ネイルエナメル


私は驚きの不器用さだ。それはもう、自他共に認めるほどの。
だから裁縫や料理は苦手だし、ケータイもデコれない。
けど女の子らしいことに憧れている。見た目重視の可愛いお菓子を作ったり、手持ちの小物を可愛くデコったりしたい。が、それは夢のまた夢の話。
そんな私が手に入れてしまった。ワインレッドのネイルを。

「見てよ、硝子、まじでエロかわいくない?」
「あそこの新作じゃん」
「そう。お給料出たから買っちゃった」

私たち高専の学生は、呪術師としての任務に出ればちゃんとお給料が出る。一般的な高校生のお小遣いよりはけっこういい金額だと思う。
任務がここ最近立て込んでいて、一息ついたご褒美として購入したのがこのワインレッドのネイルだ。
高校生にはちょっと敷居が高い人気のコスメブランドの秋の新作。

「いいじゃん。でもあんた塗れんの?」
「…現在奮励中です…」

だろうね。硝子が笑った。
くそう、なんとしてでも上手に塗ってやる。

意気込んだはいいものの、実際そんなうまく事が運ぶわけもない。
朝起きたら美少女になってることもなければ、突然器用にもなれることもない。
あとついでに言えばこのエロかわいいネイルを塗ったところで、私に色気が備わるわけでもない。

「はぁ…かわいいんだけどな…」

スクエアのキャップがゴールドでかっこいい。とぷんと瓶の中を満たすネイルエナメルは、まるで光を全て吸収するみたいに濃密だ。
もう5回くらいは試しに塗った。はみ出して、ヨレて、素爪でいるよりよっぽど不格好になった。
そもそもこういうネイルって爪短いと似合わないんじゃない?全くその通りだ。
脳内のもう一人の自分が言った正論に諸手を挙げて降伏する。しかも私は戦闘スタイル的に確実に爪は伸ばせない。はい解散。

「水飲みに行こ…」

自室でのネイルとの睨めっこを諦め立ち上がり、談話室に向かう。ワインレッドはコットンに含んだ除光液に取り去られてゴミ箱の中だ。
談話室の共用冷蔵庫を開け、自分の名前を記名しているミネラルウォーターを取り出す。
透明な液体がちゃぷんと音を立てて揺れた。
そもそも、私が恐らく似合いもしないワインレッドのネイルを手にしたのは、ひとえに好きな男の子に意識してもらいたいという幼稚な理由だ。
だって悟から聞いた。「あいつ、年上好きだからなぁ」ガンと鈍器で頭を殴られたような感覚だった。
努力でどうこうできる好みじゃないじゃん。

「あれ、ナマエ起きてたの?」
「す、傑こそ…」
「私は悟のプリンを取りにね」

じゃんけんで負けたんだ。と傑は言った。生真面目そうに見える傑は、煽り耐性ゼロだし、五条と一緒にいると途端に精神年齢を下げてなんでも勝負事にするところがある。

「ナマエ指怪我してる?」

私の指先をじっと見て、傑が言った。怪我?そんなのした覚えないけどどっかで切ったっけな…と思いながら自分の指先を見て、やばい、と顔を歪める。
爪と甘皮の間に落とし損ねたネイルが赤々と残っていた。

「いや…あのこれは…」

致命的不器用さを誇る私に上手な嘘とか言い訳とか誤魔化しとか、そういうものが出来るはずもなく、しどろもどろになっている間に傑に指先をすくわれてしまう。

「あれ、ネイル?」

傑は面食らって、中途半端に取り残されたワインレッドを視線でなぞる。やめて、めっちゃ恥ずかしい。
顔に熱が集まるのを感じていると、パッと手が放されてしまった。安心したような、残念なような、複雑な気持ちだ。

「へぇ。意外だな、こういう色つけるんだ」
「まぁ、うん、ちょっとね」
「デート?」
「デッ…!?」

思わず言葉を詰まらせた。デートなもんか。まだ約束も取り付けられてないっていうのに。

「私は、あんまり似合わないと思うけど」

すっと、血の気が引いていくのが解った。
何でそんなこと言うの、似合わないなんてわかってる。でも少しでも好きなひとのタイプに近づこうと頑張って何が悪いわけ?
年上が好きだなんて聞いても、今更どうしようもないじゃん。だからせめてちょっとでも大人っぽく見えるように努力することの、何が悪いの?
身体は冷えていくのに、目頭は熱くなった。だめ、これ以上ここにいたら泣いてしまう。

「傑には関係ないじゃん!」

私はなんとかその言葉だけを吐き出して、女子寮へ走る。
やってしまった。最悪。最低最悪だ。




「やってしまった…」

男子寮の自室に戻り、思わず頭を抱える。
私の隣ではのんきな顔をした悟がプリンを頬張っていた。コンビニの新作らしい。

「なに、なんかあったわけ?」

興味津々といった顔で悟が聞く。あまり言いたくはなかったけど、ここで誤魔化してもあとが面倒になるだろう。
私は先ほど談話室で見た彼女の指先について話した。

「ナマエの爪にネイルの痕があった。しかも絶対好みじゃなさそうな真っ赤のやつ」
「で?」
「思わずデートかって聞いて、答え聞く前に似合わないと思うって言った」
「まじ?うっわ、馬鹿じゃん。ウケる」

悟が器用にスプーンを咥えたまま大笑いをする。うるさい。ウケるな。大馬鹿だって自分が一番よくわかっている。
不器用な彼女のことだ。きっとネイルを塗る練習をしていたのだろう。それはいい。ナマエは可愛いものが好きだし、現にケータイのストラップも可愛らしいピンクのキャラクターものをつけている。
ネイルが問題なんじゃない、問題は色だ。あの真っ赤なネイルは絶対ナマエの趣味じゃない。自信がある。

「んな自信持ってても本人前に似合わねぇとか言ってりゃ世話ねぇと思うけど」

全くその通り過ぎてぐうの音も出ない。
悟に言われるなんて相当だ。

「明日謝るよ…」
「今すぐ行ったほうがよくね?」

もう遅い時間だから、とか、こんな時間に女子寮に出向くなんて、とか、いくつか言い訳が浮かんで、それらすべてが逃げだと思い直し押し黙る。

「ついでにデートの予定も阻止してこいよ。多分ンな予定ねーと思うけどな」

何を知っているのか、悟は意味深にそう言って残りのプリンを平らげた。


高専の寮は、通常のそれと違ってあまり規定にうるさくない。だからといって夜にみだりに異性の寮に行くことを私は良いとは思わない。しかも同期四人で集まると言えば大体私の部屋か悟の部屋で、ナマエの部屋に行ったのは片手で数える程度だった。

「…ナマエ、起きてるかい?」

階段を上がった二階の一番奥の扉をこんこんとノックをする。勢いでここまで来てしまったが、怒って取り合ってくれないかもしれない。

「さっきのこと、君に謝りたくて」

木造の壁に、小さい声は吸収されていってしまうように心もとない。もう一度ノックをしようかと手を挙げたとき、中からがさごそと物音が聞こえ、控えめに扉が開かれた。
隙間から出された顔は当たり前だが不機嫌そうに歪み、目元は暗くてもわかるくらい赤くなっている。

「…なに」

涙交じりの声が弱く吐き出され、泣き腫らした目が私を睨む。
最低だ、彼女をこんなになるまで泣かせてしまった。

「さっきの似合わないって言ったこと…本当にすまない…君が慣れないネイルしてまでデートする男がいるのかもしれないと思ったら…嫉妬した」

じっとりとした沈黙が流れる。寮の外では秋の虫の音がテンポよく響いていた。
ナマエの次の言葉を待つまでに、何て言ったらいいんだろうといくつものパターンが頭をめぐる。こんなときに限って気の利いた言葉は何ひとつ出てこない。
硬く結んだ唇を少し開け、また結び、それを何度か繰り返してからナマエがおずおずと口を開く。

「…だって、傑は年上の女のひとが好きなんでしょ?」
「…は?」
「でもさ、そんなこと言われたって年齢なんかどうしようもないじゃん」

だからちょっとでも大人っぽく見えたらいいなって思って。そう言ってナマエは俯いた。
カッと顔が熱くなる。は、うそだろ、それって。

「私のために、選んだのかい?」

こくり、と控えめに確かにナマエの首が縦に振られる。
どこ情報だ?そんなこと一言も言った覚えがない。そもそも私の好きなタイプの話をしたこともなければ、ナマエの好きなタイプを聞いたこともない。

「年上好きってわけじゃないよ」
「えっ、だって悟が言ってた」
「いや、うん、なんていうか…」

なるほどそういうことか。それはそういうビデオの嗜好であって、別に年上と付き合いたいわけじゃない。悟め、紛らわしいことをしてくれた。
悟に責任転嫁をして気を落ち着け、困ったような顔をする彼女の手を包む。

「私が好きなのはナマエだよ」

ぽかんと口を開けたままナマエが動きを止める。
長いまつ毛がふるりと震え、頼りなく揺れた。
私は包み込んだ手をほどき、指を絡ませて少しでもこの熱が伝わるようにと隙間なく握り込む。

「うそ…」
「うそじゃない」
「だって傑も好きなんて都合よすぎるもん」

もう一度「うそじゃない?」と聞く声が聞こえたから、今度は繋いだ手を引き寄せて抱きしめた。
男のものとは全く違う柔らかい体の感触に、全身の血が沸騰してしまいそうだ。

「好きだよ。そのネイル塗って、私とデートしてくれないか」

少し上体を離してナマエの顔を見つめる。
お互いの心音が聞こえるほどの距離で見る彼女のまるい目が、潤んできらきらと輝いて見せた。

「…私不器用だもん」
「私が塗ってあげるから」

拗ねたように唇を尖らせる。
やっぱりあの真っ赤なネイルは似合わないと思うけれど、私のためだけに選んだのだと思うとそのアンバランスな指先さえ愛おしいと思える。


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