不器用で愛


「じゃあね、建人くん。元気でね」

それが最後の言葉だったと思う。
私は高専から大学に編入するという建人くんの進学先も、その後の就職先も本人からは聞いたことがなかった。
時折からかうように五条さんが「今、七海ってば新宿の証券会社で働いてるらしいよ」とか、そんな真偽不明の話を私にして、私は「はぁ」と気の抜けた相槌を打った。

「ミョウジは会いたくないの?七海」
「会いたいも何も、建人くんはもうこっちの世界の人間じゃないんですから」
「うわぁ頭でっかちなとこはそっくり」

もう付き合ってもいませんしね、と返すと、五条さんはまた「うわぁ」とでも言うように顔を歪めた。そんな顔しなくたっていいじゃない。

私と建人くんは、お付き合いをしていた。高専の二年の終わりから五年までの大体三年と少し。告白したのは私からで、建人くんも私を好きだと言ってくれた。そのころの私と建人くんは少し、いやだいぶ不安定で、それはもう一人の同級生を失ったからだった。傷の舐め合いみたいに始まったお付き合いだったけど、そう悪くなかったと私は思っている。
忙しいながらもデートをしたり、こっそり建人くんの寮室にお泊まりに行ったりした。呪術師なんてヒリヒリする世界で生きている私の数少ない心安らげる瞬間だった。

「…呪術師を、辞めようと思います…」

五年生になってモラトリアムの始まったすぐに建人くんが私に言った。私は予め聞いていたわけではないのに「そっか」と当然のことのように受け入れた。建人くんは私と違って優しいし、元々こんな世界に合わなかったのだ。

「じゃあ、あと一年だね」

そう笑った私に建人くんは何にも言わなかった。
その日から期限のついた関係はあまり大きく変わることはなかった。今まで通り時間があれば二人でデートをするし、こっそりお泊まりにも行った。建人くんは編入の勉強があったからすごく忙しそうだったけど、呪術界に残る私はのらりくらりと任務を受ける比較的緩やかな生活を続けていた。
卒業前に建人くんの部屋でセックスをした時、建人くんが声を殺して泣いた。私はこの人を離してあげなければならないと、一年前に心に決めていたことをもう一度思い直した。

「普通の大学出て、普通の会社入って、普通の女の子と出会って、結婚して、建人くん、幸せになりなよ」
「…アナタがそれを言うんですか」
「だって私、これしか言えない」

覆い被さる建人くんの頬に触れた。汗と涙で湿ったほっぺがぴたりとくっつく感覚がむず痒い。このまま離れなくなっちゃえばいいのにな、と思うけど、私の手は簡単に離れていってしまった。

「じゃあね、建人くん。元気でね」

建人くんの涙と汗が私のほっぺまで濡らした。


あれはもう四年も前のことになるらしい。私は半年前にやっと一級の推薦をもらって、現在絶賛査定中である。格上の任務をこなすのはそれなりに骨だが、目に見える成果というものはそこそこに嬉しかった。
その日は都心での任務で、破壊力が高い代わりに小回りの利かない面倒な術式を持つ私にしては随分珍しかった。汚れずに任務を終わらせることができたし、せっかくだからお茶ぐらいして帰ってもいいかもしれない。煌びやかなガラス張りのカフェを眺めながらそんなことを考えていたら、不意に後ろから腕を引かれた。

「ナマエさん…!」
「…建人くん…?」

息を切らして私の腕を引いたのは、スーツ姿のくたびれた顔をした建人くんだった。私は今更建人くんに何を言ったらいいのかもわからずに、黙って掴まれた腕を見つめる。すると建人くんがパッと手を離した。離されたのに掴まれた場所はじんじん痛いままだった。

「すみません、あまりに驚いて、強く引っ張りすぎました」
「え、いや、全然…」

私、建人くんとどんなふうに話してたんだっけ。私も建人くんも上手く話をすることができなくてぎこちない変な間だけが広がる。
建人くんここで何してたんだろう。スーツだから仕事かな。何の仕事してるんだっけ。五条さんなんて言ってたんだっけ。

「少し、時間ありませんか」
「えっと、あの、うん…大丈夫、だよ」

しどろもどろの私を連れて、建人くんは近くのホテルのティーラウンジに向かった。私はこういうところでどう振舞っていいかもわからず、建人くんに任せていたらモンブランと紅茶のケーキセットを頼んでくれた。私の好きなケーキも飲み物も覚えてくれていたことが嬉しくて、どうしたらいいかわからなくなった。

「…最近は、どうですか、その…任務は」
「ふつう、だよ。一級の推薦もらって、今は査定中なんだ」
「…一級ですか」
「建人くんは、えっと、新宿の証券会社…だっけ」
「はい。ですが…」
「すごいよね。こんな都会のおっきい会社で働いてるなんて。さすがだなぁ」

ははは、と笑ったけれど、上手く声が出ていたかわからなかった。ホテルのケーキなんて美味しいはずなのに、少しも味がしない。タルト生地を切り分けようとして勢い余ってフォークがお皿を打ってしまい、カンっと甲高い音がした。上手くいかない。

「…ナマエさんはその、これからもずっと第一線で?」
「どういうこと?」
「いえ、その…アナタほどのひとですから、結婚をして退くことも、あるのかと…」

ごくん。モンブランを飲み込む。
この言葉を聞いて、期待しなかったわけではない。だけど私は呪術師で、彼は一般人だ。私は彼のそばに立っていていい人間ではない。彼は普通に幸せになるべきひとなのだ。

「…結婚、するよ。呪術師の家のひと」

嘘をついた。
本当は別れてからもずっと建人くんを忘れられずに、誰ともお付き合いすることさえできなかった。だって誰のことも好きになれなかった。
紅茶の湯気は消えて、いつの間にかすっかり冷めてしまっていた。

「…そう、ですか」

建人くんの顔を見ることはできなかった。少しでも期待してしまうような顔をしていたら、私はきっとすぐにでもこの嘘を撤回して「本当はずっと建人くんのことだけを好きでいた」と打ち明けてしまいそうだったからだ。

「おめでとうございます」
「うん、ありがとう」

味のしないモンブランを詰め込んで、紅茶で飲み下した。
もったいないことをしたなと思った。私の恋と同じだ。気づかないふりで飲み込んで、何もなかったことにしてしまった。


建人くんとは連絡先も交換しなかった。そんな必要はなかったから。あの日は建人くんがたまたま私を見かけた懐かしさのようなものから思わず声をかけただけだったんだろう。だってあれだけこの世界に疲れて辞めたひとなのだ。こっち側の私と関わり合いたいわけがない。それが先週のこと。

「ミョウジ、ご機嫌斜めぇ?」
「え、五条さんいたんですか?」
「いたんですかってヒドくない?ずっといましたけど?」

高専の待合で時間を潰していたら五条さんに声をかけられた。どうやら私が気づいていなかっただけで五条さんはいつの間にか私のすぐそばのソファに座っていたらしい。

「何か用でした?」
「伊地知が探してたから教えてあげようと思って」
「伊地知くんが?」

補助監督である伊地知くんが私を探しているのは特別珍しいことではないが、それをわざわざ五条さんが伝えに来るってどうしてだろう。いやそもそも五条さんの行動に整合性を求めること自体が不毛か。

「ありがとうございます」
「補助監督室に一番近い応接ね」

私はぺこりと会釈をして待合室を出る。
応接って。なんでまたそんなところにいるのに私を探してるんだろう。少し疑問に思いながら高専の校舎の中を進む。板張りの床は時折ぎぃぎぃと音を鳴らした。
補助監督室を少し進んだ先に応接室があるが、ここは応接室の中でも何というか、多少格が低い。上層部のお歴々や名家の人間、楽巌寺学長なんかはここではなくてもう少し先にある別の応接室に通すように言いつけられている。だから正直私のような一般の術師も使わないわけではないが、と思いながら近づくと、ちょうど伊地知くんが出てきたところだった。

「伊地知くん」
「あれ、ミョウジさんお疲れ様です」
「お疲れ様。五条さんから伊地知くんが私のこと探してるって聞いたんだけど…何の用だった?」

私がそう言うと、伊地知くんは「はて」と首を傾げた。五条さんもしかして私のことからかって遊んでたのか。「ごめん、何もないんだったらいいや」と立ち去ろうとすると、伊地知くんはそこで慌てて「待ってください!」と私のことを呼び止めた。

「ミョウジさん、あの、用というか、会っていただきたい人がいるんです」
「え、誰?」
「とにかくその、今応接におみえですから、どうぞ中に」

私に来客ってことだろうか。いつになく反論の余地を与えない物言いの伊地知くんに気圧されて「う、うん」と小さく返事をしながら、応接室の扉をノックする。

「失礼します、ミョウジです」

そう名乗り、戸をゆっくり引いた。淡い逆光の中に、明るい色のスーツの男性が立っていた。

「建人、くん…?」
「先週ぶりですね」

応接室の中にいたのは建人くんだった。テーブルの上には布でぐるぐる巻きにされた鉈が乗っていて、私は鉈と建人くんを交互に見る。あの鉈は建人くんが学生時代に借り受けていた呪具で、卒業と同時に返却したものだ。

「二級術師として、本日からお世話になります」
「え、え、どういうこと?な、何でこんなとこに戻って…」
「呪術師の仕事に、やりがいを…感じてしまいまして」

建人くんはそう言って、少し居心地悪そうに唇をむずむず動かした。
あんなに辛い思いをした場所を、あんなに辛い思いをして出ていったのに、建人くんはそんなところに帰ってくるつもりなのか。

「ばか…私がどんな思いで建人くんと別れたと思ってるの…」
「…すみません」
「先週まで普通に会社員してたじゃん」
「あの時はもう退職届を出して引き継ぎしてたんです。ナマエさんに言おうとしたら遮られてしまって…結局言えませんでしたが」

嬉しいとか、悲しいとか、腹立たしいとか、いくつもの感情がぐるぐる混ざって、私は泣きそうになった。あったかい場所で、普通に幸せになってくれたら、それでよかったのに。

「すみません、色々考えてくれていたことは、充分理解しています」
「理解してるなら、何で普通に幸せになってくれなかったの」
「私の幸せは、ここにしかないようで」

建人くんが一歩、歩み寄って私の握りしめた手を解く。
手を伸ばせば抱きしめられる距離にいるのにそうしてくれないことが焦ったくて、私は建人くんの人差し指をキュッと握った。

「…そこは抱きしめてよ」
「結婚寸前の恋人がいる女性にそんな軽率なことは出来ません」

もう打ち明けてしまえと思った。だって建人くんが悪いんだ。あれだけ私は遠ざけたのにこんなに簡単に近づいてくる。こんな場所に帰ってくるという。
私はそうやって頭の中で建人くんのせいにして、ぽつりと口を開いた。

「嘘だよ」

結婚の予定なんかないし、恋人もいない。それどころかあれから付き合ったひとさえいないんだ。
私は握った指を放して、今度は全部の指が一本一本余すことなく絡まるように繋いだ。

「ずっとずっと建人くんのことが好きだった。建人くんが忘れられなかった」

そう言ってから建人くんを見上げると、建人くんは目尻を下げて笑った。それから囁くような小さい声で「私もです」と言って、繋いだ手をぐっと引くといとも簡単に彼の腕の中に収められてしまった。胸板に耳を当てれば、その向こうでごごごごごと筋肉が生理的に小さく動くような音が聞こえてくる。

「普通の大学を出て、普通の会社入って、普通の女性とも出会いましたが、私はずっとナマエさんが忘れられない」

似たもの同士だね、と笑うと、建人くんもそうですね、と笑った。
この音の向こう側に建人くんの心臓があって、どくどくと全身に血液を巡らせている。だから建人くんはあったかくて、涙も流すし汗もかく。

「建人くん、好き」
「私も、ナマエさんしかいない」
「本当に?」
「ええ、もちろん」

建人くんの背中に腕を回す。
まるで初めて抱き合った高専二年の冬のようにぎこちなく、きっとここから始められるんだと思った。
もう建人くんのこと、離さなくていいのかな。

「二度と離さないでください、私のこと」

見透かされたのか声に出てしまったのか、建人くんがそう言った。
私は彼の腕の中に埋もれながら「うん」と頷いて目を閉じた。
私たちはもう少し、ここで生きていくようです。


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