アルケミー・イン・トーキョー


海に向かって大ジャンプ!
と、いってもこれは本物の海じゃない。陀艮ちゃんの生得領域である。
私は穏やかなこの空間を存分に満喫するためにわざわざ水着に着替え、陀艮ちゃんと真人とぱちゃぱちゃ水遊びをしていた。

「真人!それ!」

いまは腰まで海に浸かって水中ビーチバレーの真っ最中。陀艮ちゃんの身体で上手いことプレーできるかな?と不安だったけど、意外や意外。陀昆ちゃんはビーチバレーがお上手。

「よっ、と」
「はい!」

真人も要領を覚えたらサクサクと上達して「人間の遊び教えてあげる!」と偉そうに息まいた私が一番下手くそになってしまった。
ビーチボールは私の頭上をすり抜け、沖のほうへ流される。まぁ、沖と言っても本物じゃないんだけど。

「ナマエ下手すぎ」
「うるさいなぁ」

真人に笑われながら、私はじゃばじゃば沖のほうへと泳いでいく。
水温も気温も天候も、バカンスに丁度いい。この生得領域味わっちゃったら、もうハワイでもバリでも満足出来ないかも。
足がつかなくなるくらいのところでようやくビーチボールを捕まえて、くるっと振り返ると袈裟姿の夏油が帰ってきたところだった。

「げとー!」

私はビーチボール片手にぶんぶんと手を振って、夏油に向かって声を掛ける。
夏油は私のほうを見て、それからひらっと軽く手を振り返してくれた。
私は、夏油のことが好きだ。


正体わからない人物というのは、魅力的なものである。
いつだったか、何かの本で目にした言葉。
当時はさっぱり意味が解らなかったけれど、今ならよーくその意味がわかる。
自分が、正体のわからない男を好きになってしまったからだ。

私たちが拠点にしているマンションの一室のソファの上。向かいに座って本を読む男に私はじとりと視線を向けた。

「ねぇー、夏油ー、そろそろ名前教えてよー」

夏油というのはこの目の前にいる男の名前で、尋ねているのも目の前にいる男の名前。
この男は夏油であって夏油ではない。何を言っているんだ?と思われそうだが、事実なのだから仕方がない。

「別に夏油が偽名だっていうんじゃないさ。これだって今は数ある名のひとつだ」
「それはそうかもしれないけどぉー」

夏油は、肉体を乗り移ることの出来る術式を持っているらしい。
で、この肉体は「夏油傑」という男のもので、ちょっと前に入手した身体なんだとか。
私は野良の呪詛師で、たぶん術式を買われて一派に加わることになった。私の術式は質量を押しつぶして消失させること。それが証拠隠滅に役立つからとか恐らくそういう理由。

「好きなひとのことは何でも知りたいものじゃん?」
「まるで普通の女の子みたいなことを言うね」
「ひどい、恋する乙女になんてこと言うの」

じろりと睨んでみても、夏油は涼しい顔をしている。
私はきっとこの男のペースを乱すことなんて、一生できやしないと思う。

「夏油の前の名前も、その前の名前も、ぜーんぶ知りたいわけ。この乙女心がわからない?」

私がそう主張すると、夏油は本を閉じてくすくすと笑った。

「じゃあ、好きな子に興味を持ってもらうために、秘密の多い男を演じたい男心をわかってくれるかい?」

そう言って、夏油は身を乗り出すと、人差し指で私の顎をつうっと撫でる。
人間のあたたかさがあるはずなのに少しもそれを感じないフラットな温度が、彼の存在の奇怪さをまざまざと物語る。
ああ、やっぱり好き。

「私のこと好きでもなんでもないくせに」
「そんなことはないさ」

夏油はまたソファに戻って、読みかけの本を開く。
あ…あるけみ…?背表紙に書かれた文字を読もうとしたけど、何語かよくわかんなくて読めない。
夏油は変な本ばっかり読んでいる。

「ねぇ、どうしたら私のこと好きになってくれる?」
「ナマエのことはもう結構好きだよ」

またそう嘯く夏油に「そんな冗談はいいから」と釘を刺すと「信じてくれないのかい?」と返ってきた。嘘つけ。

「例えばほら…お金…は夏油困ってないもんね。うーん、じゃあ好き勝手嬲れる人間10人見繕ってきたらとか、レアな呪物見つけてきたらとかさぁ」

恋愛感情というものは、損得勘定だ。と私は思っている。
私という存在が相手にとってどれだけ有用かを示し、その対価に愛を得る。等価交換。お金や欲望を愛に変換する錬金術。
この手の錬金術には今までさっぱり興味がなくて、何からどうやって愛を精製すればいいかも全くわからない。

「残念ながら、嬲れそうな人間にもレアな呪物にも特に困ってないんだよね」

ほら、こう言われてしまったら、私はもう何を差し出せばいいのかもわからなくなってしまう。
夏油はちらりとその細い視線を私に寄越す。

「私は本当に、君に興味があるんだ。暴いてしまいたいくらい」
「げと…う…?」

ひんやりとした空気に、身動きが取れなくなる。寒くなんてないはずなのに、まるで心臓がまるごと凍ってしまうみたい。

「君の術式は物理法則を超えている。もちろん呪術に単純な物理が通用するとは思ってはいないが…それにしても、どれだけの質量であっても消失させるというのは、どういう仕組みなのかと思ってね」

夏油は開いた本をまた閉じて、今度はテーブルの上にそれを置いて立ち上がる。私の座るソファの隣に腰かけて、今度は太ももから膝小僧に向けて手を這わせる。
ぞくりと粟立つような感覚を逃がそうとしていたら、耳元で小さく囁かれた。

「見せてくれるかい、君の中身、すべて」

私はその声に成すすべもなく、こくりとゆっくり頷いた。


「げとーおかえり!」
「ただいま。今日も元気だね、ナマエ」

私たちがビーチバレーに区切りをつけて浜へ戻るころには、夏油は袈裟姿から緩いアロハに着替えていた。ビーチチェアに寛いでいたから、私はその上に跨るようにして身体を預ける。滴る海水が容赦なく夏油を濡らしていく。

「今日はどこに行ってきたの?」
「今日は渋谷だよ」
「渋谷ぁ?」

私の声に、夏油は「そう、渋谷」と言った。私のせいですっかりずぶ濡れになってしまったというのに、夏油は嫌な顔のひとつもしない。
アロハはじんわりと色を変えて、夏油の身体のラインを浮かび上がらせるようにして湿っていく。

「なんで渋谷?」
「詳しくはまた話すけど…とっても楽しい事をしようと思って」

その下見。夏油はそう言って、まるでいたずらをする子供みたいな顔で笑う。
今度は何をするつもりだろう。人間見繕って真人に訓練つけたり、宿儺の指集めたり。なにか大きな目的があるんだろうことはなんとなくわかるけれど、私はそれを少しも知らされていない。

「10月31日、五条悟を封印するんだ。私の計画のためにね」
「殺さないの?」
「殺せるなら殺したいところだけど、六眼の無下限呪術使いはそう簡単に殺されてくれないだろうからね」

まぁ確かに。五条悟って本物は見たことないけど、呪術界ではその名前を知らない人間はいないだろうと思うほどの有名人。
でもなぁ、夏油だって充分強いと思うんだけど。頭がいいし、経験がある。それに今使ってる肉体の術式はかなり強力だ。駆け引きの上手い夏油ならその力を存分に使うことができるだろう。

「私も、渋谷でお仕事ある?」
「ああ、もちろん。手伝ってくれると嬉しいな」

夏油の大きな手が、私の頬に触れた。
相変わらず、熱いか冷たいかもよくわからない。だけどそれが心地よかった。

「夏油の手伝いできるの、嬉しいな」
「ふふ、可愛いことを言ってくれるね」

夏油の上に寝そべるように寄りかかると、夏油は私が落ちてしまわないようにそっと腰を支えてくれた。
あの日から、夏油は私にこの距離を許すようになった。けれどそれは、気持ちが通じたという意味ではないように思う。むしろすれ違っている。
好きなひとの身も心も手に入れることが出来たらどんなに素敵なことだろうとは思うけれど、肉体を乗り換えて生き続けるこの男では、身体を手に入れたところでそれは他人のものでしかない。
じゃあ心は?と思っても、一体どれだけの時を生きているかもわからないこの男に、そんなものがあるのかどうかは甚だ怪しい。

「これが終わったら、私の本当の名前を教えてあげよう」

これって一体何のこと?渋谷でのお祭り?それともあなたの計画のすべて?
尋ねたって教えてくれないことはわかっていたから、私は夏油にキスをした。

「ねぇ夏油、あなたの世界に私は必要?」
「もちろんさ」

嘘つき。どうせ夏油、私のことどっか殺すつもりなんでしょ。
知ってる。けど、それでもいいかなって思っちゃうんだから、私は本当にどうしようもない女なのだ。

「あー、また夏油とナマエいちゃいちゃしてるー!」
「あ、真人」
「羨ましいのかい?真人」

そうだ、ここ、陀艮ちゃんの生得領域じゃん。真人の声によって唐突に引き戻されて、私はばっと上半身を持ち上げた。
すぐ後ろの真人は気持ち悪いものでも見たかのように顔を歪めている。

「そんなワケないだろ。人間のアイとかコイとか気持ち悪いじゃん」
「おや、真人は愛のすばらしさを知らないのかい?」
「夏油にだけは言われたくないんだけど」

まぁ、それはそうかも。
「それより」と真人が切り出して、話は次に移っていく。気持ち悪いものを見にわざわざ来たというわけではないようだ。

「ナマエ、陀艮がスイカ割りしたいって!やり方教えてよ」
「うん、いーよ」

私はそれを了承して、夏油の上から立ち退いた。
陀艮ちゃんの姿を探せば、波打ち際にちょこんと立っていて、その隣に砂浜に立派なスイカがころんと置かれている。どこで調達したのかは知らないけれど。

「夏油はあとから食べる?スイカ」
「スイカ割りして食べられる状態だったらね」

それは確かに。私はともかく、真人と陀艮ちゃんの一撃を受けてスイカがマトモに形を保っている可能性はかなり低い。
真人が「早く!」と呼ぶから、私は急いでふたりのもとに行こうとして、三歩で立ち止まって振り返る。
口元に緩く弧を描いた夏油と目が合った。

「ねぇ夏油、私のこと、最後まで愛してね」

それがあなたの愛だっていうなら、私はそれで死んでもかまわないんだよ。名前も知らない男にこんなに傾倒するなんて、私って本当にどうしようもない。
等価交換。お金や欲望を愛に変換する錬金術。
私が死んだら、この命はどんなものに交換してくれるの。

「ナマエー?」
「いま行くー!」

長い長いあなたの人生のなかに、ちょっとだけ爪痕のこしてみたいの。なんてね。


戻る






- ナノ -