人魚のみちづれ




※夏油の幼少期を捏造しています。主人公特殊設定です。


小学校のころ、私は海で人魚をみたことがある。
夏休みに祖母の家に遊びに行って、祖母が八百屋のおばさんと話しているすきをついてひとりで向かった海でのことだった。
私の母方の祖父は早くに死んでしまっていて、なんでも嵐の日に高波にのまれてそのまま行方不明になってしまったらしい。祖父母の住む町は日本海側の小さな漁師町で住民の半分以上が漁業関係の仕事についていた。
私はその年、両親のちょっとした用事のために祖母の家に一週間ほど預けられることになった。私は祖母の家が好きだった。潮風は非日常を連れてきてくれるし、住宅街にある自分の家と違って遮るもののない水平線は魅力的だった。
その日は祖母と一緒に買い物に出かけていて、祖母が顔なじみの八百屋のおばさんと話を始めたため、退屈になって海を眺めていた。きらきら光る波の小さな光を数えていると、不意にぱちゃんと大きな飛沫が上がる。私はきっとイルカだと何の根拠もなく決めつけて、祖母に向かって「海に行ってくる!」と断って駆け出した。

「傑ちゃん、危ないから中に入っちゃダメよ」

そう背中にかかる祖母の声に「はーい」と返事をして、私は水飛沫の上がった入り江に向かった。早く行かなければせっかくのイルカを見逃してしまう。入り江に向かって下り坂になっているから、何度か転びそうになりながら私は全速力で走った。
ようやく入り江に到着したが、どこにもイルカは見当たらない。もうどこかへ逃げてしまったんだろうか、と、近づくことを禁止されている入り江のそばで私は膝を抱えて小さくなった。

「あーあ。イルカ見たかったのに」

せっかくここまで走ったことがすべて台無しになって気がして、私はがっかりと溜息をつく。イルカなんて水族館でしか見たことがなかったから、夏休み明けにクラスメイトに自慢しようと思っていたのだ。
そのときだった。ぱちゃん、と数メートル先で水飛沫があがる。私ははっと顔を上げて目を凝らした。きっとさっきのイルカに違いない。ぶくぶくと泡が水面に浮かび、顔を出したのは高校生くらいの女の子だった。
その子は黒く長い髪を水面に泳がせ、すいすいと移動して入り江のそばの、私とは反対側の岩の上に身体をあげる。こんなところで人が泳いでいたなんて、と驚いていたら、私は次の瞬間もうひとつ驚くことになった。

「…人魚?」

岩に上がった彼女の下半身が、人間の二本足ではなく、魚のようなひれだったのだ。
思わず声を上げた私を彼女が振り返り、その大きな瞳とばちんと視線がかち合う。逸らそうと思っても逸らすことが出来なくて、私は金縛りにあったように身体を硬直させた。

「…あなた、私のことが見えるの…?」

彼女は口を動かすことはなくそう言った。声は音になって聞えてくるというよりも、頭に直接届いているように感じた。
私は彼女の言葉にこくこくと頷き、すると彼女が少し考えた後にぱちゃんと海に飛び込んだ。すぐに私の元へと泳ぎ寄り、私は手招きをされて海面のそばに近づく。

「あらあなた、彼に似ているわ」
「彼?」
「そう。昔私によくしてくれた人間のこと」

彼女の口はやはり動かなかった。私の声は聞えていて、彼女の言葉も頭に響くのだから会話はなんとか成立した。彼女は私に向かって手を伸ばし、私は恐ろしく思いながらもそれを受け入れた。頬に触れた彼女の手は氷のように冷たかった。

「あなたの名前は?」
「夏油…傑…。きみは?」
「私はナマエ」

それが、私とナマエとの出会いだった。


ナマエは、ここで会ったことを大人には秘密にするように言った。私も立ち入ることが禁じられている入り江に入ったことを祖母に言って怒られるのは嫌だったので、ナマエと会ったことは誰にも言わなかった。
私は明くる日も祖母に「海に遊びに行ってくる」と言ってナマエに出会った入り江に向かった。約束はしていなかったが、なんとなく行けば会えるような気がしていた。

「ナマエ!」

入り江のそばで水面が跳ねた。ナマエだ。私の声にナマエは目をぱちぱちと瞬かせてすうっとなめらかな動作で岩のそばに寄ってくる。

「今日も来るなんて思わなかった」
「おれはナマエが来るって思ってたよ」

ナマエは嬉しそうに笑った。
ナマエは、どうやら他の人間には見えないらしい。私は小さいころから他の人には見えないものが見えていたので、ナマエもきっとその仲間だと思った。だけど彼女のように美しいものはいなかったから、もっと別の崇高な、例えば天使だとかそういうものではないかとも思っていた。
ナマエは私の知らない海の中の話を教えてくれた。足がないから彼女は四六時中海の中で生活しているらしい。

「海の中は寒くない?」
「私は寒いとか暑いとか、そういうことはわからないから」
「ふぅん」

私はナマエのところへ通った。朝から晩まで入り江で話して、時おり足だけを海につけたりした。二度目からはちゃんと約束をして、私たちはお互いの知らないことをたくさん話した。

「傑はどうして毎日私に会いに来てくれるの?」

不意に、ナマエが私に尋ねた。私は自分の中で生まれたばかりのその感情を言語化することができず、ナマエに向かって「なんとなくだよ」と口から出まかせを答えた。
ナマエは美しかった。黒く長い髪も、おおきなアーモンド形の瞳も、つやつやと鱗の光るひれも。これだけ美しいひとを私以外は見ることができないなんて可哀想だと思ったし、それ以上に優越感を感じていた。

「おれ、もうここに来れるのは今日が最後なんだ」
「どうして?」
「家に帰らなきゃ」

自宅へ帰る予定の日の朝、私はナマエの待つ入り江でそう言った。ナマエは口を動かさないまま私に向かってそう尋ね、私は自分の家に帰らなければならないことを話した。ナマエはあまり理解していなかったけれど、とにかく私が明日から来れなくなるということ、もうここで待っていてくれなくていいことを話した。
理由については理解していないだろうナマエだったが、私の言葉にこくこくと頷く。会えなくなるのが寂しいと泣いたのは私だけだった。

翌年、私は両親へ「おばあちゃんちに行きたい」とねだって夏休みの二週間を祖母の家で過ごすことになった。急にそんなことを言い出した私を不思議がっていたが、私はそんなことなどお構いなしだった。
一年振りに入り江にむかい、ナマエはいないだろうかと探して回る。いつまでもここにいるとは限らないし、もうどこか別の場所に行ってしまっているかもしれない。
散々探して見つけることが出来なくて、落胆し溜息をついた時だった。遠くの海で大きな水飛沫が上がった。

「ナマエ!」

きっとあれはナマエに違いないと私は確信した。水飛沫は少しずつ近づいて、海面を割るような軌跡を描きながら影が私に寄ってくる。すぐそばでぴたりと動きをとめ、水面から顔を出したのは去年と変わらないナマエの姿だった。

「傑、久しぶり。大きくなったね」
「一年経ったから。もう小学五年生なんだ」
「しょうがくごねんせい?」

聞いたことのない言葉だったようで、ナマエは私の言葉を繰り返した。人魚には小学校はないらしい。
私はこの一年であったことをナマエにたくさん話した。ナマエも話をしてくれたが、海での生活は代り映えがしないのか私よりもエピソードはいくらも少なかった。

「毎年夏になったら会いに来るよ」
「うん、待ってる」

私はナマエのことが好きだった。
だからそれからも夏のたびにナマエに会うために両親を説得して祖母の家までの電車賃を用意してもらった。子供だった私には祖母の家は遠く、そうでもしなければ自力で行くことなど不可能だったからだ。
祖母の家に行くという口実は、ある冬に突然途絶えてしまった。祖母が亡くなったのだ。正確に言うと倒れたと連絡が入って、私は母と二人で祖母の家に向かった。病院で横たわる祖母はあまりに生気がなく、このまま死んでしまうのだと子供ながらに理解した。

「傑ちゃん、あのね、入り江に行ってはいけないよ」

看護師と話をすると母が出ていき、二人きりになった病室で祖母が言った。
私はぎくりと肩を揺らし、祖母に「どうして?」と尋ねた。

「あのね、おじいさんは入り江に行って、気をおかしくしてしまったんだよ」
「おじいちゃんが?」
「そうさ。あのひとは入り江に行ってはひとりで海に向かってぶつぶつと話してた。ときおり笑ってさえいたよ」

私はその話を聞いて、祖父にも人魚が見えていたのだとわかった。祖父は嵐の日に「あの子が危ない」と言って家を飛び出し、そのまま行方不明になったのだという。

「あの入り江はひとを狂わせる危ない場所だ。だから傑ちゃんは行ってはいけないよ」
「…うん…分かった」

祖母は重篤さを感じさせない強い力で私の腕を掴んだ。みしりと骨が鳴ったような気さえした。
私はその強さに押されて、約束をする気もないのに物分かりのいいことを言って頷いた。「いい子だね」と祖母が言って、掴む力がふっと弱まる。

「おばあちゃん」

祖母は薄く目を開き、その口の端に泡を吹いていた。バイタルサインはまだ一定のリズムで山を作っていたが、私はきっとこれはまずい状態なのだろうと子供ながらに察してナースステーションにいるだろう母を呼びに走った。

祖母はそのまま亡くなった。脈は徐々に弱くなり、最後に一時だけ抗うように速まった。そしてそれを超えると不規則な拍動をするようになって、やがて心臓は完全に動きを止めた。
ドラマや映画では心臓がそんな予備動作もなく止まっていたからそういうものなのだと思っていたが、あれはわざわざ機械で心臓を動かしているらしく、スイッチを切ったことでああなるのだと初めて知った。
自然に心臓が止まるのは、ああもきっぱりとしたものではないらしい。
葬儀の準備に両親や親戚が奔走するなか、私は祖母との約束を破って入り江に向かっていた。吹きすさぶ風が頬を冷やしていく。夏ではないからナマエはいないかもしれないが、祖母を亡くしてここに来る口実を失った今、会っておかなければもうずっと会えなくなるのではないかと思った。

「…やっぱりいないかなぁ…」

夏よりも冷たい空気を放つ入り江に、ナマエの姿はなかった。そもそも彼女がいつもここに住んでいるのかどうかさえ知らないのだ。会えなくたって仕方がない。
私は岩に座り込み、荒れた海を眺めた。冬の日本海は凶暴だ。白く立った波が荒々しく打ち寄せ、曇天のために海の色も随分暗い。夏の入り江しか見たことがなかった私は、ここがまるで異世界のように感じた。
しばらく待ってみて、会えなければ帰ろう。あんまり祖母の家をあけてしまっては、きっと母が心配して探し回るに違いない。

「…寒いな…」

コートを着ていても、入り江の地形のせいで風が回転するように吹くものだから、そこは随分と寒く感じた。
ナマエは寒さも暑さも感じないと言っていたけれど、こんなに寒い日も海にいるのだろうか。

「ナマエ…」

私は彼女の名前を呼び、手袋をしそこねたせいで真っ赤になった手をハァっと自分の吐息で温める。もうしばらくで戻らなくては。きっとすぐに雪が降り出してしまう。その時だった。

「…傑?」

ナマエの声が頭にじんと響いてくる。私はどこにいるんだろうと立ち上がってあたりを見回した。ナマエは入り江のはずれの岩場の奥でその体を水に浸していた。
私は「ナマエ!」と彼女の名前を呼びながら急いで駆け寄る。何年も少しも変わらない姿のナマエが、冬の海にもそのつやつやとした鱗を光らせている。

「ナマエ、これからもうここには来れないかも知れない」
「なぜ?」
「ばあちゃんが死んじゃって、だから、夏休みにここに来る口実が無くなったんだ」

こうじつ。とナマエはおうむ返しをした。分からない言葉があるとおうむ返しをするのが彼女の癖だった。

「だから、その…何年か先になるかもしれないけど、必ずおれが迎えに来るから、ここで待っててほしい」

高校生になったらバイトができる。バイトをして金を貯めて、そしたらひとり分くらいの旅費はなんとか工面できるだろうと私は考えていた。
それでも高校生になるにはまだ二年以上ある。たかが二年で、されど二年だ。ナマエ私に向かって問いかけた。

「…どうして傑は、私に会いに来るの?」
「それは…」

その問いの答えは簡単だ。自分でもどうかしていると思っている。人間じゃない、他の人には見えもしない人魚のことを「好き」だなんていうのは。
だけど私にとってそれは誤魔化しようのない感情で、否定できない気持ちで、正しい思いだった。

「ナマエのことが、好きだから」

私がそう言うと、ナマエはアーモンド形の目をぱちぱち瞬かせた。

「好き」

頭に響いて来た言葉に私は舞い上がった。ナマエも同じ気持ちでいてくれたんだということが嬉しくて、私はコートが濡れるのも構わずナマエのことを抱きしめた。ナマエの身体は氷のように冷たく、人間ではないとまざまざと思い知らされたが、私にはもう関係のないことだった。
私はその後、もう一度ナマエに迎えに来るという旨を約束し、母に探されてしまう前に急いで祖母の家へと戻った。


ナマエが呪いであると気が付いたのは、その後だった。
高専の関係者のスカウトで自分に備わっている能力が呪霊操術と呼ばれるものだと知り、いままで見えていた私にしか見えないものが呪いと呼ばれるものだと知った。そうか、だからナマエは町の誰にも見ることが出来なかったのかと、知ってしまえばすべてに説明がついた。そしてきっと祖父は見える側の人間だったのだ。
高専に入って呪術師になったら、ナマエを迎えに行ける。約束するときはどうすればいいかなんて考えていなかったが、私の術式をもってすれば、彼女を広くて狭い海から連れ出すことができる。自分に与えられた術式に初めて感謝した。

結果として、私は呪詛師になって彼女を迎えに行くことになった。私がその道を選んだからだ。
五年振りの祖母の町は、少しも変わっていなかった。あえて言うなら空き家が少し増えたのと、新しい自動販売機が設置されたことくらいだろう。私は早く会いに行かなければと入り江に急いだ。
地元でもいわくつきの入り江だから、いつだってここには人がいなかった。その日もうら寂しい入り江の浜辺を踏み、波打ち際に歩み寄る。

「ナマエ」

私は沖に向かって名前を呼んだ。
そうすることできっとナマエは私の存在に気づいて姿を現すと思った。波と風の音がする。それから少しだけ海鳥が鳴いて、沖で大きな水飛沫が上がった。私は足元が濡れてしまうのも構わずにばちゃばちゃと海へ入っていく。腰のあたりまですっかり海に浸かったが、不思議と秋の海の冷たさを感じることはなかった。水飛沫が近づいて、数メートル先のところで止まる。水面から顔を出したのは、恋焦がれたナマエだった。

「傑」

ナマエの声が頭の中に響く。私は海の中に膝をつき、ナマエの細い身体を抱きしめた。抱きしめるほど凍えるくらいに寒く、それがナマエの存在そのものを知らしめているようで心地が良かった。

「迎えに来たんだ、一緒に行こう」

鼻先が触れ合うほどの距離でナマエを見つめる。ナマエが薄く笑って目を閉じたから、私はその小さな唇にキスをした。それが降伏の縛りとなって、ナマエは私の手のひらの上でするすると黒い球体になった。ナマエをこの身の内に取り込むためにくちを大きく開ける。君はどんな味がするんだろう。
あの入り江はひとを狂わせる危ない場所だ。祖母の言葉が、どうしてだか頭を掠めた。


戻る






- ナノ -