仏の道か蛇の道か


私のひとつ下の世代には3人高専生がいるが、そのいずれも示し合わせたような特殊で強力な能力を有している。
まず五条家の五条悟。六眼で無下限術式の使い手。ガチで使いこなせるようになれば多分最強の術師になる。それから家入硝子。反転術式で他人の治癒ができる。こんな特殊な才能を呪術界が見逃すわけがない。
そして夏油傑。非術師の家に生まれた呪霊操術の使い手。何が楽しいのか知らないけど、私に絡みにくる変な後輩。

「先輩、お経教えてくれませんか」
「はぁ?」

その日も私は任務から疲れ果てて戻った高専で、待ち構えていた夏油に突然そんなことを言われた。彼は任務帰りの私をよく待ち構えてこうして話しかけてきた。

「なに、急に。私疲れてるんだけど」
「お疲れ様です」
「え、あぁ、ありがと…」

じゃなくて。

「なんで急にお経?」
「ナマエ先輩、実家お寺でしたよね?」
「そうだけど」

確かに、私の実家は術師である前にお寺である。小さい頃から嫌というほどお経は覚えてきた。だからって何で急に。

「そう言うことじゃなくて、必要なら授業でやるでしょ。なんで私に聞くのよ」
「授業では最近祝詞ばかりなので、神道の方を先にやるみたいですね」

腐っても学校というか、まぁ術師にとってある程度宗教的知識は必要になる。
なので神仏も宗派も超えて、必要な祝詞や経典、土着信仰や民俗学に至るまで、高専の座学で嫌でも学ぶはずだ。
少なくとも、わざわざ私が個人的に教えるようなことではない。

「うっかり教祖になるかもしれないじゃないですか。その時、デタラメでもお経ぐらい唱えれた方がいいんじゃないかと思って」

ああ、これではっきりした。

「夏油君、あんた先輩を揶揄いたいならはっきりそう言いなさい」
「あれ、バレましたか」

これと言って悪びれる様子もなく夏油君は口元に笑みを浮かべたままだ。夏油君はどうやら優等生らしいが、私の前ではあまりそういう顔を見せたことがない。もっと年相応のいたずらっぽい男の子の顔をしている。

「ナマエ先輩と話すきっかけが欲しかったので」

ハァ、と溜め息をついて、ずり落ちた荷物も背負いなおす。
私は夏油君のことを優等生だとはあまり思ったことがない。五条君と同じか、或いはそれ以上に問題児だと私は思っている。

「自販機のところに10分後に集合」

未だ目の前でにこにこ笑ったままの彼にそう言って、私は寮を目指した。なんだかんだと相手をしたくなってしまうのだから、結局のところ彼の手のひらの上だ。
10分後に自販機のところへ行けば、既に待っていた夏油君がひらひらと手を振っている。

「お経って、なんでもいいわけ?」
「はい。特にこだわりはないので」

お経の何たるかを完全に無視した罰当たりな発言だ。
まぁどうせ私と話すきっかけが欲しいとか適当なことを言っていたのだ。彼にそういう敬虔な心を期待するほうが無意味だろう。

「じゃあ、阿弥陀経ね」

如是我聞一時仏在舎衛国祇樹給孤独園与大比丘衆千二百五十人倶…。
私は幼少期から何度も何度も繰り返し唱えてきた阿弥陀経を唱える。
夏油君は目の前で目を閉じ、まるでクラシックでも聴いているかのような穏やかさだった。
15分ほどの比較的短い時間で阿弥陀経は終わる。仏説阿弥陀経と唱え締めくくると、夏油君はゆっくり瞼をあげた。

「ナマエ先輩、やっぱり声が綺麗ですね」
「そこ?」

それならなんでわざわざお経なんて唱えさせたのよ。とちょっとむっとして夏油君を見ると、私のほうをじっと観察していた。
睨んでやろうと思って見たはずなのに、逆に私が捕まったふうになってしまう。

「ナマエ先輩」

なによ、と、口に出そうとして、それは叶わなかった。
夏油君が私の顎を親指と人差し指で逃がすまいと把捉し、中途半端に開いた唇にキスをされたからだ。
薄くて少しかさついた唇が、何度か私の唇に押し当てられる。驚いて見開いたままの目で夏油君を見ると、細められた瞳がひどく獰猛に見えた。

「んぁ…ん、うぅ…」

どうしてキスをされているのかもわからないまま、ずっと主導権は夏油君が握っていて、私はどうすることも出来ずにそれを受け入れる。
そのうちにキスはどんどんと深くなって、夏油君の舌がぬるりと侵入する。
ざらついた舌先が私の上顎をなぞり、背筋にぞくぞくと言い得ない快感が走った。ゆっくり繰り返されているはずなのに、呼吸も出来ない。

「げと…く…」

いよいよ息ができない、となったとき、夏油君は離れ際上唇に吸い付くようにしてから距離を取った。

「な、に…してくれてんの、馬鹿」
「ナマエ先輩が可愛くってつい」

私は知っている。この男が私を先輩と呼びながら、本当はこれっぽっちもそう思っていないことを。

「付き合ってください」
「…それ、普通キスの前に言わない?」
「それは確かに。でも普通じゃないほうが記憶に残りますよ」
「屁理屈」

私たちの始まりは妙だった。
突然お経を唱えて、告白の前にキスをして、それからすぐにセックスをした。
一番妙だったのは、それらすべてを私はひとつも嫌だと思わなかったところだ。
彼は丁寧な口調で話し、まるで優等生みたいな温和な顔をする。けれどセックスは獰猛で乱暴で、壊されてしまうのかと思うほど熱烈だった。
その差にくらくらして、私はきっとこの先どんな男と寝たって、彼のセックスを思い出してしまうのだろうと、ぼんやりする意識の中で考えていた。


私は彼を傑と呼び、彼は私をナマエ先輩ではなくナマエさんと呼ぶようになった。私が四年生になって、去年よりもずっと任務が増えた夏の終わりだった。
傑は夜に私の寮室を訪れ、部屋に入るなり乱暴に抱き寄せた。傑、どうしたの。と言おうとして、私が言葉を発する前に傑が口をひらいた。

「ナマエさん、抱かせて」

抱きしめられたまま顔を首元に埋められて、傑の顔を見ることは出来なかった。
でも私は少しの躊躇いもなく「いいよ」と言って傑の背をゆっくりと撫でた。私にはそれくらいしかしてあげられることがないと思った。

「すぐる、泣いてもいいんだよ」

この言葉は傑に届いていたんだろうか。
私は傑に乱暴に抱かれながら、傑の分厚い身体を抱きしめた。少年から青年に作り変えられるこの年齢で傑の身体は随分とがっしり大人びていたけれど、まるで小さい子供のように感じた。
セックスはあんなに乱暴なくせに、終わった後の傑はひどく優しい。どちらが本当の傑なのかわからなくて、やっぱりいつも私はくらくらしてしまう。

「阿弥陀経って、どんな教えなんですか」

私に腕枕をしながら、傑が囁くような声で言った。それはあの日傑に唱えたお経だった。ピロートークにしては随分だなと思いながらも、私は傑に「阿弥陀経はね、極楽浄土の素晴らしさを教えてるの」と噛み砕いた内容を答えた。

「サンスクリット語の原題はスカーヴァティー・ヴィユーハ。幸あるところの美しい風景って意味」
「幸あるところの、美しい風景」
「そう。広々と辺際のない世界。極楽浄土の華池や宝楼、それから宝樹もみんな金銀珠玉を散りばめられていて、常に清浄で光輝いているの。寒くも暑くもなくて、そこは一切の苦がない場所なのよ」

一切の、苦のない。と、傑は私の言葉尻を復唱した。一体そこがどれほど素晴らしい場所なのか、俗世に暮らす私たちには分かりようもないことだが、場所を変えて言葉を変えて伝えられているのだからきっと大層素晴らしいところなのだろう。

「なによ、急に阿弥陀経の話なんかして。まさか術師辞めて教祖様にでもなるつもり?」
「はは、どうですかね…私にはあまり、向いてないと思いますけど」

確かに教祖という立場は、誰かを救う人間だ。自分ひとり救えないような人間のやることじゃないだろう。うっかりなるかも、と冗談めかしていた時よりも実のあるような言葉に、背筋がひんやりと冷えた。
私はそれを誤魔化すために傑の頭を抱え込むようにして、長い黒髪をさらさらと梳く。呪術師は極楽浄土になんか行けやしないだろう。そんな私たちが極楽浄土に思いを馳せるだなんて、全く滑稽な話だ。


9月。特級術師、夏油傑の離反は、呪術界に大きな衝撃を齎した。
事件の経緯を聞いて、私は妙に納得をしてしまったことを覚えている。彼の担任の夜蛾先生からも総監部からも「なにかそれらしい予兆はなかったか」と事情聴取を受けた。私に答えられる言葉はなかった。

「ミョウジサン」
「…五条君?」
「傑のこと…」
「ああ、さっき事情聴取受けてきたよ」

校舎内で五条君に声をかけられた。傑の親友という彼とは多少交流があったが、傑がいなければ会話もままならないほど希薄な相手だった。
五条君は呼び止めたくせに続きを何も話さなかった。私だって彼の立場ならきっと何も話せないと思う。

「阿弥陀経はね」

私はそう切り出した。
視線を落としているから、五条君がどんな顔をしてるかは分からなかった。

「極楽浄土の素晴らしさを教えてるの。私たちがそんなところに、行けるわけもないのにね」

私たちの行く先は、すべからく地獄である。解脱して極楽浄土の住人になろうなど、笑止千万だ。

「私は、傑と同じ地獄がいいな」

ぽつんと言葉がこぼれた。五条君が息をのむ音がする。私は顔をあげてにっこりと笑ってみせて「なんてね」と言ってその場を後にした。五条君がまた私を呼び止める声がしたけれど、聞こえないふりをして寮までの道のりを歩いた。


如是我聞一時仏在舎衛国祇樹給孤独園与大比丘衆千二百五十人倶…。念仏が漏れ聞こえる。
いかにも怪しい宗教団体の建物といった風情の建物。流線型の屋根が宇宙との繋がりを表しているとかそんなこと言いだしそうな。
ここを探すのは随分と手間取った。傑がいなくなってから実に八か月。ひっそり情報を収集し、五年生になってからトンズラするように高専を出てきた。

「すみません、ここに夏油傑がいると聞いたんですが」

私は敷地内で一番初めに出会った髪の長い女性に声をかけた。女性は訝しんで私を見て「夏油様に何かご用ですか」と警戒心を解く様子はない。

「阿弥陀経を唱えに来たと、伝えていただけますか。それだけで分かるはずですから」

私は頭を下げ、しばらく黙ったあとに女性は「伝えるだけでしたら」と私にここで待つように言って怪しげな建物の中に引っ込んでいく。
夏油様、だって。今そんなふうに呼ばれてんだ。

「ナマエさん…?」

しばらくして、懐かしい声で名前を呼ばれた。
怪しい建物の出入り口に、胡散臭い袈裟姿の傑が立っている。お団子は辞めてハーフアップにしたらしい。教祖様になってるんだったら坊主くらいしてるかと思ったのに。
私は目を瞬かせる傑にずんずんと近寄り、人差し指を伸ばして額をつんとつついてやった。

「…うっかりしてんじゃないわよ、傑」
「…似合いませんかね」
「似合わなすぎて笑っちゃう」

傑は私の手を引いて、身を任せた私はその腕の中にすっぽりと納まった。きっと教祖様になってから始めただろう白檀の香の匂いが鼻腔をくすぐり、まるで傑じゃない気がしたから傑だと確かめるために、もぞもぞ顔を動かして腕の中から傑を見上げる。

「どうしてここに?」
「蛇の道は蛇っていうでしょ。私の実家、宗教法人なのよね」
「それは心強いな」

例えば行く先が地獄だとして、私はこの男がそこに行きたいと言うなら地獄にだってついていく。そうして辿り着いた場所がどんなに過酷な場所だったとしても、そこで阿弥陀経でも唱えてここは素晴らしい場所だって、私がみんなに教えてあげる。


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