あまのじゃく


ちょっと大きめの容器製造機械メーカーに勤めている。好きなことは食べること。彼氏はいない。三年前に浮気されて捨てられたっきり。そういえばあれってもしかして相手の女の子じゃなくて私の方が浮気だったのでは。と思うも今となってはどうにも確認しようのないことだ。
そんな私の部屋には、昨年から妙に毛並みの良い野良猫が現れるようになった。

花の金曜日、というのにどこにも寄らずに帰宅した私は冷蔵庫を開けて震えた。

「直哉くんのバカー!!」

私は全力で叫んだ。食べようと思っていたプリンが忽然と消えている。この部屋の鍵を持っているのは私と隣県に住む母と、いつの間にかうちに転がり込むようになったこの男だけ。当然なくなったプリンはこの男の胃袋に収まっているに決まっていて、上記の絶叫につながるというわけだ。

「うっるさ、何やの、キーキー猿かいな」
「何やの、じゃないでしょ!私のプリン!金曜日の楽しみに買っておいたのにぃ…」
「あー、あのプリンな。ごっつマズかったわ」
「せめて美味しかったって言ってよ!」

この男は直哉というらしい。苗字は知らないし、素性も知らない。
かろうじて知っていることは彼が京都在住であるということと、何だか由緒正しいお家柄に生まれているということ。そんな彼がどうして東京の片隅の、何の変哲もない狭っ苦しいアパートに足を運ぶのかは全くの謎である。

「直哉くん今回は何日いんの?」
「さぁ。三日くらいちゃう?」
「ちゃう?ってまたアバウトな…」

他人事のようにそう言って、直哉くんはソファにごろんと横になる。彼は今時冠婚葬祭とお正月のテレビでした見ないような袴姿で、シワになっちゃうよと何度注意しても気ままな様子で聞く耳を持たない。

「はぁ、プリンまた明日買ってこよ…」
「せやったら俺の分も買うてきてや」

嫌、マズかったんちゃうんかい!心の中で突っ込んでは見たものの、それが届くはずもない。私は抗議するのも諦めて、一週間の疲れを癒すためにお風呂場に向かった。戸棚に置いてた特別な日用のちょっと良い入浴剤は当然の如く直哉くんに使われていた。

「…どうぜ使うならお湯残しといてくれれば良いのに…」

風呂洗いなんかしないくせにしっかりお湯だけ抜いているところを見るに、私に嫌がらせをしたかったんだろう。
素性も知らない男がこの家に出入りし始めたのは一年ほど前のことだった。


当時私は今の部署に移ったばかりで、毎日終電近くまで残業していた。新しい仕事に慣れようと毎日四苦八苦していて、その日も散々な目に遭いながら業務を終え、終電で家路についていた。

「あのハゲ部長…絶対許さない…」

部署が変わって最悪なことにはちゃめちゃに厄介な部長の元で働くことになった。ちなみに全然ハゲてはいないので、このハゲ部長というのは言葉の綾だ。恨み言を唱えながらとぼとぼ歩いていると、不意に右手の神社の方からドンッと物音が聞こえた。何かがぶつかったような音で、こんな夜更けに一体なんだろうと思ったものの、怖くてスルーを決め込んだ。
ドン、ドン、ドン。物音は数回にわたって聞こえ、しかもこちら側に近づいてきた。いやいやいやマジなにこれ。まさか強盗!?誘拐!?頭の中に物騒な言葉がポンポン浮かび上がる。逃げようと走ってもパンプスだから全然上手く走れない。社会人女性はヒールの靴を履くべきみたいなしょうもない風潮まじで滅びろ。

「ひっ…!」

物音はついに真後ろまで迫って、もうダメだと覚悟した。実家のお父さん、お母さん、犬のポチ、インコのハルヨ、私の人生はここまでのようです。走馬灯が頭の中を駆け巡り、初恋の先輩やらお世話になった中学の先生までも頭の中に思い浮かんだ。ドン、湧き上がった音に押されてそのまま地面に転がる。やば、死んだ、絶対死んだ。さよなら世界。と勝手に世を儚んでいたら、頭上から人の声が聞こえた。

「おい、生きとるか?」

それはちょっと、いや、かなり男前な人で、綺麗な金髪が街灯でチカチカ光っている。この人がさっきの物音の出どころ?てかあんな物音出るってなにが起こってたの?まさか。

「は…犯人…?」
「ア?」

彼は眉を顰めてとんでもなく凶悪な顔をする。男前だから凄まれるととんでもなく怖い。彼は腰を折るようにして上からしげしげと私の顔を観察し、それから失礼にも「意外と悪ないな」と言った。品定めされたと知るにはあまりある物言いに死ぬほど腹が立って、プラス仕事の疲れとハゲ部長への怒りで、私は何というかもう我慢するということが出来なかった。

「何なんですかいきなり」
「ハァ?うっかりとはいえ助けられた人間のいうセリフやないやろ」

助けたって一体何からだよ。この人が物音の正体ならこの人のせいで死を覚悟したも同然なんですけど?

「あーあ、これやから女は嫌いやねん口先だけでギャーギャーと…」

かちん。ばつん。頭に血がのぼり、堪忍袋の尾が切れる音がした。
というのも、これはまるまるハゲ部長に言われた言葉のなのだ。何だよ、女だからって、女だって好きで女に生まれたわけじゃないんだよ。そりゃ女だから得したなって思うことはなくはないけど、少なくともお前になじられるだけの理由にはならないだろ。

「…人の顔見て…品定めしてんじゃねー!」

とはいえまさか見ず知らずの男に殴るかかるなんてことをしでかすとは、自分でも予想外だった。しかもグーで。
私はよろよろたち上がると、男前に向かって勢いよく振りかぶる。顔を狙ったはずの拳はあっさり受け止められ、そのまま引かれて体勢を崩した。

「クソ女、俺の顔に傷ついたらどないしてくれんねん」
「あんたが先に失礼なことしてきたんじゃない!」
「先に手ェだしたんはオマエやろ」

それは…そうだけど…。ご指摘ごもっともで、語尾がするする弱まって込めていた力をふっと抜く。超むかつくけど超ド正論。いきなり殴りかかるなんて流石に大人としてどうなんだ。
私は小さい声で「すみません」と仕方なく謝って、彼はまた私をジロジロと観察した。

「俺今腹減ってんねん。悪い思ってんなら飯食わせろや」
「は!?なんでそんな話に…」
「ア?なんか文句でもあるんか?」

もう顔がほぼヤクザだった。そこで文句を言う勇気は流石になくて、私は一も二もなく頷いた。彼は満足そうに笑い、マズかったら殺すで、とまた物騒なことを言った。
結局この後彼は私の家に上がり込んで一緒に鍋をつつき、シャワーを浴び、少しのムードもへったくれもなく私を抱いた。それから今日はここで寝るとのたまって私のベッドを占領し、私は仕方なく床で寝た。

これってもしかしなくても恐喝とレイプなのでは?と何でもない顔をして出て行った彼の背中を眺めながら気がついた。まぁ、怪我はしてないしセックスも別に傷ついたわけでもない、何より起こってしまったことは仕方がない。犬に噛まれたとでも思って忘れよう。そう飲み込むことにした矢先、彼はまた私の前に現れた。

「えっと…どうも…?」
「何やねんそのアホ面。腹へった。さっさと飯作れや」
「いやいや何でここにいるのよ」

彼は当たり前とでも言う口振りで私の部屋の前で夕飯を要求した。お隣さんが何事だと言わんばかりの視線を投げて通りずぎたから居た堪れなくなって、とりあえず彼を家の中に入れて、まぁこれが悪手だったので、交渉の余地もなく私は夕飯を振る舞うことになってしまった。
特にこれといって特色もないホッケの開きとか浅漬けとかお味噌汁とか、そういう食事を彼はマズイマズイと言いながら食べた。そんなマズイ飯をタカリに来てるのは誰だよと思ったが、言ったらろくなことにならない気がしていたのでやめた。
そのまま彼はシャワーを浴び、私にも浴びさせると当然のようにベッドに私を押し倒した。念のためもう一度言っておくが、私と彼はセフレなどではなく、ましてや恋人などではもっとない、どうしてこんなことになっているのかと思いながら私は意を決して彼の顎に手を当てて、ぐっと動きを止めて言った。

「名前も知らない人と2回もセックスしたくないんだけど…」
「ア?」

いや、どうしてそれを言ったんだ私。もっと言うべき言葉はたくさんあったけど、こんなもんでも出ちゃったんだから取り消しはできない。
吊り目をパチパチさせる彼はそのうちに形のいい唇をそっと動かして言った。

「…直哉」

なおや。それが彼の名前らしい。可愛い名前だなと思っていたら直哉くんはもう良いだろうと言わんばかりに動き出し、乱暴なセックスをしていった。
いつもふらっと現れては部屋の前で座り込みをするもんだから、外聞が悪すぎて合鍵を渡した。「オマエあほやろ」となじられたが、合鍵を心なしか嬉しそうに見ている直哉くんを見たらどうでも良くなってしまった。


セフレというほどお互いのことを知っているわけではない。私はそういう関係の人がいたことが昔あったけど、あっちの方がよっぽど丁寧で気持ちのいいセックスができる。直哉くんのは随分乱暴で独りよがりで、女にモテないセックスだ。
まるで母親に甘える子供みたいな純粋さと身勝手さだった。

「ねー直哉くん、今日は何で東京きたの?」
「仕事」
「どんな?」
「言われへん」

私は直哉くんの座るソファの真ん前に座り込み、冷凍庫からすっかり霜のついてしまったアイスキャンディーを取り出して食べる。
直哉くんはなにも教えてくれない。だから私はこの男の友達でも、セフレでも、恋人でもない。

「直哉くんってヤのつく自由業?」
「世の中知らん方がええこともあんで」
「ひゃー、コワ」

直哉くんはヤクザかもしれないし、もしかしたらもっと悪い人かもしれない。結局初めて会った日の音の正体を私は知らないままだし、知る必要もないのだろうと思う。直哉くんは、私の知らない世界の人なのだ。

「ナマエ、こっち来」
「え、ちょ、アイス食べてるんだけど…」

私のことはお構いなしで直哉くんは腕を引いて、落ちそうなアイスを勝手に平らげると私のことを向かい合わせにするように抱きかかえた。ちょっと、プリンのみならずアイスまでも?

「やっすい味やな」
「文句言うなら食べなきゃいいのに…」

勝手に人のものを取っておいて随分な言い様だ。もう慣れっこなこのやりとりに少しだけ心地の良さみたいなものを感じていると、直哉くんの指が私の顎を強引に捕まえてキスをした。
直哉くんの口はアイスのせいですごく冷たくて、ずっと食べ続けてた私の口より冷たく感じた。絡められる舌は蛇のように自由に動き、私はすぐに抵抗する術を失う。

「マッズ。ナマエ、ほんまにずうっとキス下手くそやな」

嫌ならしなきゃいいのに。そう思うのに、キスってどうやったら上手くなるんだろうなぁ、と、考えてるから私は馬鹿女なのだろう。

「じゃあ直哉くんがキスが上手くなる方法教えてよ」
「そんなん経験あるのみやろ」

直哉くんはくるっと体を反転させ、私をソファに組み敷いた。金髪が部屋の蛍光灯で透き通って見える。
きっと直哉くんはいつか私のもとを去るだろう。それを引き止める方法を私は知らないし、探すつもりもない。
ただ今目の前にある乱暴で独りよがりのセックスを、愛おしいと思って受け入れるだけで良いのだ。


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