最高気温


八月某日。うだるような暑さが続いている。郊外の山の上にある高専とはいえ真夏の暑さは厳しい。この時期はいくら水分補給をしてもとったそばから全部汗で流れていく気がする。かくいう私も先ほど買ったばかりのスポーツドリンクをすっかり飲み干してしまって、スポーツドリンクの飲み過ぎは糖質過多になって良くないと思いつつも、もう一本買いに行こうかと迷っていた。
こめかみから伝う汗を拭うと、がらりと教室の戸が引かれた。

「げーとーうー」
「ナマエ?」

教室にワイシャツ一枚でゾンビの如く現れたのは同期のナマエだった。確か今日は悟が実家に呼ばれたとかで渋々帰っていて、硝子は京都に呼ばれている。二人そろって同じ新幹線に詰め込んで硝子の護衛を悟にやらせようという腹積もりなのだろうが、それが上手くいってるかどうかは分からない。
そんなわけで今日の一年の教室には私とナマエしかいなかった。

「すっかり溶けてるね」
「この暑さヤバすぎでしょ、見た?今日の最高気温」
「何度?」
「知らない。知ったら余計暑くなる気がする」

まるで知ってて尋ねてきたかのような口ぶりだったくせに、随分な返事だ。確かに数字を見たら余計熱くなる気がするな、と思い私もケータイで調べるのは辞めた。

「ねぇ、スポドリひとくちちょーだい」
「あ、ごめん。さっき全部飲んじゃったんだよね」
「えぇぇ…私のぶん残しといてよぉ…」

それくらい自分で買え、と言えないのは惚れた弱みというやつで、私は目の前でぐでんぐでんに溶けているミョウジナマエという女の子のことが好きだった。
ナマエは暑さにめっぽう弱いらしく、夏が始まってからはずっとこの調子だ。古い校舎だからエアコンなんて完備されておらず、水色の羽根の扇風機がカラカラと回るだけの教室はナマエにとってコンディション最悪らしい。

「あれぇ、硝子はぁ?」
「京都高専。悟も実家だって」
「あー、そういえばそんなこと言ってたね…」

ナマエはよろよろと何とか自分の席まで足を運び、べっとり机に張り付くようにして天板のわずかな涼を貪っている。果たしてそれでどれくらい涼しくなるかは分からないが。
「硝子いないのかぁ」などと言いながらナマエは意味もなく足をぶらぶらとさせ、右の頬がぬるくなったようで今度は左の頬を天板にくっつけた。

「…ナマエ、今度の休みプール行く?」
「行きたい…!…けど暑いかなぁ…」
「水に入ってればそこそこ涼しいだろ?」

正直なところ、私は鈍い彼女を振り向かせるために結構必死で、何か戸理由をつけてナマエと二人で出かけることが出来ないかと画策していた。四人しか同級生がいないせいで大体なんとなく四人セットで行動することになってしまうし、そうでなくてもナマエは女同士硝子と仲がいいから放っておけばずっと硝子と一緒に過ごしている。べったりされるのが嫌いそうな硝子も満更でもないようだから余計に付け入る隙がない。
だからこうして二人きりになった貴重なタイミングで声をかけるようにしているのだけれど、分かっていないのかそれともかわされているのか、色よい返事はなかなか貰えない。おそらく、前者だろうと思うけれど。

「プール行ったらすんごい注目集めそうで嫌だな…」
「何が?」
「五条。あいつ見た目だけは芸能人ばりでしょ」
「ああ、そういう…」

まただ。誘ってみてもこうして四人で行くことを前提に考えられている。そりゃ私も二人で行こうと言ってはいないけれど、そんなに当たり前に四人で行くって思わなくてもいいだろ。

「あと普通に夏油もかっこいいから面倒なことになりそう。硝子も美人だしすんごいナンパされそう」
「え、あ、うん」
「行き帰りも暑いしね…せっかく涼しくても帰りに汗かいたらなんかどんよりしちゃう…」

あまりにもついでに言われ過ぎて反応できなかったけど、今私のことなんて言った?
まさかそんなふうにナマエが思っていたとは知らず、私がぽかんとしている間にもナマエのプールに対する持論は展開されていく。
これは脈ありなのか、それとも意識もされてないということなのか。気だるげにうだうだと動き続けるナマエの口元を見つめた。
すると途中でナマエが何かに気づいたとでも言うように「あ」と中庭を眺めて声を出す。

「水浴びすればいいんだ」
「…は?」

ナマエはアイスのように溶けていたとは思えぬ素早さで立ち上がると、ばたばた忙しない様子で教室を出る。それから立ち止まってひょっこり私に顔だけを見せて「夏油も行こ!」と嬉々として言った。
私は何が何やらと思いながらその後ろを追いかけて、ナマエは足が速いからうっかり見失いそうになった。
しばらく全力で走らされて辿り着いたのは、補助監督が整備をしているらしい花壇のそばの空きスペースだった。ナマエは短いスカートをひらひらさせながら右に左に動き、私に向かって「じゃーん!」と青いホースを見せつける。これはいつも片隅で丸まっている水やりやなんかに使う普通のホースだ。

「え、ナマエまさか…」

そのまま水浴びするつもりか?と尋ねたところで遅く、ナマエは「えい!」と勢いよく蛇口を捻った。またたくまに水はホースを通って先から勢いよく噴出され、ばちゃばちゃと派手に跳ね返りながら地面を濡らす。

「あはは!勢い余った!」
「いや、ナマエ制服!」

私の制止などはなから聞くつもりはないようで、ナマエは暴走寸前のホースを片手にくるくると駆け回る。走ったあとがミミズのように線になって濡れていく。
ナマエは一直線に私を追いかけ、危機を察して逃げたはいいが、前述のとおりナマエは足が速いためすぐに追いつかれて水をかけられた。

「あっ!こら…!」
「いひひ、隙あり!」

ナマエはらんらんとした笑顔でざぶざぶと私に向かってホースを向ける。何度かは避けても全部を避けきることは出来なくて結局少しの攻防ののち頭から水浸しになった。
いたずらが成功したと飛び上がるナマエに仕返しをしようと、私はずんずんと歩み寄ってホースを取り上げた。

「えっ!ちょ、夏油待って待って!」
「待たない」

これから起こるだろうことを予測したナマエが瞬時に走り去ろうとするが、そうはさせまいと私はナマエの足元にホースの水をひっかける。さすがに頭からかけたら女の子だしあんまり良くないだろうというなけなしの配慮である。

「ひゃッ!つめたッ!」
「水浴びなんだからいいだろ」
「そうだけどさぁ」

すっかり濡れてしまった足元をぱちゃぱちゃと遊ばせる。地面には水たまりが出来ていて、それでもあまりの暑さにすぐ干上がってしまいそうだ。

「ほら、ふざけるのもこのくらいにしないとーー」
「えいっ!」

ナマエは私の手元からホースを抜き取り、くるっと反転させてまた私に向かって水をかけた。私はまたもろにそれを浴び、太陽光であったまっていた皮膚の上に再び冷たい水が上書きされる。

「こんの…」

そこからはホースの奪い合いだ。私はナマエからまたホースをひったくり、足元に水をかける。そうすれば今度はナマエがホースを引っ掴んで私に水をかけた。
繰り返すうちにナマエの手元が狂い、頭から水をかぶってぐっしょりと濡れる。

「えへへ、びじゃびしゃー。でも気持ちいいや」

それは何よりだよ、と言おうとして、ナマエのワイシャツが水に濡れて透けてしまっていることに気がついた。白いシャツの向こうにうっすらオレンジ色っぽいキャミソールが見えている。
私は咄嗟に目を逸らしたが、自分がどんな格好になっているかも分かっていないナマエはきょとんと首を傾げている。

「いや、ナマエ、服」
「え?あーすぐ乾くでしょー」
「そうじゃなくて」

多分これ、キャミソール着てるからいいだろうと思ってるな。鈍い彼女の考えることはだいたいお見通しで、私はため息をついて濡れて重たくなった上着を脱ぐと彼女に差し出した。

「いいよ、寮戻って着替えるし」
「私が嫌なんだよ」
「寒くないし風邪も引かないってば」

私はその考えなしの様子がちょっとだけ頭にきて、透けた下着の肩紐をつうっと撫でた。ナマエはその感触にびくりと身を震わせる。ここまでしてやっとなんて、どれだけ意識してないんだと情けないやら悔しいやらで思わず口角が下がった。

「…ナマエ、私のこと意識してなさすぎだろ」
「えっ…」

ぐっと顔を近づければそのままキスをしてしまいそうになって、寸でのところで踏みとどまった。
手に持っていた上着を今度は強制的にナマエの濡れた肩にかける。いや、人目から隠すつもりだったが、これはこれで目に毒だ。

「…夏油の匂いする…」
「え、汗臭かった?」
「んーん。いい匂い」

ナマエが袖口に顔を埋めてにへらと笑う。その顔が可愛くてどうにかしてしまいたくて、私は我慢できずに腕を引いた。
少しの抵抗もなく寄せられた身体は華奢で、例えば昔お祭りで見かけた飴細工とかふわふわ空を漂うシャボン玉だとか、そういうもののように思えた。

「…夏油、今度プール行こ」
「…君は無防備すぎて心配だから要検討だな」
「じゃあ夏油が一緒にいてくれればいいじゃん」

ナマエが小さい声でそう言って、見下ろした腕の中で耳まで真っ赤になっていた。
その熱が伝播して来るようで、水浴びで散々冷やされたはずの体がどんどんと熱くなっていく。

「…まったく、君ってやつは…」

どうしてこんなに振り回されてしまうのか。それはひとえに、惚れた弱みというやつだ。
ぽたり、黒い髪の先から雫が地面に落っこちていった。足元の水溜りに小さい虹がかかっている。


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