深夜零時の浜辺にて




※なんとなく数年後、渋谷の起きてない謎時空です。


「海に行こう」

唐突にミョウジがそう言い出した、夏の終わりの午後10時。ミョウジはショートパンツにTシャツという部屋着か外着かいまいち境界線の曖昧な服装で俺の寮室に現れ、俺のTシャツの裾を掴んだ。伸びるから辞めろと何度も言っているのに未だこの癖は改善されない。

「こんな時間からアホか」
「いいじゃん、明日授業ないし伏黒も任務ないでしょ?」

ねぇ、ねぇねぇ、とミョウジは遠慮なくTシャツを引っ張り続け、俺は「伸びるから辞めろ」と何度目かもわからない注意をした。
ミョウジは「いいじゃん、行こうよ」と言って、今度は腕をキュッと引く。触れられたところが圧迫感と熱を持つ。

「帰らない前提かよ」
「だって終電なくなっちゃうし」
「明日の昼間に行けばいいだろ」
「やだ。今からがいい」

こうやって突拍子もないことを言い出すのは割と昔からで、大概そういう時は嫌なことがあったあとだった。好きになった人に彼女がいた、初めて付き合った彼氏と別れた、可愛がっていた猫がいなくなった、優しかった先輩が死んだ。その重さは外野から見れば随分と差があるように見えたが、本人にとっては常にひとつの重大な出来事だった。
俺が同行を渋るとミョウジは引っ張っていた俺の手を離し、行き場を無くした手を後ろで組む。

「…じゃあ誰か他の人誘うもん」

ふいっと視線を逸らし、唇をつんと尖らせた。誰かを誘うって、と頭の中で数人の候補を思い浮かべ、思わず苦い顔になる。虎杖あたりだったら根負けして承諾しそうだ。

「…なんか羽織るもん持ってこい。夏だけど夜は冷えるだろ」

俺が暗に同行を承諾すると、ミョウジはぱあっと表情を明るくして「すぐ取ってくるね!」と女子寮の方へと走っていった。結局ミョウジの突拍子もない行動を、俺は一度も拒否したことはない。


ミョウジナマエという女に出会ったのは、中学二年の頃だった。
非術師の家系に生まれたミョウジはどうしてだか随分古くに途絶えた珍しい術式を持っていて、思いがけずとある事件を引き起こしたことによってそれが発覚した。
調べたところによると、途絶えたとされているその珍しい術式を持った一族の末裔が、明治時代にミョウジの家に婿養子に入り、そこからうっすらと受け継がれてきたらしい。とんでもない確率だとは思うが、それを引き当ててしまったのがミョウジだ。

「…うちに帰りたい」

ミョウジは事件をきっかけに家を失った。両親が離婚して母方に引き取られたものの、その母が再婚することが決まって自分の居場所を無くしたのだ。
ミョウジは事件を担当した夜蛾学長の計らいで高専の寮に住むことになった。俺はその頃まだ津美紀と暮らしていたけど、五条先生に連れられて高専に出入りしていたから時々顔を合わせることになった。

「帰るところないんだろ」
「うん…」
「じゃあここにいろよ」
「…帰りたい…」

ミョウジは目まぐるしく変化した自分の状況にひとつもついていくことが出来ずに疲弊していたし、俺もうまく言葉をかけることができなかったから、ろくに会話は続かなかった。正直ずっと辛気臭い顔を晒しているミョウジのことを面倒だと思ったし、五条さんから「貴重な同級生なんだから仲良くしたら?」とからかい半分に言われても全くそうなれる気はしなかった。

俺とミョウジの関係に変化が訪れたのは、出会って一年後の中学三年の夏だった。その年の春に津美紀が原因不明の呪いにより寝たきりになって、俺は心の在り処を彷徨わせていた。五条先生でもわからないなんて本当に詰んだと思った。どうにか津美紀の目を覚さなければと考えれば考えるほど、胸に鉛を流し込まれたように重心がぐらついた。

「伏黒」

誰も触れてくれるなと言わんばかりの態度だった俺にミョウジは少し固い声で話しかけてきた。俺は無言で視線を上げることで応えようとして、目の前のミョウジの強い瞳に動揺した。

「湖行こう」

ミョウジはそう言って、俺の応答を待たずに俺のTシャツの裾を引く。俺はなんだか振り払うことが出来ず、ズルズルとミョウジの歩く方向についていく。
じわじわと蝉の鳴く高専の森をどんどん進んで、無言のまま20分近く足を動かした。針葉樹が光を幾分か遮って影を生み出す森は鬱蒼とした空気を放っている。不意に、何の前触れもなく視界が開けて、目の前に直径十メートルほどの池が現れた。
透明度が高く、底の砂利や水草が透けて見える。水面の模様が揺れて光の輪がチラチラときらめく。
それに見惚れていると、引っ張られていた裾が解放され、隣の人影が走り出した。

「え、おい、ミョウジ…!?」

まさかと思った時にはもう遅く、ミョウジはそのまま池に向かって飛び込んでばしゃんと大きな水飛沫が上がる。あまりの勢いに俺の方にまで水滴が飛び散り、Tシャツが派手に濡れた。

「この湖ね、最近のお気に入りなんだ。ヤなことあってもここでバタ足してるとどうでも良くなってくるんだよね」

ミョウジは胸ほどの深さまで水に浸りながら、俺に向かって言った。ああ、俺を元気づけようとしているのだと、その時やっと一連の意味不明な行動の動機を悟った。

「…こんなとこに服のまんま飛び込むとかバカすぎるだろ」
「そう?結構気持ちいいよ?」

ミョウジはそう言い、宣言通り透き通る水の中でバタ足をして泳いでみせる。それが思いのほか本気で、俺はまた水飛沫を被った。
向こう岸までバタ足をして、それからまたバタ足でこちら側に戻ってくる。そのあとざぶんと頭のてっぺんまで水に浸かって、顔を上げれば髪がぺったりと頬に張り付いた。
そのまま水をかき分けて岸に上がると、今度は濡れたTシャツがミョウジの体のラインに沿って張り付き、俺はふいっと視線を逸らして適当な話題を探す。

「あと多分これ、湖じゃなくて池じゃないか?」
「え、こんなに綺麗なのに?」
「湖ってだいたい真ん中が五メートル以上あるようなもんをそう呼ぶんだよ」
「そうなんだ。伏黒物知りだね」

どこかで聞き齧った知識に基づいてそう述べるれば、ミョウジは感心したようにそう言って、へにゃりと笑った。俺はこの日、初めてミョウジの笑った顔を見た。
この日から俺はミョウジのことを目で追うようになって、ミョウジは突拍子もない思いつきに俺を誘うようになった。


電車に乗って目的地にたどり着く頃には、当然ながら海の最寄り駅に人影はない。八月の終わりとはいえ、深夜0時を回ったこんな時間に海水浴場でもない海に好き好んで足を運ぶ人間はそうそういないだろう。

「あ、花火持ってこればよかったね」
「下手したら通報されるだろ」
「え、そうなの?」
「最近は割とうるさいらしいぞ」

えぇぇぇ。と情けない声でミョウジが言い、恨めしい声で「花火もしたかった…」と続ける。俺が「今度の休みにやりゃいいだろ」と言うと、ミョウジはぱぁっと表情を明るくした。俺はこの顔が好きだった。

「たくさん買おうね! 手持ち花火と、打ち上げのやつよ、あと線香花火と鼠花火!それからヘビ玉も!」
「ヘビ玉って面白いか?」
「ニョキニョキニョキって見てて面白くない?」
「全く」

浜辺に向かいながら、ミョウジは嬉々と花火の計画を立てる。指折り数えた最後に出てきたヘビ玉の良さは残念ながら理解できない。そのうちに浜について、ミョウジはサンダルと薄手のカーディガンを脱ぐと波打ち際に向かって駆け出した。

「おい、ミョウジ!」

彼女がどうするつもりなのかは実のところ海に行きたいと言い出した時からわかっていたし、もう止めてもどうしようもないと経験則で知っている。申し訳程度の制止をしたが、当然のごとくミョウジはそのまま海に向かって突っ込んでいった。
ざざん、ざざざん、と寄せる波音がばしゃばしゃとミョウジが立てる音で乱された。

「ふしぐろー、気持ちーよー」
「お前本当によくやるよな」
「伏黒もおいでよ」
「絶対嫌だ」

腰まですっかり海に浸かり、着替えも持ってきていないくせにミョウジはどうやって帰るつもりなのかとこめかみを押さえた。
そんな俺の頭痛に構うことなく、ミョウジは波に逆らうように沖へと歩いていく。

「おい、あんま遠く行くなよ」
「平気平気」

話を聞かないのもいつも通りだ。俺はこうなるだろうと思って持ってきていたバスタオルの入ったトートバッグを置き、裸足になってスマホと財布を避難させて波打ち際の、ぎりぎり海水の被らないところに立った。

「今回は何だよ」

暗くて見えもしない水平線を見ようとするように沖を眺めるミョウジにそう問いかける。今日は誰かに不幸があったとかそんな話は高専で聞かなかったし、最近可愛がっている野良猫も夕方にメシをやったばかりだ。海に行きたくなるほどとはまた何だったのか。

「…れた」
「はぁ?」
「フラれた!」

ミョウジが勢いよく振り返る。暗くてよく見えないが、声音から相当落ち込んでいるんだろうと言うことは伺えた。
確か今片想いをしているという男は任務の関係で知り合った一般人の大学生で、今度デートをすると言っていたような気がする。また急だな、と思っていたらミョウジがそのまま言葉を続けた。

「彼女いた!デート行って今日泊まって行きなよとか言われてたけどもう最悪!絶対ヤリ捨てるつもりだったんだよ!」

わぁわぁと喚くけど、屋外だから響くことはない。これ寮室でやられてたらなんだなんだと先輩も虎杖も俺の部屋まで来てただろうな。虎杖なんかは隣室だからすぐにわかるはずだし。
ミョウジはそのままその男を始めどういうふうにいいと思ったか、いかにいままで気のある空気を出してきたかをぽつぽつと述べていく。どうせどうにもならない男の話だというのにこうして話すのは、きっとミョウジのなかで感情を整理するためなんだろう。

「男なんてどうせみんな簡単に浮気するんでしょ!」
「いや、それは人によるだろ」

一応はそう突っ込んでみたが、もちろんミョウジに聞く気はないようなので今度はそのまま浮気男批判が続けられた。
ミョウジの両親の離婚のきっかけはミョウジの引き起こした事件ではあるが、そもそも父親は根っからの浮気症でどうしようもなかったと聞く。だからミョウジは誠実な男を求めていて、同じくらいそんな男はきっといないと恐れていた。

「あーあ、私のことだけ好きでいてくれて浮気しない人と付き合いたい…」

人に気も知らないで。
ミョウジは腕を動かしてちゃぷちゃぷと海面を撫でる。何年も平気だったはずなのにこのときどうしてだか俺の張り詰めた風船がパンっと割れて、どうしようもなくなってざばざば海の中へ足を進める。ミョウジはギョッと俺を見て、そんなこともお構いなしで俺はミョウジの正面に立った。

「俺は?」
「…は?」
「付き合うとかよくわかんねぇけど、俺はずっとミョウジのこと好きだし、絶対浮気もしない。」

早口でそう言った。
暗闇の中でミョウジの顔はあまりよく見えないが、目だけが光って見えた。目は光を放つものだと、どこかの芸術家が言っていたような気がする。

「好きだ」

俺は濡れた手でミョウジの腕を引く。ざぷんという水の音と一緒にミョウジのぐらついた身体が傾いて、俺は逃がしてしまわないように腕の中に閉じ込めた。

「き、聞いてない…」
「言ってなかったからな」

今日言うつもりだってなかった。
なのにミョウジが俺の気持ちも知らないと思うと無性に腹が立ったんだ。抱きしめたミョウジの身体は海で冷やされているはずなのにひどく熱を持っていて、それが俺のせいだと思うと腹の奥がくすぐったいような気持ちになる。

「で、返事は?」
「ま、前向きに検討させていただきます…」
「ん」

まさに青天の霹靂だったのか、ミョウジはそう答えるにとどまって、まぁ俺も、失恋したすぐ心変わりしろとは言えないからもうしばらく待つつもりだ。
俺はミョウジを解放し、手を引いて浜に戻る。思ったほど夜風は冷たくなく、この分だと案外乾くのは早いかもしれない。

「どうやって帰ろう」
「いや今更だな」
「だって何でもいいから海に来たかったんだもん」

バスタオルをミョウジに渡し、自分も自分でそこそこに水分を拭った。とはいえ完全に乾くころにはあちこちから砂と塩がこぼれてくるだろう。拭ってもべたべたする感覚は変わらない。

「あ、五条先生に連絡してみる?今日夜中まで任務って言ってたし」
「バカ。そんなことしたら伊地知さんが迎えにパシられるに決まってんだろ」
「確かに」

そんな申し訳ないことが出来るわけもなく、俺とミョウジは岩場まで移動してごろんと仰向けになる。ミョウジはぱたぱたとTシャツに風を送って乾燥を促した。きっと昼間だったら見ていられなかっただろうから、夜だったのがちょっとだけありがたく思えた。

「…伏黒、あした花火しようね」
「…ん」

それがミョウジの前向きな態度のひとつだと分かって、俺は思わず口角をあげる。いわのごつごつした感触は少しも心地よくなかったが、そんなことはどうでもよくなってしまった。
なんでこんな真夜中にこんなことになってるんだと思わなくもないが、惚れた女のためなのだから、もう仕方のないことだった。


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