ファム・ファタールの血肉について


教祖というのも楽じゃない。
毎日毎日金のためとはいえ猿の相手をして、キーキー喚く鳴き声に耳を傾けてやらねばならない。
とはいえ、こうしてこんな苦行に耐えていられるのは、最愛の妻の存在に支えられているからだ。彼女は私のファム・ファタールである。
私は妻であるナマエと、高専で出逢った。


谷崎曰く、恋愛は芸術である。血と肉とを以て作られる最高の芸術である。
高専に入学して間もないころ、彼女に大失態をみられたことがある。

「夏油くん?大丈夫?」

同級生のミョウジナマエ。
取り込んだ呪霊の処理がうまくいかず、校舎の裏で胃液を吐いた。喉が焼けるようで、生理的な涙が目尻に滲んだ。
普段は誰も来ないような場所なのに、この日に限って運悪くミョウジが通りかかったらしい。こんなところを同級生に見られるなんて最悪だ、と思いながら立ち上がろうとすると、それよりも早くミョウジが目の前にしゃがみ、目尻に浮かんだ私の涙を親指でぐっと拭った。

「夏油くん、私とセックスしよっか」
「あ?」

普段より低くかすれた声だった。凄んだようにさえ聞こえそうな私の声に、ミョウジはひとつも動揺することなく、ふふふ、と声を上げて笑った。

「苦しいのは、私がぜーんぶなくしてあげる」

その日から、彼女と私の歪んだ関係が始まった。


「夏油くん、調子どう?」

食堂から寮へと続く廊下で、ミョウジがひらりと手を振って言った。
これはいつの間にかお互いの中に生まれた合図で、都合の合わない日には「報告書があるから」と言うのが暗黙の了解になっていた。
彼女がその言葉を使ったことは何度かあるが、私が使ったことは数えるほどしかなかった。

「ああ、割といいよ」

彼女の厄介なところは、誰といるときでも堂々とその合図を送ってくるところにある。
今日だって隣の悟が興味津々で私とミョウジを交互に見ていた。

「なに、傑ってミョウジと仲良かったっけ?」
「普通だよ」

私は訝しむ悟を適当にあしらい、寮への廊下を歩く。悟はずっと隣で「さっきの何」と問い詰め続けてきて、ほら見ろ、とここにいない彼女に心の中で言った。


深夜0時。彼女の寮室の前で扉を小さくノックすると、来訪が何者かを確認することもなく扉が開かれた。
上はオーバーサイズのスウェットでズボンは履いておらず、白く細い足が晒されている。大体彼女の部屋を訪れるときはこんな格好で出迎えられるのだけれど、寮室とはいえもう少し気を遣ったらどうなんだと一度言った時には「でも、夏油くんくらいしかこんな時間に来ないよ」と、二の句を失う返事が返ってきた。

「あ、夏油くん。今日遅かったね」
「悟を撒くのに手こずったんだ」

そうなんだ、と他人事のように笑う。そもそも君があんなところで合図をするからなんだけどな。

「シャワー使う?」
「いや、部屋の使ってきた」
「そうだよね、シャンプーの匂いする。私この匂い好きよ」

ミョウジはそう言って私の首元に顔を近づけ、すんすんと何度か鼻を鳴らした。
それからミョウジは私の手を引くとベッドの上に座らせ、膝の上に足を大きく開いて跨る。

「夏油くん、キスしていい?」
「キスは駄目」

彼女の寮室には、壁一面に書棚が持ち込まれ、これどもかというほど書籍が詰まっている。
主に日本文学、図鑑、それから聞いたこともないような西洋画家の画集。隅々まで見分したことがあるわけではないので、これは一見した印象でしかないが。
特に目を引いたのが、全三十巻に及ぶ谷崎全集だった。それは一冊ずつ化粧箱に納められ書棚の一段と半分を締めていて、ベッドの上に座るといつもそれらと目が合った。

「どうしたの?」
「いや、何でもない」

性行為の最中、ふと視線のようなものを感じて顔を上げると、必ず三十巻のうちのどれかと目が合う。それは十巻であったり六巻であったりした。
ミョウジは私の様子には気づくことなく、いつも従順に、また艶めかしくその身体を開いた。
不純だ。なぜ、こんなこと。
そう思うのに、彼女を前にすると私はひとつの言葉さえ失った。


任務のない休日、高専の図書室でうっとりと本を眺めるミョウジを窓越しに見かけた。何の本か、というのは聞くまでもなくわかった。彼女の部屋で何回も見た、あの化粧箱を同じ色をした表紙だったからだ。
私はミョウジがいなくなったタイミングを見計らって図書室に向かい、彼女のいただろう棚のあたりを物色する。
ーーあった。

「全集の…第二巻…」

他の全集が触れられもせず少し埃を被ってしまっているなか、第二巻だけは棚の手前に真新しく移動した跡があった。彼女が開いていたのはどうやらこの巻らしい。
あんな表情で見つめられるこの本たちは、いったいどんな気分なんだろうか。私はパラパラとページをめくった。
気まぐれで手を止めたページの文字をじっと目で追う。端麗な文章のつくりは芸術とさえ思えた。

「恋愛は芸術である、か」

もしあの日、私じゃない誰かがうずくまっていたとしても、彼女はきっとそいつと寝ていただろう。そう考えると、腹の底がぐつぐつと煮えるように熱くなった。

「…傲慢だな」

私とミョウジは、恋人などでは決してなかった。
私たちがセックスをするのは、先日のように何でもない日ということもあるけれど、一番多いのは私が呪霊を取り込み、もっと言うとそれに手こずっている日だった。
強い呪霊を取り込んだ日には、ときおり身体を内側から暴かれるような、焼かれるような、耐え難くグロテスクな気分になることがある。
それを紛らわすように行われるセックスは私にとって都合がよかった。彼女がどう思っているかは、知らないけれど。


その日三件の重い任務が立て続き、一級呪霊を複数体短時間で取り込んだ。
質量はないはずの呪霊の塊がひどく重く感じ、私はなかば身体を引き摺りながら寮に帰ってきた。

「あ、夏油くん。今帰り?」

深夜というのに彼女は日中と変わらないのんきな笑みを浮かべて手を振った。
私はその顔を見て、そこまで張りつめてた緊張の糸がぷつんと切れ、途端に足に力が入らなくなった。

「えっ、えっ、嘘でしょ」

私は寮の廊下の壁に背を預け、ずるずると座り込むと、彼女が慌てて駆け寄ってきた。
くそ、こんな、かっこ悪い。

「どうしよう、怪我…は、してないよね?医務室まで歩ける…わけないか」
「大丈夫…いつもの、だから…こうしていればじきに動けるようになる」

ミョウジは私の傍にしゃがんで、俯く私を覗き込んだ。
いつもの、というだけで彼女には伝わったようで、華奢な指が私の背を優しくさすった。

「私の部屋、すぐそこだから、気分がよくなるまで休んでいきなよ」

ミョウジの指さす先には、見慣れた彼女の寮室があった。私は無意識のうちに、自分の寮室ではなく彼女の寮室に向かっていたらしい。
嘘だろ、と思ったものの、それを検証するのも、彼女の申し出を断るのも億劫で、私は彼女に抱き起こされる力に身を任せ立ち上がった。
引きずるような動作で見知った彼女の部屋に転がり込むと、そこでもう一度体の力が抜けてしまい、彼女もろともベッドに倒れ込んだ。

「うわっ…!夏油くん、大丈夫?」
「ん、へい…き」

彼女はセックスをするときと同じ丁寧さで私の制服の上着を脱がせ、ハンガーにかけると、今度はベルトを外し、ズボンを抜き取る。
今までお互いの服を脱がし合うなんて何度もしたことがあるくせに、その気がないときにこういう風にされると、言い得ぬむず痒さがあった。

「お疲れだねぇ、気が済むまで休んでいきなよ」

ミョウジは私の隣に寝そべり、背をぽんぽんと叩いてそう言うと、いつの間にか髪ゴムも外されていて、私はすっかり寛げられていた。
ミョウジの薄い手のひらが私の髪を弄び、それからまるで慈しむような丁寧さで梳いていった。


明け方、まだ朝陽の昇らない時間に目が覚め、私は体を起こすと頭を振って昨晩の記憶を辿る。
確か深夜に高専に帰投して、呪霊の取り込みに手こずったんだった。それで、なんとか寮までは戻ってきて…。
と、そこまで考えたところでもぞもぞと布団の動く気配がした。

「ん、あぁ夏油くん、おはよ」
「ミョウジ…?」

そうだ、昨日はどうしてだか無意識のうちに彼女の寮室のほうへ歩いてきてしまったんだった。しかもそこで力尽きて、招き入れられたミョウジの部屋で眠ったんだ。
彼女の部屋には何度も足を踏み入れたことがあるけれど、朝まで部屋にいたことは初めてだった。

「すまない、面倒をかけたね」
「ぜーんぜん。なんか朝まで夏油くんがいるって新鮮」

ふふふ、とミョウジが笑った。カーテンの隙間から陽光がさしこみ、帯になって彼女の真っ白な肌の上を横断する。
その神聖とさえ感じさせる光の反射に、私は息を飲んだ。まさか、今まで自分が散々欲望のままに抱いた女のようには見えなかった。

「もう起きる?朝ごはん作ったげよっか」

うんと伸びをして、布団の中から這い出る。無造作な髪に寝癖がついていて、そのあどけなさとキャミソールの隙間から覗く肌の色気に眩暈がした。
彼女が私の返事を待たずにベッドから降りようとするから、私は咄嗟にその腕を引いて留まらせた。「夏油くん?」と、ミョウジが不思議そうに私の名前を呼ぶ。

「抱かせてくれ」

私の言葉に、ミョウジはうんと綺麗な顔で笑った。
私はミョウジの虜になってしまっていた。その不安定なゆらぎと、恍惚と完成された気配に足元を捕らえられ、離し難いとさえ思うようになってしまっていた。

「ミョウジ…」
「夏油くん、キスしていい?」

いままでキスを拒んでいたのは、自分の身に宿された術式により穢れたくちで、誰かと触れ合いたくないからだと思っていた。
けれども実のところ、本質はそこにはなかったのかも知れなかった。

「…いいよ」

きっとキスをしてしまえば、私は彼女に溺れてしまう。そんな予感がしていたのだ。
首すじを舐め上げる。ミョウジの声が鼻に抜け、それが私を静かな興奮へと導いてゆく。
私は彼女を抱いた。その皮膚の下に秘められた血と肉をありありと感じながら、逃がさないようぎっちりと強い力でもってシーツに縫い付けた。

「…夏油くんさ、知ってる?恋愛は血と肉で出来てるんだって」

ミョウジが裸のままシーツに包まり、唐突にそんなことを言った。
私が「誰の言葉?」と聞けば、「谷崎の捨てられる迄」と返ってきた。なるほど、そういえばそんな言葉があったけれど、正確には少し違う。

「それを言うなら、血と肉とを以て作られる最高の芸術である。だろ」
「あ、知ってた?」

知っていたわけじゃない。ミョウジがあんなにもうっとりとした顔で文字を追っているから、私もうっかり読んでしまったのだ。
恋愛が血と肉を以て作られる最高の芸術だというのならば、それは私にとってミョウジの事なのかもしれない。
白く朝陽に照らされる肌のしたには、血と肉が漲っている。

「君は、私のファム・ファタールだな」

私はそう零して、彼女の鎖骨に口づけた。
くすぐったい、と言って笑って身をよじり、逃れようとする体を抱きすくめる。宙に行き場をなくした手首には、私の手形がついていた。


「傑くん、起きて」

軽やかな声に揺り起こされ、私は瞼を上げた。
随分と、懐かしい夢を見たな。
おはよう、と挨拶をして、隣で寝転がっているナマエの目尻を撫でた。

「寝坊なんて珍しい。そんなに楽しい夢見てたの?」
「そうだね、君と出会った頃の夢だよ」

あれこれと言葉を尽くし、私はナマエを口説き落とした。とはいえ、こうして人の道を離れた今もこうして私についてくるのだから、彼女も随分と酔狂な女である。

「あ、そういえば昔、傑くん私のことをファム・ファタールだって言ったでしょう。あれ、すごく心外なのよね」
「どうして?」

ナマエは唇を尖らせ、拗ねたような調子で言った。
私はナマエになら破滅させられてもいいとさえ思っているのだけれど、どうやら彼女はお気に召さないらしい。

「だって私、妲己やサロメじゃなくって、ずっと傑くんのマリア様になりたかったのよ」
「マリア様?」
「そう。傑くんの苦しいのぜーんぶなくしてあげられるマリア様」

ふと、ナマエに初めて誘われた日のことを思い出した。ああ、嘘だろ、あの時から君は。
彼女の好意に由来する、その身を使った綿密で強かな計画に気づいてしまった。
私はナマエを口説き落としたとばかり思っていたが、実のところまんまと彼女の術中に嵌っていたらしい。

「傑くん、朝食はパンとワインでいいかしら」

恋愛は、血と肉を以って作られる最高の芸術である。

「ナマエのお気に召すまま」

やっぱり君はファム・ファタールだよ。
計算高くて慈しみ深い、どうしようもなく私を翻弄する、運命の女だ。


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