ランナーズハイ


好きな男の子に夜食姿を見られること以上に恥ずかしいことが、この世にあるだろうか。
いや、多分そりゃあるんだろうが、いまこの瞬間、私にとってはそれが最も恥ずかしいことのように思えた。

「ふ…伏黒…」
「あぁ、ミョウジ、起きてたのか」

ずるる。カップ麺をすすった。伏黒に見つかってしまって死ぬほど気まずいというのに、カップ麺はちゃんと美味しい。人間て所詮そんなもんだ。
伏黒は水を飲みに来たようで、共有の冷蔵庫から記名したペットボトルを取り出すとキャップを開けてひとくちゴクリと飲んだ。
それからじっと私を見る。

「な…なに…?」
「…お前、この前太ったとか言って騒いでなかったか?」

かっちーんと頭に来ると同時に、暗に「お前最近太ったよな」と言われたような気になって、私の心臓にでかでかとヒビが入る。
こんなことって、こんなことって。私はもう手にしていた箸を取り落とすくらいのショックを受けた。そのあと伏黒が何か言ってたようだけど、頭には何ひとつ入ってこなかった。


「虎杖…ランニング付き合って」

翌朝、私は虎杖がひとりのところをひっ捕らえて言った。虎杖は頭の上にはてなマークを飛ばしている。
なぜ野薔薇じゃないかというと、野薔薇はスタイルが良くて美人なので、隣にいるだけで心が折れそうになるからだ。

「いいけど…朝?夜?」

虎杖は特に深い事情を尋ねることなく快諾してくれた。本当にいいやつ。
私は虎杖の時間の提案に、どちらのほうがいいかと考えを巡らせる。朝…は起きれない。でも夜疲れて走れるかなぁ。うーん、でも夜食を防止するということを考えても、夜のほうが良いのかもしれない。走って、シャワー浴びて、そのままパッと寝ちゃおう。それがいい。

「…夜で」
「オッケー。今日からやる?」
「おねしゃす」

善は急げ。いや善ではないけども。
とにかく、そう、思い立ったが吉日というやつだ。私は虎杖に今晩の予定を取り付け、自らの脱夜食生活に思いを馳せたのだった。

授業が終わったその日の夜。私と虎杖は寮から少し離れたところで待ち合わせた。このランニング計画を伏黒や野薔薇に知られたらいたたまれないからである。
ジャージを着て気合十分。虎杖と揃っていちにのさんしとストレッチをする。

「今日は軽く流す?」
「うん。とりあえず軽く流して徐々に強度上げたい」
「了解」

心拍数やら走行距離やらを計測できるランニングウォッチのボタンを押し、私と虎杖は夜の山の中を走り出した。
頬を伝っていく風が気持ちいい。日中と違って、虫の音がリリリリと聞こえてくる。
ロードワークは授業でも自主トレでもするけど、夜に走ることは殆どないから新鮮だった。

「ミョウジ、スピード上げる?」
「うん、ちょっとだけ」

虎杖は何も言わずに隣を走ってくれているが、あいつにしたら随分のろのろとしたロードワークになってしまうんだろう。虎杖走るの速いし。
高専の敷地内をだいたい一時間弱。敷地内と言っても山ふたつ分もあるから、周回しなくてもいいのが利点だ。
はぁはぁ私が息を切らしていて、隣の虎杖はフウと息をつくに留めている。あーやっぱり。虎杖には準備運動にもなんないんじゃないの。
入り口近くの自販機で水を買い、二人してクールダウンする。本当は甘いジュースとか飲みたいけど、そこは我慢だ。

「なんで急にランニング付き合って何て言い出したん?」

不思議そうな顔で虎杖が尋ねてくる。そりゃそうだろう。私が虎杖でも急にランニング付き合えなんて言われたら「なんで」って思うに決まってる。
私はきょとんと返答を待つ虎杖を前に、ぐっと口ごもり、それから意を決して吐き出した。

「…った…から…」
「え?」
「ふ、伏黒に太ったと思われたから!」

思ったよりも大きな声が出てしまった。でもこれは昨晩受けたショックと比例するものだから許されたい。
虎杖はぽかんとした顔で、次に話すべき言葉を探しているようだった。

「あのさ、それ伏黒が言ったん?」
「はっきり言われてはないけど!あれは絶対そういうことだったもん!」

そう。はっきり言われたわけではない。けれど伏黒だって絶対そう思ってる。
痩せて、スタイル良くなって、ちょっとでも綺麗になりたい。それで伏黒が振り向いてくれるかは別問題だが、打てる手はすべて打たなくては。


虎杖との夜のランニングは任務のある日以外順調に続いた。
特別口止めしたわけではなかったけれど、虎杖は伏黒にも野薔薇にもこのランニングのことは言っていないようだ。どこまでもいいやつ。
事件はランニングを始めて二週間ほど経った日に突如起きた。

さて今日も今日とてランニングに出かけよう、とジャージを着て寮を抜け出そうとしていたとき、寮からすっと抜け出ると、すぐそばの建物からすっと人影が伸びてきた。

「虎杖?」

寮の近くで鉢合わせるなんて珍しいな。人影にそう声をかけ、私は自分の判断が間違っていたことをすぐに思い知った。

「ふ、伏黒…!?」
「…悪かったな、虎杖じゃなくて」

人影の正体はすっかりリラックスモードのスウェット姿の伏黒だった。
なんでこんな時間に!今まで一度もこんなところで会ったことないのに!
私が驚いて状況を処理しようとあれやこれや考えていたら、不機嫌な顔の伏黒が小さく言った。

「…ミョウジ、お前最近夜遅くにどこ行ってんだよ」
「な…何のこと…?」

私がそうしらばっくれると、次に伏黒はじとっと疑うような視線を寄越した。
本当のことなんか言えるもんか。伏黒に太ってると思われたくなくてランニングしてますなんて。

「虎杖と毎日こそこそ出掛けてんだろ」
「や、それはその…」

虎杖と一緒ということまでもう割れてるらしい。それならいっそ言ってしまうか?
そうだ、それこそ「伏黒に太ってると思われたくなくて」を「体力つけたくて」とか「健康のために」とか言い換えればいいだけだ。いや健康のためて。

「えっと、あの…その…」
「…そんなに言いたくねぇならいい。引き留めて悪かったな」

ぴしゃり。冷たく空気が割れた気がした。
伏黒はそう言って踵を返すと、寮の方へ戻って行ってしまう。「伏黒!」と呼んでみたけど、振り返ってくれなかった。無視された。今のが聞こえないはずない。私は意図的に、伏黒から無視をされた。
どうしよう、と呆然とそこに立っていると、数分で虎杖が姿を現した。
「どったの?」と声をかけられ、私は「べつに…」とかなんとか返事をした。正直なんて返事をしたのかはちゃんと覚えてない。

「ミョウジ、今日おかしいって。ペースも上がんないし、体調悪いなら無理しないほうがいいんでないの」

その日のランニングの終わりに、虎杖が言った。ご指摘の通り、私の今日の走りは散々だった。
ペースは保てない、なんもないところで躓く、スタート地点に戻るころにはいつもの二倍くらい息を切らしていた。

「ミョウジ?」
「どうしよう、虎杖」
「何が」

呆れたみたいな伏黒の顔。呼び止めてもそのまま行ってしまった背中。
たった一回のそんな態度で、と思う自分もいるけれど、そのたった一回でポキリと心が折れてしまった自分がいるもの事実だ。

「ふ、伏黒に…嫌われちゃった…」

言葉に出してみると、事態はもっと深刻なように思われた。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。もう修復不可能かもしれない。だって伏黒、私のこと無視して歩いて行っちゃった。呆れたみたいな顔は何度も見たことあるけど、呼び止めても無視されるなんて初めてだった。

「え、ちょ…ミョウジ!?」
「い、虎杖ぃ…」

ぐっと奥歯を噛みしめる。みっともないぞ、こんなことで泣くなんて。そう思うのに、熱くなる目頭は抑えられない。
気が付くと涙がぽろぽろ落ちていった。

「だからさぁ、それ伏黒が言ったん?」
「い、言われては…ないけど…だって無視されて…」

やばいやばい。不細工な泣き顔を晒してこれ以上虎杖に気を使わせるわけにはいかない。そう思うのに涙は止まらなくて、私は思わずその場にしゃがみこんだ。
頭上でおろおろとする虎杖の気配に、今度はピリッとした空気が割り込む。

「おい虎杖、お前何した」

やばい。さいあくだ。伏黒が来た。なんでよ、こんな寮から離れたとこになんで来るんだよ。
私はますます顔が上げられなくなって、膝を抱えるようにして不細工な泣き顔を隠す。見ないで。これ以上伏黒に幻滅されたくない。こんな。

「いやいやいや、どっちかって言うとしてんのはたぶん伏黒だからね!?」
「は?」
「えーっとその、これ以上は俺の口からは言えんけど!とにかく伏黒なんか絶対誤解してっから!」

虎杖はそう言って、伏黒はまだ怪訝な声音で「何がだよ」と不機嫌に言った。
いまのうちに涙を止めないと。涙を止めて、体調が悪いとでも言い訳しないと。

「俺はミョウジとランニングしてただけ!今ミョウジが泣いてんのは伏黒のこと!ちゃんと話し合ってから戻って来いよ!」

虎杖は私と伏黒を置き去りに寮のほうへと走って行ってしまった。ちょっとまって、まだ行かないで!そう言おうとしてハッと顔を上げたけど、虎杖はもう豆粒みたいに小さくなっている。
どうしよう、と思っていると、ザリ、と視界の端で伏黒が動く気配がした。

「…ミョウジ」
「あの、ごめ…伏黒…泣き止む!泣き止むから!嫌いにならないで…」

もう頭の中はパニック寸前だった。むしろパニックを起こしていた。
私の前に伏黒はしゃがむと、ぽつんと零れ落ちるみたいな声で言った。

「…嫌いになんかなるかよ」

伏黒のほうは見れないまま涙だけを袖口で拭うと、スウェットの裾が目に入る。お風呂ももう入った後だろうに、わざわざどうして出てきたんだろう。
ちらっと伏黒を確認すると、多分お風呂上がりの、いつもよりしんなりしている髪をがしがしとかきむしった。

「…こそこそ虎杖と毎晩のように出かけてくし、お前は誤魔化すし、イライラして余裕なくなってた」
「それは…」

伏黒がじっと私を見て、だからぴったり目線が合ってしまって、身長差があるからこんなふうに目線がおんなじ高さになるなんてそうそうないことで。

「ランニング、俺が付き合う。だから虎杖と二人っきりで出かけんな」

何それ。まるで嫉妬してるみたいな言い方。そんなん伏黒も私のこと好きみたいじゃん。
気が付いたら涙がぴたりと止まっていた。変なの。苦しさが全部ドキドキに変わってしまった。

「ミョウジ」

伏黒の指がそろりと近づいてきて、私の手にちょこんと触れた。
二週間前の夜の食堂で伏黒が「お前全然太ってねぇのに」と言っていたことを知るのは、実にこの一週間後のことだった。


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