさんが車窓から夜の街を眺める。
光が線になり、街をきらきらと彩っていた。行き交う人々は様々で、くたびれたサラリーマンやべたべたとくっつくカップル、はしゃぐ学生、外国人のグループ。すべからく我々の守る人間だ。
しばらくタクシーが走り、ぽつんと彼女が口を開く。

「まだ、10時過ぎなんですね」
「ええ、恐らく家入さんと五条さんは伊地知君あたりを引き連れて二次会にでも繰り出すでしょうね」
「ごめんなさい、私が酔っぱらっちゃったから…」
「まぁ、あまり乗り気ではありませんでしたからね」

タクシーに揺られているうちに酔いがさめてきたらしく、彼女の口調がしっかりとし始めた。私は彼女がずっと窓の外を眺めているのをいいことに、視線をじっと彼女へ向けたままにしていた。
首筋は細く、髪が少し乱れてうなじで遊んでいる。通過する速度で街灯が次々とミョウジさんをいろんな色に染めていった。
シートの上にころんと転がされている彼女の手に、そっと自分の手を重ねる。少し驚いたようにぴくりと動いたが、逃げられることはなかった。

それから20分程度で彼女の家まで辿り着き、遠慮する彼女を「五条さんから徴収しますので」と嘘をついて丸めこむ。
ミョウジさんは後部座席からよろよろとしながら降りた。タクシーの運転手に待っていてもらおうかと思ったが、それは伝えずに「ありがとうございました」とだけ言って彼女を追いかける。
背後でタクシーが走り去る。

「大丈夫ですか」
「すみません、頭はしっかりしてきたんですけど、足が…」

よたよたと歩くミョウジさんのそばに寄り、肩を抱いて支えた。これは決して下心とかそういう類のものでなく、彼女の安全性を…なんて言い訳にもほどがある。
この期に及んでミョウジさんはまた「七海さん、やっぱりいつもいい匂いしますよね」と言った。

「誰かれ構わず言わないで下さいよ…」

思わずため息交じりにそう言うと、ミョウジさんが拗ねたように小さな声で「言ってないです」と反論した。
肩を支えながらマンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗って彼女の部屋があるという5階へ向かう。そっとミョウジさんを見下ろせば、首元がまだほのかに赤く染まっていた。
エレベーターが小さな音を立てて到着を知らせる。ミョウジさんの足取りはもうずいぶんとしっかりしていて、でも私は肩を抱いた手を離すことが出来なかった。

「七海さん…あの…」
「どうかしましたか」
「いえ、なんでもないです」

別れを惜しむようなゆっくりとしたテンポでふたりして彼女の部屋に向かう。夜風が少しだけ頭を冷静にさせたが、このあとのことを考えると自ずと体温がせりあがるような感覚になった。
いくらゆっくり歩いたって高々10メートルほどのマンションの廊下はすぐに終わりを迎えて、ミョウジさんの部屋だという突き当りに辿り着いてしまう。ミョウジさんがごそごそと鞄から鍵を取り出しカチャリと開錠する。

「…送っていただいて…ありがとうございました」
「いえ。戸締りはしっかりしてくださいね」
「はい。あの、えっと…その」

ミョウジさんは玄関に一歩入り、自然と手が離れて私たちは向き合う体勢になる。ミョウジさんは視線をうろうろと動かし、言いあぐねるようにはくはくと唇を動かした。それから潤んだ瞳で私を見上げ、ついに口を開く。

「…すきです」

ここで彼女の家に足を踏み入れるべきか、否か、逡巡している間にぐっと身体を引かれた。もつれ込むように引き入れられ、彼女の小さい身体がトンとぶつかる。こんなに弱い力で引っ張られたって踏みとどまろうと思えば出来たはずで、今こうして電気もついていない玄関で抱き合っているというのは、つまりそういうことなのだ。


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