お返事ください




※伊地知さんの幼少期を全力で捏造しています。


止め、跳ね、払い。
ひとつひとつを意識しながらペンを進める。

「潔高くんは字が綺麗だよねぇ」

小学生の時、私にいつもそう話しかけてくれる女の子がいた。
当時の私はひどく内向的で、いや、今も根本的には変わっていない気がするけれど、とにかく今以上に人とコミュニケーションを取ると言うことが苦手だった。
他人には見えないものを見える私は、親こそそんな態度は取らなかったものの、同級生や周囲の大人からは異質な存在として扱われることもままあり、私の内向的な性格に拍車をかけた。

「そう…かな…?」
「そうだよ、私なんてお習字通ってるのに見て、このヘロヘロの字!」

そう言って、彼女は「成長」と書かれた半紙を見せる。先週習字の時間に書いたものだ。
ヘロヘロ、と言う表現がまさにぴったりで、止めも払いもめちゃくちゃ。先生の朱色の墨でいくつも訂正箇所を指摘されている。

「潔高くんはお習字習ってる?」
「な、習ってないよ…」
「うそ!習ってないのにこんなに綺麗なの?すごい!」

彼女は決まって私の字を手放しに褒めそやした。褒められると言うことにあまり慣れていなかった私はいつもどういう反応を返せばいいか分からずに、曖昧に視線を逸らすことしかできなかった。

小学校の五年という中途半端な時期に、私は父の都合で転校することになった。
多少の不安やさみしさはあったけれど、転校すること自体はそれほど悲しいとは思わなかった。思うほど学校に何の思い入れもなかったからかもしれない。
最後の登校日の帰り道、通りかかった通学路にある公園で彼女に会った。

「潔高くん!」
「ミョウジさん…?」

彼女はぐっと顔をしかめていて、ランドセルの肩ひもを強く握っている。
彼女の家はたしかもっと南で、こんな道は通らないはずだ。私を待ち伏せていたのだとすぐにわかった。
ミョウジさんはランドセルから一通の封筒を取り出した。

「引っ越しても私のこと忘れないでね、お手紙お返事ちょうだいね」

彼女はそう言ってわんわん泣いた。
私は差し出された手紙を受け取って、彼女につられてぐずぐずと泣いた。
受け取った手紙には「潔高くんが好きです」と彼女のヘロヘロの字で書いてあった。
私はその手紙に返事を書こうとして、いや、実際何度か書いて、結局一度もポストに投函することは出来なかった。
もう十数年も前の話になるが、私は未だ彼女の手紙も、自分が出せなかった手紙も、ずっと処分することが出来ないでいる。


「伊地知ィ、なんか甘いもんないの?」
「クッキーとマドレーヌがありますよ」
「あれ、羊羹なかった?僕今日和菓子の気分なんだけど」

甘党上司を前に私はお茶菓子用の棚の中を思い浮かべる。
なんで来客用の戸棚の中身を把握しているんだ、と言ってしまいたくなったが、このひと相手に詮無いことだと追及することは辞めた。

「来客用なので今日はクッキーかマドレーヌで勘弁してください」
「えー、いいじゃん。そんなんまた買ってくれば」
「今からその来客なんですよ」

ちらりと時計を確認する。もうすぐ約束の時間になる。
私自身も先ほど五条さんの送迎から戻ったばかりで、今から道すがら来客の資料の確認をしなければならない。
この来客対応は本来他の補助監督に割り振られたはずの仕事だったが、その補助監督が任務中の事故でとてもじゃないが通常業務にあたれなくなってしまったのだ。
私は戸棚からマドレーヌとクッキーを取り出し、足癖悪くテーブルに投げ出された五条さんの足からなるべく離れた場所にそれを置く。そのあと羊羹を取り出して、五条さんに「失礼しますね」と断って扉の方へ足を向けた。

「ちなみに来客ってなに?」
「新しい窓の方の面談です」

応接室まで歩く間、他の業務の連絡の電話が入ってしまって、結局来客の資料は斜め読み程度にしか確認出来なかった。仕方ない、面談を進めがてらしっかり確認をしよう。
私は事務室に辿り着くと他の補助監督に羊羹を渡し、お茶を出してくれるよう頼んだ。それから応接室の前に立ち、ジャケットと眼鏡を整えてから扉をノックした。

「失礼します」

応接室のソファには、女性がひとり腰かけている。見たところ私と同じくらいの、二十代半ばのように見える。
さっき斜め読みした資料によれば、都内の一般企業に勤める会社員で、術師が任務中に保護したらしい。その際に呪いの視認が出来るとわかり、窓の話が持ち上がったという。そこそこよくあるパターンだ。

「あれ…潔高くん…?」

私はその声に、まじまじと目の前の女性を確認した。
髪は茶色く染められ、化粧で少し顔だちも変わっているようだが、あの幼いころの面影があった。

「ミョウジさん?」

私は資料にもう一度目を通す。ミョウジなんて名前はどこにも書いていなかったはずなのに。
やっぱりだ。下の名前はナマエさんだけど、苗字が違う。

「ふふ、こんなところで会うなんて、すごいねぇ」

ああ、そうか。
何を驚くことがあるんだろう。女性なら大人になって苗字が変わるなんて、珍しいことでも何でもないのに。

「本当に。すごい偶然ですね」

私は目一杯口角を上げて、なんとか言葉を吐き出した。
べつに、四六時中彼女のことを考えていたわけでもない。今まで他に好意を寄せた女性だっていなかったわけじゃない。
だけど彼女は、ミョウジさんは私の中で特別だった。ふとした瞬間に、返事を出すことのできなかった手紙のことを思い出しては、何と返事を出せばよかったのかと未だに未練がましく思いを巡らせる。
彼女は私の初恋だった。


彼女が窓として登録され、懐かしさから一緒に食事に行くような仲になった。
正直対人関係の希薄だった小学校時代の思い出なんて共有できるほどなかったけれど、それでも彼女と話すことが楽しみで、食事に行かないかという彼女の連絡には仕事が入っていない限り必ず了承した。

「潔高くんさぁ、すっごい仕事出来るねぇ」
「そうでもないですよ」
「またまたー。昔から頭良かったけど、超出来る男って感じ」

ふふふ、と彼女は楽しそうに笑った。
私は彼女を未だミョウジさん、と呼んでいる。もう苗字が変わってしまっていることはもちろん解っていたけれど、認めたくない気持ちの表れかもしれなかった。
食事をする店は、だいたい交代で提案し合って、私はなるべく個室になってしまわないような店を選んだ。
けれどその日は彼女の番で、選んでくれたのは少し照明を落とした個室の、いわばそういう、デートで使うような雰囲気のいい店だった。

「潔高くんは何か飲む?」
「いえ、明日は朝から五条さんの迎えがありますので、今日はノンアルコールで」
「えっ、早いの?そんな日に誘っちゃってごめん」
「あはは、五条さんの迎えはいつものことですから」

酒は飲んでも一杯か二杯だけ。元々あまり強い方ではないし、彼女の前で失態を晒したくない見栄もあった。
私はウーロン茶を、ミョウジさんはハイボールを注文した。
彼女との食事は楽しい。丁寧に人の話を聞こうという姿勢は好感が持てるし、呪術界ではあまり聞かないような一般企業の話も興味深い。

「大変ですね、OLさんは」
「補助監督さんほどじゃないと思うよ。セクハラ上司はいても、危ないことは何にもないしね」
「でも、大変さなんて人それぞれですよ」
「潔高くんは人間が出来てるなぁ」

「そんなことありませんよ」と曖昧に笑った。本当にそんなことはないのだ。
人間が出来ているならちゃんとあの日手紙に返事をするか、そうでなければ懐かしい思い出として、こうもずっと引きずることはないだろう。
それに、ただ食事をしているだけとはいえ、こうも頻繁に、伴侶のいる異性と二人きりで過ごすこともしない。私は未だ未練がましくミョウジさんのことが好きなのだから、なおさら。

時間はどれだけ遅くなっても23時までと決めていた。これは彼女の決めごとでなく、私の中で勝手に決めていることだった。
彼女と過ごす時間はあっという間だ。仕事をしている間も時間の経過は早く感じるが、それ以上だ。
会計はだいたい割り勘にしていて、奢ってもらうと次が誘いづらいから、という彼女の申し出だった。

「ねぇ、また誘っていい?」
「…ミョウジさんさえ、よければ…」

帰り際、店を出て駅までの道のりで、ミョウジさんが言った。別に彼女に下心があるわけじゃない。純粋に、昔を懐かしむ気持ちやそういった気軽さから声をかけてくれているんだろう。
でも、旦那さんがどう思うかを考えれば、あまり良くないことだともわかっている。
もしも自分が旦那の立場であったら、きっといい気はしない。

「あの…ミョウジさん」
「ん?」
「その…今度は誰か、別の方も誘いませんか」

隣を歩く気配が止み、私も足を止めると、ミョウジさんが1メートルほど後ろで立ち止まっていた。
人通りのあまりない道で、安っぽい街灯がミョウジさんを上からぼうっと照らしている。

「私は、潔高くんと二人がいいんだけど…」

ダメだった?と、彼女は困ったように笑った。
ダメだ。ダメに決まってる。だってこれ以上二人っきりで過ごしたら私はーー。

「その…旦那さんに、誤解されるのは、ちょっと…」
「旦那?」

ミョウジさんはきょとん、と首を傾げた。
彼女はきっと私の気持ちなんて知りもしないし、私とどうこうなるとか少しも考えていないだろうからピンときていないんだろう。

「旦那って…誰の?」
「え?」

今度は私が首を傾げる番だった。
私とミョウジさんの距離1メートルの間を、言い得ぬ妙な空気が漂う。

「いえ、ミョウジさんの旦那さん…」
「私、独身だよ?」

ミョウジさんは左手で自分を指さした。
私は思わずその薬指を見る。いや、指輪がないことは知っている。でも指輪をしていないからって結婚していないとは限らない。
現に彼女は。

「え、ですけど苗字が…」
「あ…ああ!そういうことね!」

私が指摘すると、なるほどなるほどといったふうに彼女が頷く。

「私、両親が高校のときに離婚したの。だから苗字変わったんだけど…言ってなかったっけ」

いや、聞いていない。
何度か食事に来ているが、苗字の話題は私が避けていたから言うタイミングがなかったんだろうということは容易に想像がついた。

「…やっぱり、潔高くんと二人っきりは、ダメかな?」

ミョウジさんが1メートルの距離をあっさり詰め、くんと私のスーツの袖をひいた。これにどういう意味が含まれているか推測できないほど、私はもう子供ではなかった。
私は彼女の手をゆっくりと解き、やんわりと華奢な手を握った。

「昔、引っ越しのときにもらった手紙なんですが…」
「うん」
「今からでも、返事を書いて、いいですか」
「もちろん」

ミョウジさんは握った手を一度解き、それから丁寧な動作で指と指を絡ませた。
その距離に心臓がどきどきと脈打ち、薄暗い中でも顔が赤くなってしまっていることを、きっと彼女には悟られてしまうだろう。
それだけ近くにミョウジさんがいた。

「私ね、美文字習ったんだよ。今見たら潔高くんびっくりしちゃうかも」

そう言って彼女が笑った。
ミョウジさんの止めも払いもめちゃくちゃなヘロヘロの字を思い出す。あれはあれで愛嬌があって可愛らしかったが、今は一体どんな字を書くんだろう。
私はまた、あの手紙への返事を書く。ずっと出すことのできなかった返事を、ようやく伝えることが出来そうだ。


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